第110話 舟に乗る人
舟の人が来た時、俺は木を握っていた。
水路を描いた、あの見取りだ。
三つ夜を越した朝、ノエの集落に人が増えた。
イナと俺たちは、ここにもう少しいることを元の集落へ伝えてあった。
待っている間、俺はノエたちの仕事を手伝い、イナは子どもと木の実で遊んだ。
水辺から上がってきた男が、魚の入った籠を下ろす。
ナギが声をかけた。
先日、水の上で手を上げた相手らしい。
俺は木を持って近づいた。
男が俺を見る。
「サエ」
自分を指すと、男も名を言った。
「……ウロ?」
男は口元を動かし、もう一度言った。
「ウル」
「ウル」
今度は頷いた。
俺は木を差し出しかけた。
その時、籠の中で魚が跳ねた。
一匹、地面へ落ちる。
男と俺は、同時にそちらを見た。
*
先にしゃがんだのはウルだった。
俺も手を伸ばしたが、魚は彼の指の間を抜け、俺の足元へ滑った。
両手で押さえる。
冷たい。
思ったより力がある。
籠へ戻すまで、男が蓋を持って待っていた。
ようやく収まると、ウルが俺を見て笑った。
「ありがとう」
知っている音だった。
俺も笑った。
聞きたかったのは水の先だったが、最初に通じたのは魚のほうだった。
*
ウルは、魚と引き換えに欲しいものがあるという。
集落の女が、まとめていた乾いた木の実を見せた。
ウルは木の実の籠を覗き込み、一つ手に取る。
二人が話す。
俺には数の言葉が幾つか分かった。
魚を並べ、木の実を分け、また少し戻す。
俺の木の見取りは、その横で待っていた。
ノエが来て、俺の手を見る。
「サエ。まだ」
「まだ」
頷くと、彼女は俺の掌に残った魚の匂いを嗅いだ。
眉を寄せる。
俺も嗅いだ。
確かに魚だった。
ノエは笑い、水を使える場所を指した。
木の見取りを脇に置き、手を洗いに行く。
戻った時には、魚と木の実の行き先が決まっていた。
*
ウルが、俺の木を覗き込んだ。
ナギとトワもそばへ来る。
俺は水路の線を指した。
「ここ。舟、乗った」
草を抜けた先の水面を、掌で示す。
ウルは頷いた。
それから、少し離れた丸を見る。
「ここ。人」
前に会った舟の男から、先にも集落があると聞いた印だ。
ウルは丸を見て、首を傾げた。
俺は胸の内で身構えた。
間違っているのか。
だがウルは、木を取り上げたり、線を消したりしなかった。
地面にしゃがみ、枝を一本拾った。
「ここ」
点を置く。
その先へ、曲がった線を引いた。
さらに、その途中に小さな印。
俺が丸を示すと、ウルは手を上げた。
まだ先がある、という仕草だった。
*
水路に沿って、幾つかの印が並んだ。
ウルは一つ目を指し、舟を寄せる仕草をした。
二つ目では、櫂を持ち上げる。
指先を地面へつけ、浅さを示す。
三つ目の脇には、風を避けるように手をかざした。
俺の木では、水の形ばかりを追っていた。
ウルは、途中でどこに寄れるかを示していた。
「ここ。休む?」
俺が一つ目を指すと、彼は頷いた。
「ここ。浅い?」
二つ目も頷く。
三つ目は、俺の発音が違った。
ウルが笑いながら言い直す。
真似すると、ナギがもう一度ゆっくり言ってくれた。
俺は口の中で繰り返した。
道を知る前に、口がつまずく。
森と同じだった。
*
日数を尋ねると、ウルは指を折った。
風が穏やかなら、向こうへ着くまで二つ夜を越す。
途中の岸で休む。
風が強ければ、もっと待つこともある。
トワが聞き返し、泊まる場所を確かめた。
俺も、二つの夜を指で数えた。
日が二度沈む。
それまで、水の上を進む。
ナギは丸を見て、ウルに別のことを尋ねた。
途中で俺の知っている音が聞こえる。
「水。先」
ウルは丸からさらに先へ指を伸ばした。
そこで手を止める。
何かを話し、首を振った。
トワが俺に向き直った。
ウルが自分で行ったことがあるのは、その集落まで。
先にも水は続くと聞いたが、自分の目では見ていない。
俺は頷いた。
聞いたことと、歩いたこと。
木の上では、離しておこう。
*
イナとノエも、いつの間にかそばにいた。
イナが水路の印を見て、ウルへ何か尋ねる。
ウルは風を示し、舟が進まない仕草をした。
イナはナギに聞き返し、休める岸を確かめた。
ノエはその間、自分の子が向こうへ走っていくのを見送った。
いつも一緒に過ごす女が、火のそばで手を上げる。
子どもはそちらへ行き、足元に座った。
ノエが戻り、俺の隣へしゃがむ。
俺の手の下から、木の見取りを少し引いた。
「見えない」
「ああ。ごめん」
ウルも覗き込む。
イナが俺へ顔を寄せた。
「サエ。隠す」
「隠してない」
二人の手が同時に伸びてきた。
俺は慌てて手を上げた。
ようやく、全員に見える場所ができた。
ウルは笑い、地面に描いた道の途中へ、小さな石を置いた。
「ここ。泊まる」
俺はそれを見た。
帰れなくなった時の話ではない。
遠くへ行くために、前から決めておく場所だ。
*
夕方になる前に、ウルは荷をまとめ始めた。
交換した木の実を受け取り、籠の紐を締める。
俺は手伝おうとして、彼のそばへしゃがんだ。
ウルが紐の端を渡す。
引いて押さえると、彼は反対側を結んだ。
指を離しても、籠は開かなかった。
ウルが荷を持ち上げる。
俺は、木の見取りを示した。
「また。聞く、いい?」
ウルは頷いた。
そのあと、水のほうを見る。
ナギへ何か言うと、ナギが俺を呼んだ。
「サエ。次」
*
ウルは、もう一度遠い集落へ行く予定があるという。
今すぐではない。
次の魚を届け、必要なものを持ってから、風の具合を見て出る。
舟には、荷と一緒に一人なら乗せられる。
四つ夜を越したあと、ウルはもう一度この集落へ立ち寄るつもりだった。
そこで、風と荷を見て出る日を決める。
一緒に行くなら、その時までに返事を聞かせてほしいという。
ウルは地面の線を指し、途中の岸を示した。
荷をどこへ置くか、舟の中で動く時は声をかけること。
ウルは乗り方を、手で示しながら話した。
俺は分かるところまで繰り返し、トワにも確かめてもらった。
「一人」
俺が指を立てると、ウルは頷いた。
ノエとイナを見る。
二人とも、話を聞いていた。
ノエは、火のそばの子どもへ一度目を向けた。
イナは、地面に残った泊まり場の印を見ている。
俺は、自分から遠い場所へ行きたいと言った。
いつか、その先に、俺が来た場所を考える手掛かりがあるかもしれない。
ただ、水が続いているだけかもしれない。
それでも、行ってみたかった。
*
「サエ」
イナが呼んだ。
顔を上げる。
「行きたい?」
俺は頷いた。
「行きたい」
イナは少し黙った。
それから、泊まる場所を指した。
「戻る。何日?」
俺は答えかけ、やめた。
行きに二つ夜を越す。
向こうで何をするのか。帰る日に舟が出るのか。
それはまだ聞いていなかった。
ウルを見る。
彼も、俺を見ていた。
俺はもう一度、地面へしゃがんだ。
「戻る。いつ?」
ウルが線の先へ指を置く。
ウルは、向こうで一晩休んでから戻るつもりだと言った。
行きと帰りの途中にも、それぞれ泊まる。
風や水の具合が悪ければ、待つ。
俺はナギとトワにも確かめ、指で数えた。
風に待たされなければ、行きと帰りに二つずつ、向こうで一つ。
合わせて五つの夜だ。
日をぴったり決めることはできない。
それでも、戻るつもりの道と、待つ場所は分かった。
俺はイナとノエへ、聞き取れたことを伝えた。
イナが、途中の岸をもう一度指す。
ノエが何か尋ね、ウルが答える。
俺は二人の顔を見た。
どちらも、すぐには笑わなかった。
イナは出る予定を聞き、ノエは水辺でウルと会う場所を確かめた。
*
ウルが帰ったあとも、地面には線が残っていた。
風で、端が少し崩れている。
俺は木の見取りを持ち、さっきの舟着き場だけを写した。
ウルから聞いた場所だと分かるよう、歩いた道とは少し離す。
ノエが隣に座った。
「一人。行く」
俺は、彼女を見た。
「まだ。決めてない」
ノエは頷いた。
そのまま地面の丸を見つめる。
「サエ。見たい」
問いではなかった。
「うん」
俺が答えると、彼女は俺の手に触れた。
指を握りかけ、少しだけ迷う。
俺が掌を上へ向けると、ノエは握った。
ノエの指先は、木の上の線より温かかった。
彼女は何か言いかけ、子どもの声に顔を向けた。
俺もそちらを見た。
イナが子どもに木の実を渡している。
*
少し離れたところで、イナが子どもに木の実を渡していた。
子どもは二つ受け取り、地面へ並べる。
俺が見ていると、イナが顔を上げた。
「サエ」
彼女は、俺の荷のほうを示した。
「帰る。話す」
イナと俺は、近いうちに元の集落へ戻る。
ウルの話も、まだ元の集落の人たちには伝えていなかった。
「うん。話す」
俺が答えると、イナは頷いた。
子どもが俺にも実を差し出す。
受け取ると、イナがその小さな実を俺の掌から取った。
自分とノエの間へ置く。
「サエ。行く時、言う?」
「言う」
ノエが俺を見る。
俺は二人へ、もう一度言った。
「決めたら。二人に、言う」
ノエが頷いた。
イナは木の実を俺に返す。
「忘れない」
子どもが手を伸ばし、俺の実に触れた。
遊ぶ約束も、忘れていないらしい。
俺は地面へしゃがんだ。
四つ夜を越したら、ウルがまた来る。
その時までに、俺は返事をしなければならない。
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