第109話 同じ水を見に
ノエの子が、イナの手を取った。
俺ではなかった。
二人を見て、それから地面を指す。
手には木の実がある。
「俺は?」
尋ねると、子どもは俺を見た。
指を一本立てる。
少し離れた地面を指した。
そこに座れということらしい。
俺はイナと顔を見合わせた。
彼女は笑いをこらえ、子どもについていった。
*
イナがノエの集落へ行きたいと言った日のあと、俺はトワに道を確かめた。
前に歩いた道を、一緒に行けるという。
向こうへ戻る用事のある人がいたので、ノエにも先に話を届けてもらった。
数日後の朝、俺とイナはトワと出た。
明るいうちに着いたが、子どもは俺たちが荷を下ろすのも待てなかった。
俺はイナの荷を受け取ろうとして、先に自分の荷を置けと手で示された。
言われたとおりにする。
その間に、ノエが家から出てきた。
俺とイナを見る。
イナも、子どもに引かれたまま足を止めた。
ノエが先に声をかけた。
イナが答える。
短い挨拶のあと、少し間があった。
子どもが二人の間へ木の実を差し出す。
ノエはそれを見て笑い、イナに何か言った。
イナも笑った。
二人とも、俺より先に試合の相手を決めたらしい。
*
夕方、食べ物を囲んで座った。
イナとノエは、家を空けてきた日のことや、子どもの話をしていた。
俺は、分かる言葉が出るたびに耳を動かした。
「サエ」
名前が聞こえた。
顔を上げる。
二人は俺を見ていなかった。
ノエが両手を広げる。
イナが何か言い、ノエが答えた。
水の話だろうか。
それとも舟か。
ノエが俺のほうを見た。
「サエ。持つ?」
何を。
聞き返すと、彼女は近くの籠を指した。
中に残った木の実だった。
俺は一つ取った。
イナが笑っている。
「何?」
尋ねると、イナはノエに何か言った。
ノエも笑った。
二人の会話を全部知ろうとする前に、食事を終えたほうがよさそうだった。
*
夜、ノエは水辺へ行きたいとイナに話した。
俺が見た場所。
イナは頷き、自分も見たいと答えた。
二人の指が、木の見取りの同じところに止まる。
ノエが子どもを見た。
その子は、家のそばで小さな実を並べている。
「行く?」
俺が尋ねると、ノエは少し考えてから首を振った。
道は遠く、倒れた木を越えるところもある。
明日は、いつも子どもと過ごす女と留守番するらしい。
ノエは子どものところへ行き、目の高さを合わせて話した。
子どもは一度、俺たちを見た。
何か言い、ノエが答える。
最後に、子どもは自分の実を一つ握りしめた。
戻ってきたらまた遊ぶと、俺にも確かめる。
「うん。戻る。遊ぶ」
頷くと、イナが俺を見た。
「サエ。負ける」
「まだ、やってない」
言い返したが、子どもはもう勝った顔をしていた。
*
翌朝、俺とイナ、ノエ、トワの四人で出ようとすると、ナギが声をかけてくれた。
この前、俺たちと水辺へ行った男だ。
今日も同じほうへ行く用があるという。
俺たちは五人で歩き出した。
前に三人で歩いた道を、俺も覚えていた。
ただ、倒木を回る場所だけは、同じに見える枝が幾つもある。
俺が足を止めると、ナギは少し先の幹を指した。
折れた枝の白いところが、地面のほうを向いている。
あれだった。
「覚えた」
俺が言うと、ナギは頷いた。
すぐ後ろで、ノエが俺の背を軽く押した。
「行く」
「うん。行く」
イナはその横を通り、先に幹を越えた。
俺も続く。
自分が先頭だったら、ここでしばらく枝を眺めていたかもしれない。
*
水辺へ出る少し手前で、俺は二人に振り返った。
「もう、少し」
ノエが歩幅を速める。
イナも木々の隙間を見た。
草を抜ける。
水が開けた。
ノエが足を止めた。
イナは一歩、前へ出た。
水面の上を風が渡り、波が細かく揺れる。
この前、舟から見た広い水面は、曲がり角の先だ。
ここから見えるのは、その手前の水だった。
それでも、二人はしばらく動かなかった。
「ここ。サエ、見た」
ノエが言う。
「舟。あっち」
俺は草の向こうを指した。
ノエは指の先を見て、それから俺を見る。
「風。来た?」
舟が広い水面へ出た時の話を覚えていたらしい。
俺は両手を広げた。
「こう。来た」
ちょうど、その時。
風が止まった。
水面が静かになる。
俺の両手だけが、広がったままだった。
イナが俺を見る。
ノエも見る。
ナギまで見る。
「……さっきは、あったんだ」
日本語で言うと、背中のほうで草が揺れた。
全員がそちらを見る。
風は、俺の後ろを通っていった。
*
水際には近づきすぎず、固いところを歩いた。
イナがしゃがむ。
草の茎に、細いものが幾つも引っかかっていた。
枯れた葉と、小さな枝。
少し離れた木の根にも、同じ高さに泥がついている。
イナはそれを見比べ、ナギに尋ねた。
ナギは頷き、今の水面から根元へ手を上げた。
雨のあと、水がそこまで来たらしい。
俺は現在の岸を見る。
その間には、俺たちが歩けそうな平たい土があった。
今は乾いている。
けれど、いつも通れる場所ではないのだ。
ノエが少し先へ行き、低い木の脇を指した。
地面に、踏まれたような細い筋がある。
ノエは、前に木の実を集めた森に似た木を見つけたという。
ここまで道が続くかは、まだ分からない。
ナギが少し入って足を止めた。
水から離れたところに、倒れた木が見える。
向こう側は、行きに通った道だった。
トワも確かめ、頷いた。
帰りに、ここを歩いてみることにした。
俺は木の見取りを出した。
イナが、泥の跡と今の水面を交互に示す。
ノエは、高いほうを指でたどる。
俺は見取りの端に小さく印を置いた。
まだ歩いていない道だと、忘れないように。
今は通れる岸。
水が高い時は、使えないかもしれない岸。
木に全部は描けない。
だから、イナにもう一度、泥の位置を示してもらった。
目で見て覚えたかった。
*
ナギが、少し先の水面を指した。
舟が一艘、草の間から出てきた。
俺には、乗っている人の顔がよく見えない。
ナギが声を上げると、舟の上から腕が上がった。
ナギがまた声をかけた。
舟の人も何か答え、水面の先を指す。
二度、短いやり取りをして、舟はそのまま進んでいった。
俺は手を上げかけ、下ろした。
ここでは、水の上を人が通る。
その当たり前を、俺はまだ見慣れていなかった。
ナギが舟の先を指し、トワと話した。
聞き取れたのは、日を数える言葉だけだ。
尋ねると、ナギは指を三本立てた。
三つ夜を越したあと、あの人が魚を持って、ノエたちの集落へ来るつもりだと答えたらしい。
天気や仕事で変わるかもしれないが、そこでなら話せるかもしれない。
俺は舟が小さくなるのを見た。
その先にある集落へ、いつか行けるだろうか。
*
帰る時刻になり、ナギが空を示した。
俺は頷いた。
ノエが最後にもう一度、水面を見た。
イナも隣へ立つ。
さっきより風が強く、二人の髪が同じほうへ流れた。
ノエが自分の髪を押さえ、イナに何か言った。
イナが答える。
俺は二人の少し後ろで待っていた。
ノエが俺を振り返る。
「サエ」
彼女は空いた場所を示した。
俺が隣へ行くと、イナも少し身体を寄せた。
三人で、しばらく水を見た。
舟の男が話した、もっと広い水は、ここからは見えない。
けれど今日、二人に見せたかった場所へ、一緒に来られた。
帰りは、ノエが見つけた高いほうへ入った。
低い枝をよけ、倒木の脇へ出る。
行きに通った場所だった。
濡れた岸へ戻らずに済んだ。
俺は木の見取りを取り出し、さっきの印から道へ線を延ばした。
ノエが覗き込む。
「ここ。歩いた」
「うん。歩いた」
彼女は頷き、先に歩き出した。
イナがその後を追い、途中で手を伸ばした。
ノエの髪に、小さな枯れ葉がついていた。
取って見せる。
ノエが笑う。
イナも笑った。
俺は木の見取りを抱え、二人の後ろへ続いた。
*
集落へ戻ると、子どもが駆けてきた。
ノエがしゃがみ、抱きとめる。
子どもは彼女の肩越しに、俺たちの顔を順に見た。
「水。見た」
俺が言うと、子どもは何か尋ねた。
イナが足を止める。
手で水の高さを示し、ノエの肩越しに話し始めた。
子どもはノエから離れ、イナのほうへ顔を向ける。
ノエも立ち上がり、その隣で、帰りに通った道のことを話した。
子どもは真剣に聞いていたが、風の話になると俺を指した。
俺は両手を広げかけた。
二人が先に笑った。
*
火のそばで荷を下ろすと、ノエが隣へ来た。
「サエ。水、見せた」
彼女は笑った。
「ありがとう」
「うん」
俺が答えると、ノエは俺の手を一度だけ握った。
その向こうでは、イナが子どもと木の実を並べている。
ノエは二人を見て、手を離した。
それから俺に、火の向こうを示す。
「三つ。夜」
舟の人が来る予定の日だ。
イナも顔を上げた。
「サエ。聞く?」
俺は木の見取りに置いた、離れた小さな丸を思い出した。
まだ知らない水路の先。
「聞く」
その人が来たら、先へ行くのに、何日かかるか。
そして、どこまで水が続いているのか。
今度は、聞きたいことが決まっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




