第108話 持ち帰ったもの
「もう一度」
ノエが言った。
俺は、両手を広げる。
「水。広い」
「違う」
彼女は首を振り、俺の膝を指した。
魚が跳ねたところか。
両手で魚を作り、ぴょんと跳ねさせる。
ノエは笑わなかった。
今度は、舟に乗る仕草をした。
さっき俺が話した、舟の縁に座った時のことだ。
片足を入れたところで揺れて、慌てて腰を下ろした話。
「そこ?」
彼女は頷いた。
「そこ、もう一度」
俺は火のそばの丸太に腰を掛けた。
片足を上げる。
身体を少し揺らす。
「低く」
トワの真似をすると、ノエが吹き出した。
「もう、低い」
俺が答えると、後ろからも笑い声がした。
振り向く。
トワがいた。
最初から聞いていたらしい。
トワが俺の隣へしゃがむと、水をかく仕草をした。
俺が岸へ身を乗り出した話まで始める。
子どもが俺の膝を押した。
「おい。これは舟じゃない」
日本語で言うと、ノエがまた笑った。
*
夜、食事が終わると、子どもは母親の膝に頭を載せた。
さっきまで元気に笑っていたのに、もう目が閉じかけている。
ノエは子どもの髪を指でよけ、額に触れた。
俺が話した水のことを、子どもも聞きたがった。
だが、舟が曲がり角を抜ける前に眠ってしまった。
ノエは起こさず、そのまま寝床へ運んだ。
俺も入口までついていく。
草の敷物へ下ろすと、子どもは寝返りを打った。
ノエが薄い獣皮を掛ける。
小さな手が外に出たので、彼女はもう一度掛け直した。
それでも指先だけ出てきた。
俺が見ると、ノエは小さく肩をすくめた。
どうやら、いつものことらしい。
*
外へ出ると、火は少し小さくなっていた。
ノエが隣へ座る。
俺たちは、しばらく火の中の赤い木を見ていた。
「舟。怖い?」
ノエが尋ねた。
「乗る時。怖い」
俺は答えた。
水がすぐそばにあって、自分が動くだけで舟が揺れた。
けれど、草の向こうへ出た時の風も覚えている。
「でも。見る、うれしい」
ノエは俺の顔を見た。
「今も」
「今も?」
彼女は自分の頬を指で押し上げた。
笑っているということらしい。
俺は自分の口元に触れた。
そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。
ノエの指が、俺の手首に触れる。
手を下ろすと、彼女はそのまま指を握った。
「また。水、行く?」
「行きたい」
知っている言葉を探して、言い直す。
「もっと先。見たい」
ノエは、つないだ手へ目を落とした。
しばらくして、俺の顔を見る。
「サエ。水、見る」
彼女は俺の目元を指し、自分も笑ってみせた。
「私も。見たい」
あの景色を、彼女にも見せたいと思った。
ノエが、舟をこぐ仕草をした。
俺は思わず彼女を見た。
「ノエ。舟、乗る?」
「小さい時。一度」
指を一本立てる。
「一度?」
もう一度確かめると、ノエは何か言い足した。
舟から落ちたわけではないらしい。
だが、途中で怖くなって、降ろしてもらったことは分かった。
「低く、なった?」
俺が聞くと、ノエは俺の腕を押した。
さっきより強かった。
*
「次。見る?」
俺は尋ねた。
「一緒に?」
ノエはすぐには答えなかった。
子どもが眠る家を見る。
それから俺へ向き直る。
「行きたい」
舟とは言わなかった。
まずは、あの水辺まで。
行ける日を確かめてから、トワやナギにも道を聞く。
そういう話を、俺たちは短い言葉と手で確かめた。
ノエは少し考えてから、俺の胸元へ手を伸ばした。
イナにもらった灰色の貝が出ている。
彼女は触れず、俺の顔を見た。
「イナ。水、知る?」
「まだ。話す」
明日、戻ったら見取りを見せたい。
それを伝えると、ノエは頷いた。
少しして、もう一度俺を見る。
「イナも。行く?」
俺はノエを見た。
彼女のほうから、イナの名が出るとは思っていなかった。
彼女は笑わず、俺の返事を待っていた。
「聞く」
そう答えた。
ノエは膝の上へ目を落とし、握っていた指を少し緩めた。
それから、もう一度握った。
「私。イナ、また話す」
声は小さかったが、俺には聞き取れた。
「うん」
俺が答えると、ノエは肩を寄せた。
髪が腕に触れる。
家の中で、子どもが寝返りを打った。
ノエがそちらを見る。俺も見る。
それきり音はせず、彼女はまた肩を預けた。
*
翌朝、ノエの子は約束どおり木の実を持ってきた。
三度遊んで、今度は俺が一度しか勝てなかった。
「強い」
そう言うと、子どもは胸を張った。
ノエが笑い、俺の掌へ一つ木の実を載せた。
昨日遊んだものより、小さい。
「持つ」
「俺?」
「練習」
子どもまで頷いた。
昨日勝った二度は、もう数に入っていないらしい。
俺は木の実を受け取り、荷の中へしまった。
*
昼を過ぎて、俺とトワは元の集落に着いた。
イナは魚を干す場所にいた。
俺を見ると、手にしていたものを置いた。
「帰った」
「帰った」
イナも同じ言葉を返し、俺のそばへ来た。
手に触れ、荷と一緒に握っていた指をほどいた。
「重い?」
「少し」
彼女は赤くなった掌を見て、笑った。
「先。置く」
俺はようやく荷を下ろした。
イナの指は、そのあともしばらく俺の手に残っていた。
*
水を飲んでから、俺は木の見取りを広げた。
イナが隣へ座る。
俺は歩いたところから指でたどり、水路の曲がりで止めた。
「ここ。舟」
舟の男が直した岸の線を示す。
草の向こうに、広い水があったこと。
その先にも人が暮らし、舟で行き来していると聞いたこと。
舟で見たところまで指でたどる。
その先の丸には、舟の男から聞いた話を添えた。
イナは、少し離して描いた丸に触れた。
「行く?」
「いつか。行きたい」
今すぐではない。
どれくらい遠いのかも、どうすれば行けるのかも、まだよく分からない。
イナは俺の顔を見て、それから丸の手前へ指を置いた。
「ここは?」
舟で見てきた水辺だった。
「行ける。歩く。ナギ、道、知る」
俺は少し迷ってから、言った。
「ノエ。そこ、見たい」
イナの指が止まった。
俺は続ける。
「イナも。行く?」
彼女は俺を見る。
ノエがそう言ったことも、俺は伝えた。
しばらく、イナは木を見つめていた。
白い貝を指で触り、離す。
「ノエ。私に?」
「一緒、行く? 聞いた」
イナは、すぐには答えなかった。
やがて、木の端を押さえて尋ねた。
「子どもも?」
俺は首を振った。
そこは、まだ話していなかった。
イナが少し考える。
「ノエ。聞く」
俺に言ってから、彼女は木の水辺を指でなぞった。
「私も。見たい」
胸が軽くなった。
*
イナが立ち上がる。
寝床のほうへ行き、浅い器を持って戻ってきた。
中には、出かける前に置いていった木の実がある。
彼女はそれを取り出し、俺へ渡した。
「次」
俺は荷から、ノエの子がくれた小さな実も取り出した。
二つを掌に並べる。
「向こう。練習、言われた」
イナが小さいほうをつまむ。
「子ども。くれた?」
「うん。俺、負けた。練習」
彼女は小さな実を俺の掌へ戻し、自分の実を地面に置いた。
「今。する」
「今?」
彼女は頷いた。
「子ども。あと」
イナが自分の実を指で押した。
「先。私」
俺は彼女の顔を見た。
口元が、少し得意そうだった。
荷を下ろしたばかりだ。
だが、約束は約束だった。
*
俺の実は、目印の手前に止まっていた。
あと一度、うまく弾けば届く。
次はイナの番だ。
彼女は地面へ顔を近づけ、自分の実と、俺の実を見比べた。
まさか。
先にやったのは俺だ。
イナの指が動く。
乾いた音がした。
彼女の実が、俺の実の端をかすめる。
俺のほうが横へ逃げ、イナの実はそのまま目印に触れた。
「私の勝ち」
俺は地面を見た。
それからイナを見る。
「昨日、練習?」
彼女は首を振った。
「今日」
俺が帰る前に、置いていった実で練習したらしい。
どれくらいやったのだろう。
聞くと、イナは指を一本立てた。
一度。
もう一度尋ねると、今度は三本になった。
「もっと?」
彼女は笑って、指を隠した。
*
イナは二つの実を拾い、俺へ返した。
それから、そばに置いた木の見取りを引き寄せる。
ノエの集落を指した。
「ノエ。次、いつ来る?」
俺は顔を上げた。
「まだ。分からない」
イナは少し考え、自分の胸を指した。
「私。行く」
「ノエの、ところ?」
「うん。ノエに、聞く」
水辺へ行くことも、子どものことも、会って話したいらしい。
俺は頷いた。
「道。トワ、聞く。一緒、行く」
イナは俺を見た。
それから、掌の木の実を指した。
「次。忘れない」
「子ども? 俺?」
尋ねると、イナは笑って立ち上がった。
胸元の白い貝が、夕日の中で小さく揺れた。
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