第107話 水の上の道
男の指は、木に描いた線から、はみ出した。
まだ先があるらしい。
俺は木を横へずらしかけて、やめた。
ずらしたところで、描く場所は増えない。
男が笑った。
俺も笑い、膝の上へ戻した。
「遠い?」
尋ねると、男は少し考え、舟と水の曲がり角を示した。
その先を説明しようとする。
知らない音が続いた。
トワが聞き返す。
俺は二人の手元を見ていた。
男が草の切れ目を示し、水面へ掌をかざす。
風という音は、俺にも分かった。
水の深さを尋ねるトワへ、男は膝、それから腰を示した。
歩く道なら、足元のどこを踏むか聞く。
ここでは、岸から離れたところで話が進んでいた。
*
前に乗っていた男の名は、ヨリだった。
さっき直された音をもう一度口にすると、今度は頷いた。
ヨリは俺の木を覗き込み、端を回る線へ指を置いた。
俺は、歩いてきたほうを示した。
「ここから。歩いた」
彼は尾根を見上げた。
それから舟の男へ何か言い、二人で短く話した。
舟の男が、魚の籠を岸へ上げる。
ヨリは籠を受け取り、俺たちへ水の先を示す。
ナギが話を聞き、トワを見る。
そのあとで、俺へ向き直った。
「舟。乗る?」
俺は顔を上げた。
*
舟の男は、曲がり角を抜けた先に、まだ見ていない仕掛けを残していた。
岸へ魚を運び、一度戻るところだったらしい。
その場所までなら、連れていける。
俺とトワが乗り、ヨリは岸で魚をまとめる。
ナギは、ここで待つ。
魚を下ろして空いた場所を、男が手で示した。
俺とトワを順に見て、座る位置を決める。
小さな空の籠だけが、舟の底に残された。
トワが空を見た。
男へ何か尋ね、返事を聞く。
それから俺を見る。
「そこ。見て、戻る」
俺は頷いた。
荷は岸へ残した。
木の見取りも、その上へ載せる。
舟から落としたら、今まで歩いた道まで流れてしまう。
ナギが受け取り、乾いた場所へ寄せてくれた。
男が舟を岸へ寄せ、押さえた。
トワが前へ座る。
俺には真ん中を示し、縁へ腰を下ろしてから足を入れるよう、やってみせた。
真似して座る。
片足を入れたところで、舟が揺れた。
もう片方も入れ、腰を底へ下ろす。
「低く」
トワが言う。
「もう、低い」
俺が答えると、前で肩が揺れた。
男が後ろへ乗った。
岸が、静かに離れた。
*
最初のうちは、舟の縁ばかり見ていた。
水が近い。
手を伸ばせば触れる。
電車なら隣の人の膝がある距離に、水面があった。
後ろで櫂が水へ入る。
舟が進む。
右へ寄りかけると、次の一かきで向きが戻った。
男は岸を見たり、前を見たりしている。
忙しく櫂を動かしているわけではない。
岸では歩く隙間もなさそうな草の間を、舟はすっと抜けた。
曲がり角へ入る。
右に草。左に、低い土の岸。
尾根の端だった。
根が水へ張り出し、その下だけ波が暗くなっている。
俺は岸に近いほうへ顔を向けた。
舟の男が短く声をかける。
身体まで傾けていたらしい。
俺は真ん中へ戻った。
トワが振り返った。
俺は膝に手を置いたまま、目だけ動かした。
*
草が途切れた。
急に、風が頬へ当たった。
水が広がった。
俺は口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。
向こう岸は見える。
だが、さっきまでの細い水路とはまるで違った。
水面のあちこちに光があり、鳥が低く飛んでいた。
羽が一度、水へ触れる。
その跡だけが白く残った。
トワも前を見ていた。
「トワ」
呼ぶと、彼が顔を向ける。
俺は、通ってきたほうを顎で示した。
低い岸が、水の中へ長く張り出している。
舟はその先端を回り込んだのだ。
陸のこちら側にも、向こう側にも、水がある。
木の向こうへ隠れていた水が、こちら側で大きく開いている。
俺は両手で二つの水面を作り、端を指でつないだ。
「ここ。つながる」
トワが頷いた。
俺はもう一度、岸を見た。
ノエと高い場所から見た二つの水が、これと同じなのかは、まだ確かめたい。
けれど、今通ったところは分かった。
尾根の端を回る道は、陸の上だけではなかった。
俺は、膝に置いた手を握った。
「見えた」
声にすると、トワが笑った。
「見えた」
同じ言葉が返ってきた。
*
男は岸から離れすぎず、舟を進めた。
やがて水の上へ突き出した枝を見つけ、櫂の動かし方を変えた。
舟がゆっくり岸と並んだ。
男はトワへ櫂を渡し、岸の枝へ掛けてあった紐を取った。
舟の脇から、編んだ仕掛けが現れる。
最初は軽そうだった。
底が水面を離れると、男の腕に力が入る。
中で何かが動いた。
俺は手を出しかけ、男を見た。
彼が仕掛けの縁を示す。
俺はそこを両手で支えた。
トワは櫂で舟の向きを保っている。
男が引き上げるのに合わせ、俺も肘を引いた。
魚が二匹、跳ねた。
編み目から抜けた水が、俺の膝へ飛んだ。
冷たい。
だが、手は離さなかった。
男が魚を籠へ移す。
仕掛けを水へ戻し、紐を元の枝へ掛け直した。
蓋を押さえ、俺へ頷いた。
「いい」
俺は息を吐いた。
手を離すと、指の跡が赤く残っていた。
男は籠を俺の足元へ寄せ、押さえる場所を示した。
俺は蓋へ手を置いた。
帰りは、俺の仕事が一つあった。
*
戻りは、岸の見え方が違った。
水路の入口は、正面から見ると草に隠れている。
男が櫂で一度示してくれなければ、俺はもっと先を探していたかもしれない。
中へ入る。
風が弱まり、櫂から落ちる水の音が大きくなった。
やがて、ナギとヨリが見えた。
二人は岸にしゃがみ、魚を分けていた。
降りる時も、男の言う順番を守った。
足が土へ着く。
立ち上がると、動かない地面が妙に頼もしかった。
ナギが俺の濡れた膝を見る。
「魚」
俺が言うと、舟の男が笑い、籠を持ち上げた。
中で、また一匹跳ねた。
ナギは笑い、木の見取りを返してくれた。
俺は男へ礼を言い、空いた手で魚の籠を受け取った。
ヨリのそばまで運ぶと、彼は俺の濡れた膝を見て、何も聞かずに笑った。
説明が要らないのは、助かった。
*
俺は乾いた土へ座り、木を広げた。
曲がり角の先へ、線を延ばす。
舟の男がそばへ来た。
線を見て、俺の持つ枝を指す。
渡すと、彼は岸の張り出しを描き足した。
何か説明しながら、曲がり角の位置を直す。
俺は今見た岸と見比べ、頷いた。
ナギが何か尋ねる。
男は答え、そこから先を指でたどった。
途中で止め、地面へ小さな丸を描く。
ナギが説明してくれた。
この水の先にも、集落がある。
舟で行き来する人がいる。
俺は男を見た。
「行った?」
彼は頷いた。
俺は木の空いたところへ、小さな丸を写した。
今描いた水路とは、離しておく。
間の道は、まだ見ていなかった。
続いた話には、日を数える仕草と、風を示す手があった。
今日、少し足を延ばして寄れる場所ではなかった。
俺は空を見た。
トワも同じほうを見ていた。
目が合う。
「戻る」
俺から言うと、彼は頷いた。
木の上の線は、もう出発した時より長かった。
今日は、これを持って帰ろう。
*
ノエの集落へ戻った時、まだ家々の間に日が差していた。
子どもが俺を見つけ、走ってきた。
俺はしゃがんだ。
小さな手が開く。
木の実だった。
そうだった。
俺が笑うと、子どもは俺の膝を触った。
湿ったところだけ色が違う。
顔を上げる。
「水?」
俺が頷くと、子どもは自分の膝と比べた。
そちらは乾いていた。
その後ろへ、ノエが来た。
俺の膝と、手に持った木を見た。
「見た?」
「見た」
俺は立ち上がった。
すぐに木を広げかけると、子どもが手首をつかんだ。
木の実を見せる。
先にした約束は、そちらだった。
*
三度遊んで、一度負けた。
負けた一度を、子どもはノエへ何度も話した。
俺が勝った二度は、どこかへ消えていた。
ノエは聞くたびに頷き、俺の顔を見て笑った。
子どもが少年たちのほうへ走っていくと、ようやく二人で座れた。
俺は木の見取りを間へ置いた。
ノエが指を伸ばす。
自分が描いた尾根の線で止まった。
「ここから?」
「端。歩く。ここまで」
俺は今日の道をたどった。
水際で指を止め、舟へ乗る仕草をする。
「トワ。俺。舟の人」
指を三本。
ノエが俺の膝を見た。
「落ちた?」
「違う。魚」
俺が魚の跳ねる仕草をすると、彼女はようやく分かったらしかった。
笑いながら、俺の膝を軽く払った。
俺は魚を持ち上げた時のことを、手を使って話した。
舟の縁。籠。跳ねた魚。
ノエは俺の手を目で追い、途中で何度か尋ねた。
俺も言い直した。
話していると、また水面の広がりが目の前へ戻ってきた。
草が途切れた瞬間。
頬へ当たった風。
俺は両手を広げた。
「広い。こっちも、こっちも」
ノエも木を見ながら、少し身体を寄せた。
肩が触れた。
今度は、そのまま話した。
*
日が低くなるころ、ノエが新しく加わった線へ指を置いた。
「この先?」
俺は頷いた。
「人、いる。舟、行く」
自分で描いた小さな丸を示す。
そこへ続く道は、まだ木の上にはなかった。
けれど、行ったことのある人に会えた。
ノエは丸を眺めたあと、今日戻ってきた自分たちの集落の印へ指を戻した。
「今日は。ここ」
「うん」
俺は頷いた。
彼女の指に、自分の指を並べる。
ノエが顔を上げた。
「サエ。よく、話す」
声が笑っていた。
「まだ、ある」
俺が言うと、彼女は木を二人の膝へ寄せた。
「聞く」
木の上を、二人の指が並んで曲がった。
俺は顔を上げた。
「草。なくなる。風、来る」
言いながら、空いた手を大きく開いた。
ノエも、俺の手の先を見た。
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