第106話 尾根の向こうへ
「そこで。飲んだ」
俺は、男の指が置かれた場所を見た。
木に描いた線の、すぐ外側だった。
「川?」
尋ねると、男は首を横へ振った。
掌を広げる。片手では足りず、もう片方も広げた。
それから、指先をゆっくり動かした。
水は広い。流れは遅い。
少なくとも、そういう場所らしい。
俺はトワを見た。
彼も木の見取りを覗き込んでいる。
「二つ。同じ、水?」
男は二つの印を見比べた。
しばらく考え、首を傾げる。
分からないという返事だった。
ノエが上から見た場所を説明する。
男は聞き、それでも同じように首を傾げた。
俺は頷いた。
分からないところまで、合わせてくれなくてよかった。
*
男の名は、ナギといった。
ノエたちを連れてきてくれた礼は言ったのに、名前を聞くのが後になっていた。
俺が呼び直すと、彼は少し笑った。
ナギは尾根の線をもう一度なぞった。
次に、指を横へ滑らせる。
「上、行かない」
丸い石を二つ置き、その間へ小枝を横たえた。
低い鞍のような場所。
そこへ続く道を、彼は知っていた。
ただし、歩いたのは以前のことだ。
倒れた木も、崩れた土も、今は増えているかもしれない。
トワが幾つか尋ねる。
ナギは答え、最後に自分を指した。
一緒に歩いて、道を見せてくれるらしい。
俺は顔を上げた。
「行く。俺も」
言ってから、トワを見た。
彼はナギと話し、出発する日と、戻る場所を確かめた。
ナギが道を見せられる日に合わせ、まずノエの集落まで行く。
そこで一晩休み、朝から尾根のほうへ歩く。
俺は木の見取りを膝へ戻した。
今まで、尾根の向こうには何も描けなかった。
今夜も、まだ線は加えない。
その代わり、行って確かめられることになった。
*
翌朝、イナは約束を忘れていなかった。
俺が食事を終えると、木の実を見せた。
「サエ」
二人で昨日の場所へ行く。
最初は俺が勝った。
二度目は、イナだった。
彼女の実が目印へ当たった瞬間、俺より先に顔を上げた。
「見た」
「見たよ」
俺が笑うと、イナも笑った。
昨日、悔しそうに結んでいた口元が、今は少し得意そうだった。
「もう一度?」
俺が尋ねると、彼女は入口のほうへ目を向けた。
ノエたちが荷をまとめていた。
イナは実を拾い、俺へ返した。
「次」
俺は受け取った。
また遊ぶ約束が、一つ残った。
*
集落の端で、ノエの子は少年と手を振り合っていた。
歩いては、振り返る。
そのたびに向こうの腕も上がるので、なかなか森へ入れない。
ナギが荷を持ち直して待っている間に、ノエが俺のそばへ来た。
「次。道、見る?」
「見る。トワ、ナギ。一緒」
彼女は俺の胸元へ一度目を落とした。
灰色の貝が、服の縁から少し出ている。
そのまま顔を上げた。
「来る時。私にも、言う」
「言う」
俺は答えた。
ノエの指が、俺の掌へ触れた。
握り返す。
昨日、寝床で寄り添ったときより、離すのに時間がかかった。
彼女が先に、指を緩めた。
「待つ」
「うん」
ノエが子どもの手を取り、ナギの後ろへ続く。
俺は、三人の背中が木々に隠れるまで見ていた。
*
出発の日が決まると、ノエにも知らせを届けてもらった。
イナへは、ノエの集落に泊まり、ナギとトワの三人で歩くと話した。
彼女は木の見取りを見てから、俺の荷へ目を移した。
俺が木の実まで入れようとすると、その手を止めた。
寝床の隅にある浅い器へ入れる。
「次。これ」
「帰ったら?」
確かめると、イナは頷いた。
俺の袖に残っていた指が、ゆっくり離れる。
「うん。帰ったら」
俺は木の実を置いていった。
*
ノエの集落で一晩休み、翌朝、俺たちは尾根へ向かった。
先頭がナギ。俺の後ろにトワが続く。
ノエには、暗くなる前に戻ると伝えた。
子どもとは、帰ってから木の実で遊ぶ約束までした。
行く先々で、勝負を申し込まれるようになってしまった。
*
以前ノエと歩いた分かれ道で、ナギは足を止めた。
俺たちが上がったほうを見る。
次に、枝の重なった低いほうを示した。
こんなところに道があるとは思わなかった。
葉の間へ入ると、地面は意外に固かった。
斜面を下りず、横へ歩いていく。
頭上の枝が低い。
腰を曲げ、荷を引っかけないよう身体を斜めにした。
前のナギも、同じように屈んでいた。
俺だけが遅れる道ではなかった。
少し開けたところで、彼は立ち止まった。
倒木があった。
幹が道を塞ぎ、根の側には土がむき出しになっている。
ナギは近づかず、辺りを見た。
トワが斜面の上を示す。
彼もそちらを見る。
二人が短く話し、ナギが先に上がった。
俺は待った。
足を置く場所が決まってから、後へ続く。
幹を越え、元の高さへ戻るころには、首筋に汗が流れていた。
道を知っている人がいても、以前と同じ道が残っているとは限らない。
木の線だけを頼りに来なくてよかった。
*
尾根の端へ出ると、風の匂いが変わった。
湿った泥と、青い草の匂いがする。
ナギが俺を振り返った。
口元が少し上がる。
その顔で、先に分かった。
木々の隙間へ出る。
水があった。
枝越しに光る断片ではない。
岸があり、その向こうへ水面が広がっている。
風が渡るたび、細い波が同じ向きへ走った。
俺は息を吐いた。
近づけた。
俺は振り返った。
木々の上に、尾根が見えた。
あの上から見た水だろうか。
見下ろした時には、二つの水面の間に土と木があった。
今ここから見える尾根の端は、低くなりながら水際の草へ隠れている。
その裏までは見えなかった。
俺は木の見取りを取り出し、ナギに向けた。
二つの印を指し、間に描いた尾根を指す。
「ここ。裏、水、ある?」
ナギは俺の指を見てから、岸の先へ顔を向けた。
何か答える。
トワが、尾根の端へ掌を回した。
「行く。少し、見る」
ナギも空を見て、頷いた。
ナギが平らな場所を示した。
俺はそこへ荷を下ろした。
膝をつき、木を地面へ置く。
トワが隣へしゃがんだ。
尾根の線と、今いる場所。
向きを確かめ、俺は細い枝で、端を回る道を描き加えた。
ナギが覗き込み、最後の曲がりを少し直した。
俺はそこをなぞり直した。
今度の線は、歩いた線だった。
*
見覚えのある山の形を探したが、何も思い当たらなかった。
ここが現代のどこなのか、まだ分からない。
俺は木を荷へ収め、ナギの後ろへ続いた。
岸は途中から狭くなった。
水際へ寄らず、木の根の内側を歩く。
尾根の端へ近づいたところで、俺は足を止めた。
落ち葉が、水の上を動いていた。
風に押されたのかと思った。
だが、波が岸へ寄せる合間にも、葉はゆっくり同じほうへ流れていく。
草の間に入り、見えなくなる。
その向こうへ、また別の葉が続いた。
「トワ」
呼ぶと、彼がそばへ来た。
俺は流れる葉を示した。
「水。あっち、行く?」
トワは少し眺め、ナギを呼んだ。
三人で岸を回る。
草の壁だと思っていたところに、隙間があった。
水が、奥へ続いている。
幅は、俺が腕を広げた長さよりずっと広かった。
奥は曲がっていて、見通せない。
ナギはその先を見て、短く何か言った。
トワが聞き返す。
ナギも、この先までは歩いていないらしかった。
俺は木の見取りを出しかけ、手を止めた。
二つの水を結ぶ線は、まだ描けない。
だが、この水面は、ここだけで閉じてはいなかった。
「こっちも、水」
木を広げ、短い線を加える。
曲がりの先は、空けておいた。
トワが覗き込み、見えている曲がり角を指した。
俺はそこまで線を延ばした。
隣でナギが、草の奥をじっと見ていた。
*
「舟」
ナギの声に、俺は顔を上げた。
岸の草に隠れて、長い木が横たわっていた。
内側が深く削られている。
舟だった。
細い縄が、その先から木の根元へ渡されていた。
泥には引き上げた跡があり、底の近くはまだ濡れている。
俺は木の見取りを抱え直した。
舟のそばへ荷を下ろすのは、やめておいた。
持ち主が来た時、邪魔になる。
ナギが水の奥へ顔を向けた。
木に何かが当たる、軽い音が聞こえた。
続いて、水をかく音。
曲がり角の草が揺れた。
舟の先が現れた。
一人が後ろで櫂を動かし、もう一人が前にしゃがんでいる。
足元には、魚らしい銀色が見えた。
ナギが声をかけた。
後ろの男が顔を上げる。
櫂を止め、こちらを見た。
ナギがもう一度、今度は長く話す。
男は岸の舟を示し、何か答えた。
前にいた男が、足元のものを押さえる。
魚が一匹、跳ねた。
舟が少し揺れ、二人が同時に腰を落とした。
俺まで膝に力が入った。
すぐに笑い声がした。
魚は、舟の中に残っていた。
*
男たちは、俺たちから少し離れた岸へ舟を寄せた。
ナギが近づく。
トワが俺を見てから、後へ続いた。
俺も荷を持ち、舟を引き上げる場所を空けた。
前の男が岸へ降りる。
こちらを見て、俺の服で一度目を止めた。
俺は掌を見せた。
「サエ」
男は俺の顔を見た。
それから、自分の名らしい短い音を返した。
俺は真似し、少し直された。
その間に、もう一人が魚の入った籠を持ち上げる。
下から水がぽたぽた落ちた。
俺は、舟が出てきた曲がり角を振り返った。
木に加えた短い線。
その先を、この二人は通ってきた。
俺はナギへ木を見せ、水の続くほうを示した。
「どこまで。舟、行く?」
ナギが男たちへ尋ねる。
後ろに乗っていた男が、曲がり角の奥を指した。
何か言い、両手を広げる。
ナギが俺へ向き直った。
「先。もっと、広い」
俺は木を膝に置いた。
短い線の向こうを、男の指がたどる。
今度は、その先の話が聞ける。
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