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縄文に、未来人がひとり  作者: 北野風人
帰る場所、待つ人

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106/121

第106話 尾根の向こうへ

「そこで。飲んだ」


俺は、男の指が置かれた場所を見た。


木に描いた線の、すぐ外側だった。


「川?」


尋ねると、男は首を横へ振った。


掌を広げる。片手では足りず、もう片方も広げた。


それから、指先をゆっくり動かした。


水は広い。流れは遅い。


少なくとも、そういう場所らしい。


俺はトワを見た。


彼も木の見取りを覗き込んでいる。


「二つ。同じ、水?」


男は二つの印を見比べた。


しばらく考え、首を傾げる。


分からないという返事だった。


ノエが上から見た場所を説明する。


男は聞き、それでも同じように首を傾げた。


俺は頷いた。


分からないところまで、合わせてくれなくてよかった。


*


男の名は、ナギといった。


ノエたちを連れてきてくれた礼は言ったのに、名前を聞くのが後になっていた。


俺が呼び直すと、彼は少し笑った。


ナギは尾根の線をもう一度なぞった。


次に、指を横へ滑らせる。


「上、行かない」


丸い石を二つ置き、その間へ小枝を横たえた。


低い鞍のような場所。


そこへ続く道を、彼は知っていた。


ただし、歩いたのは以前のことだ。


倒れた木も、崩れた土も、今は増えているかもしれない。


トワが幾つか尋ねる。


ナギは答え、最後に自分を指した。


一緒に歩いて、道を見せてくれるらしい。


俺は顔を上げた。


「行く。俺も」


言ってから、トワを見た。


彼はナギと話し、出発する日と、戻る場所を確かめた。


ナギが道を見せられる日に合わせ、まずノエの集落まで行く。


そこで一晩休み、朝から尾根のほうへ歩く。


俺は木の見取りを膝へ戻した。


今まで、尾根の向こうには何も描けなかった。


今夜も、まだ線は加えない。


その代わり、行って確かめられることになった。


*


翌朝、イナは約束を忘れていなかった。


俺が食事を終えると、木の実を見せた。


「サエ」


二人で昨日の場所へ行く。


最初は俺が勝った。


二度目は、イナだった。


彼女の実が目印へ当たった瞬間、俺より先に顔を上げた。


「見た」


「見たよ」


俺が笑うと、イナも笑った。


昨日、悔しそうに結んでいた口元が、今は少し得意そうだった。


「もう一度?」


俺が尋ねると、彼女は入口のほうへ目を向けた。


ノエたちが荷をまとめていた。


イナは実を拾い、俺へ返した。


「次」


俺は受け取った。


また遊ぶ約束が、一つ残った。


*


集落の端で、ノエの子は少年と手を振り合っていた。


歩いては、振り返る。


そのたびに向こうの腕も上がるので、なかなか森へ入れない。


ナギが荷を持ち直して待っている間に、ノエが俺のそばへ来た。


「次。道、見る?」


「見る。トワ、ナギ。一緒」


彼女は俺の胸元へ一度目を落とした。


灰色の貝が、服の縁から少し出ている。


そのまま顔を上げた。


「来る時。私にも、言う」


「言う」


俺は答えた。


ノエの指が、俺の掌へ触れた。


握り返す。


昨日、寝床で寄り添ったときより、離すのに時間がかかった。


彼女が先に、指を緩めた。


「待つ」


「うん」


ノエが子どもの手を取り、ナギの後ろへ続く。


俺は、三人の背中が木々に隠れるまで見ていた。


*


出発の日が決まると、ノエにも知らせを届けてもらった。


イナへは、ノエの集落に泊まり、ナギとトワの三人で歩くと話した。


彼女は木の見取りを見てから、俺の荷へ目を移した。


俺が木の実まで入れようとすると、その手を止めた。


寝床の隅にある浅い器へ入れる。


「次。これ」


「帰ったら?」


確かめると、イナは頷いた。


俺の袖に残っていた指が、ゆっくり離れる。


「うん。帰ったら」


俺は木の実を置いていった。


*


ノエの集落で一晩休み、翌朝、俺たちは尾根へ向かった。


先頭がナギ。俺の後ろにトワが続く。


ノエには、暗くなる前に戻ると伝えた。


子どもとは、帰ってから木の実で遊ぶ約束までした。


行く先々で、勝負を申し込まれるようになってしまった。


*


以前ノエと歩いた分かれ道で、ナギは足を止めた。


俺たちが上がったほうを見る。


次に、枝の重なった低いほうを示した。


こんなところに道があるとは思わなかった。


葉の間へ入ると、地面は意外に固かった。


斜面を下りず、横へ歩いていく。


頭上の枝が低い。


腰を曲げ、荷を引っかけないよう身体を斜めにした。


前のナギも、同じように屈んでいた。


俺だけが遅れる道ではなかった。


少し開けたところで、彼は立ち止まった。


倒木があった。


幹が道を塞ぎ、根の側には土がむき出しになっている。


ナギは近づかず、辺りを見た。


トワが斜面の上を示す。


彼もそちらを見る。


二人が短く話し、ナギが先に上がった。


俺は待った。


足を置く場所が決まってから、後へ続く。


幹を越え、元の高さへ戻るころには、首筋に汗が流れていた。


道を知っている人がいても、以前と同じ道が残っているとは限らない。


木の線だけを頼りに来なくてよかった。


*


尾根の端へ出ると、風の匂いが変わった。


湿った泥と、青い草の匂いがする。


ナギが俺を振り返った。


口元が少し上がる。


その顔で、先に分かった。


木々の隙間へ出る。


水があった。


枝越しに光る断片ではない。


岸があり、その向こうへ水面が広がっている。


風が渡るたび、細い波が同じ向きへ走った。


俺は息を吐いた。


近づけた。


俺は振り返った。


木々の上に、尾根が見えた。


あの上から見た水だろうか。


見下ろした時には、二つの水面の間に土と木があった。


今ここから見える尾根の端は、低くなりながら水際の草へ隠れている。


その裏までは見えなかった。


俺は木の見取りを取り出し、ナギに向けた。


二つの印を指し、間に描いた尾根を指す。


「ここ。裏、水、ある?」


ナギは俺の指を見てから、岸の先へ顔を向けた。


何か答える。


トワが、尾根の端へ掌を回した。


「行く。少し、見る」


ナギも空を見て、頷いた。


ナギが平らな場所を示した。


俺はそこへ荷を下ろした。


膝をつき、木を地面へ置く。


トワが隣へしゃがんだ。


尾根の線と、今いる場所。


向きを確かめ、俺は細い枝で、端を回る道を描き加えた。


ナギが覗き込み、最後の曲がりを少し直した。


俺はそこをなぞり直した。


今度の線は、歩いた線だった。


*


見覚えのある山の形を探したが、何も思い当たらなかった。


ここが現代のどこなのか、まだ分からない。


俺は木を荷へ収め、ナギの後ろへ続いた。


岸は途中から狭くなった。


水際へ寄らず、木の根の内側を歩く。


尾根の端へ近づいたところで、俺は足を止めた。


落ち葉が、水の上を動いていた。


風に押されたのかと思った。


だが、波が岸へ寄せる合間にも、葉はゆっくり同じほうへ流れていく。


草の間に入り、見えなくなる。


その向こうへ、また別の葉が続いた。


「トワ」


呼ぶと、彼がそばへ来た。


俺は流れる葉を示した。


「水。あっち、行く?」


トワは少し眺め、ナギを呼んだ。


三人で岸を回る。


草の壁だと思っていたところに、隙間があった。


水が、奥へ続いている。


幅は、俺が腕を広げた長さよりずっと広かった。


奥は曲がっていて、見通せない。


ナギはその先を見て、短く何か言った。


トワが聞き返す。


ナギも、この先までは歩いていないらしかった。


俺は木の見取りを出しかけ、手を止めた。


二つの水を結ぶ線は、まだ描けない。


だが、この水面は、ここだけで閉じてはいなかった。


「こっちも、水」


木を広げ、短い線を加える。


曲がりの先は、空けておいた。


トワが覗き込み、見えている曲がり角を指した。


俺はそこまで線を延ばした。


隣でナギが、草の奥をじっと見ていた。


*


「舟」


ナギの声に、俺は顔を上げた。


岸の草に隠れて、長い木が横たわっていた。


内側が深く削られている。


舟だった。


細い縄が、その先から木の根元へ渡されていた。


泥には引き上げた跡があり、底の近くはまだ濡れている。


俺は木の見取りを抱え直した。


舟のそばへ荷を下ろすのは、やめておいた。


持ち主が来た時、邪魔になる。


ナギが水の奥へ顔を向けた。


木に何かが当たる、軽い音が聞こえた。


続いて、水をかく音。


曲がり角の草が揺れた。


舟の先が現れた。


一人が後ろで櫂を動かし、もう一人が前にしゃがんでいる。


足元には、魚らしい銀色が見えた。


ナギが声をかけた。


後ろの男が顔を上げる。


櫂を止め、こちらを見た。


ナギがもう一度、今度は長く話す。


男は岸の舟を示し、何か答えた。


前にいた男が、足元のものを押さえる。


魚が一匹、跳ねた。


舟が少し揺れ、二人が同時に腰を落とした。


俺まで膝に力が入った。


すぐに笑い声がした。


魚は、舟の中に残っていた。


*


男たちは、俺たちから少し離れた岸へ舟を寄せた。


ナギが近づく。


トワが俺を見てから、後へ続いた。


俺も荷を持ち、舟を引き上げる場所を空けた。


前の男が岸へ降りる。


こちらを見て、俺の服で一度目を止めた。


俺は掌を見せた。


「サエ」


男は俺の顔を見た。


それから、自分の名らしい短い音を返した。


俺は真似し、少し直された。


その間に、もう一人が魚の入った籠を持ち上げる。


下から水がぽたぽた落ちた。


俺は、舟が出てきた曲がり角を振り返った。


木に加えた短い線。


その先を、この二人は通ってきた。


俺はナギへ木を見せ、水の続くほうを示した。


「どこまで。舟、行く?」


ナギが男たちへ尋ねる。


後ろに乗っていた男が、曲がり角の奥を指した。


何か言い、両手を広げる。


ナギが俺へ向き直った。


「先。もっと、広い」


俺は木を膝に置いた。


短い線の向こうを、男の指がたどる。


今度は、その先の話が聞ける。

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