第105話 ここにいる俺
朝、子どもに木の実を返すと、掌ごと引っ込められた。
俺の指先を見ている。
次に、昨日遊んだ地面を見る。
ばれていた。
「少し。借りた」
子どもは一つ取り出し、地面へ置いた。
弾く。
俺の足に当たった。
顔を上げると、得意そうに笑っていた。
朝から勝った気でいる。
俺は実を拾い、小さな掌へ返した。
あとで見ていろ。
そう思ったところで、ノエに呼ばれた。
*
ノエは、泊めてもらった家の前にいた。
髪を結び直している。
俺に気づくと、口にくわえていた紐の端を離した。
「よく、寝た?」
頷きが返る。
昨日より、顔の疲れが薄かった。
子どもは先に走っていき、あの少年の隣へしゃがみ込んだ。二人で何かを数え始める。
ノエが声をかけると、少年も顔を上げて答えた。
家の前で作業していた女が、二人を見て頷く。
ノエは女に礼を言い、俺へ向き直った。
その前に、近くで荷をまとめていた男へ声をかけた。
昨日、二人を連れてきてくれた男だ。
話の中に、俺の名と、水という音があった。
「何?」
尋ねると、ノエは尾根の形を手で作った。
俺たちが二つの水を見た場所だった。
男は頷き、荷を示してから、低くなった太陽を指した。
今は手が離せない。夕方なら話せるらしい。
「あとで。聞く」
俺が言うと、男はもう一度頷いた。
ノエはそこで、俺の袖を軽く引いた。
「見る」
昨日の約束だ。
「こっち」
俺は、いつも歩いているほうへ足を向けた。
*
最初に、魚を干す場所へ行った。
イナがいた。
ノエが挨拶する。
イナは手を止め、二人で話し始めた。
俺は隣で待った。
ノエが魚を指す。イナが裏へ返す。
二人とも、そちらに夢中だった。
案内役が一人、余った。
少し向こうで、オキが俺へ手を振った。
支えに載せた長い枝の片端が、地面へ落ちかけている。
俺は二人に声をかけ、そちらへ行った。
端を持ち上げる。
オキが下へ木を差し入れた。
「もう、少し」
俺は腕を上げた。
木が収まる。
ゆっくり下ろし、二人で揺れないことを確かめた。
オキが手を離す。
「いい」
それで終わりだった。
戻ると、ノエがこちらを見ていた。
「呼ぶ。サエ」
俺はオキを振り返った。
もう別のものを取りに行っている。
「うん。よく、一緒」
ノエは、俺の手を見た。
木の皮がついている。
払おうとすると、彼女が先に取った。
「ここも」
自分の集落で、俺が人に呼ばれるところは何度も見ている。
ここでもそうなのだと、確かめたらしい。
イナが何か付け足した。
ノエが笑う。
「何?」
尋ねると、イナは俺の腕を示した。
「来た時。細い」
「今も、太くはないだろ」
口に出してから、後半は日本語だったと気づいた。
イナが俺の腕を指で押す。
ノエも、反対側から押した。
二人が何か言い合う。
魚の次は俺だった。
*
カヅには、少し離れた場所で会った。
ノエの顔を見ると、彼は手を止めた。
互いの集落の話らしかった。
俺は知っている人の名を拾いながら聞いた。
途中でカヅが俺を示した。
長い枝を持つ仕草をする。
先日のことだ。
木々の間で向きを変えられず、三人で受け渡し方を考えた。
ノエが俺を見た。
「サエ、一人?」
「違う。三人」
カヅと、自分と、オキのいるほうを示す。
カヅは頷いた。
それから何か話し、俺の肩を一度たたいた。
全部は分からない。
だが、悪い話ではなさそうだった。
ノエが笑っている。
俺も笑った。
会社にいたころ、誰かを連れて職場を歩くのは苦手だった。
俺が何をしているのか、見せるには画面を開き、説明を始める必要があった。
ここでは、歩いているうちに誰かが呼ぶ。
俺がいれば、少し手が足りる。
ノエにも、それが見えたらしかった。
*
最後に、俺の寝床へ行った。
荷を置く場所と、寝る場所。
それだけだから、すぐ見終わると思っていた。
ノエは入口で足を止めた。
俺が先に入り、奥を示す。
彼女は腰をかがめて入ってきた。
畳んだ獣皮。着替え代わりに使う布。余った紐。
俺には見慣れたものを、一つずつ見ている。
寝床の端を押し、俺を振り返った。
「ここ?」
「ここ」
ノエが座った。
俺も隣へ腰を下ろす。
彼女は壁際に置いた革靴へ目を向けた。
もう毎日は履いていない。
泥を落としても、傷は残っている。
片方を持ち上げ、俺に見せてから表面をなぞった。
初めてここへ来た日のことを思い出した。
子どもに靴先を触られただけで、少し安心した。
今はノエが、靴の中まで覗き込んでいる。
「足。暑い?」
俺は笑った。
「暑い。歩く、滑る」
彼女も笑い、靴を元へ戻した。
その脇に、木の見取りがあった。
ノエが触れる前に俺を見る。
頷くと、膝へ載せた。
指が、あの尾根の線で止まる。
「ここ。一緒」
「うん」
上から見た、二つの水。
ノエが描き加えた線だった。
彼女はしばらく眺め、自分の集落を示す印に触れた。
次に、こちらの印。
「歩いた」
昨日、子どもと来た道だ。
俺は指でたどった。
「俺も。会う、歩く」
ノエが顔を上げた。
俺の袖に、指が掛かる。
「今日。帰らない」
もう一晩ここで休んでから、帰る予定だと昨夜聞いていた。
分かっていても、うれしかった。
「うん」
袖をつかむ手へ、自分の手を重ねた。
彼女の指がほどけ、俺の掌へ収まった。
少し近づき、額の横を俺の肩へ預けた。
外で、誰かが器を重ねる音がした。
俺は動かずにいた。
*
昼を過ぎると、約束を忘れていなかった子どもたちが迎えに来た。
地面には昨日の木片が並んでいた。
イナも来る。
オキまで、いつの間にか座っていた。
「仕事は?」
俺が聞くと、彼は掌を見せた。
「終わり」
俺の失敗を見る時間は、作ってあるらしい。
少年が木の実を一つずつ配った。
誰のものか分かるよう、一つずつ細い傷がついている。
昨日、数が分からなくなったからだろう。
木片は二組。間を通れば、次の場所からまた弾く。
外せば、その場で次の番を待つ。
最後の目印に、先に当てた者が勝ち。
やってみれば分かる遊びだった。
イナが最初に通した。
子どもたちが声を上げる。
ノエは少し強く弾きすぎ、横へ外れた。
俺の番が来る。
昨日と同じ勢いでは、木片に当たる。
指を置く場所を変え、軽く弾いた。
実は二つの木片の間を抜けた。
「お」
声を出したのはオキだった。
俺は顔を上げた。
ノエが目を丸くしている。
イナは地面を見て、それから俺の指を見た。
昨夜、同じ場所で何度も弾いた。
その甲斐は、あった。
*
次の組では、イナが先に抜けた。
目印まで、あと少し。
俺の実は、その斜め後ろだった。
そのまま狙えば、彼女の実に当たる。
少年に尋ねた。
「これ。当たる。いい?」
彼は頷き、実同士を軽くぶつけてみせた。
イナは自分の実を動かさなかった。
やってみろという顔をしている。
俺はしゃがみ直した。
真正面ではない。
少し、端。
子どものころに遊んだビー玉を思い出した。
うまくいくかは、別だった。
息を止め、弾く。
乾いた音がした。
イナの実が横へ転がった。
俺の実は、向きを変えて前へ進む。
目印の木へ触れた。
一瞬、誰も声を出さなかった。
最初に叫んだのは、ノエの子だった。
俺の腕を両手でたたく。
少年が地面へ顔を寄せ、本当に当たっているか確かめた。
オキが笑いながら、俺の背を押した。
「サエ!」
俺も笑った。
勝った。
顔を上げても、誰も次の仕事を持ってきたりしない。
オキが地面をたたき、今の当たり方を真似している。
俺はもう一度、目印に触れた自分の実を見た。
*
イナは、横へ飛ばされた実を拾った。
俺へ近づく。
彼女は俺の横にしゃがみ、実を置いた。
「もう一度。見る」
手元を覗き込んでくる。
ノエも反対側へ座った。
俺は同じ位置を作った。
すぐには弾かず、当てたいところを指先で示した。
イナが身体を低くして覗き込む。
ノエも顔を寄せてきた。
近い。
さっきは気にならなかったのに、急に指の置き場まで分からなくなった。
「少し。離れる」
二人が顔を上げる。
俺の手元と顔を見比べ、ノエが笑い出した。
イナは少しだけ身を引いた。
それから、実を自分のほうへ寄せる。
「私。する」
場所を空けた。
彼女は俺が弾いた辺りへ実を置き、指を構えた。
最初は外れた。
二度目は、ぶつかったが止まった。
三度目は、向きが変わった。
目印の、指二本ほど手前で止まる。
イナは実を見つめ、唇を結んだ。
俺は笑いかけて、やめた。
昨夜の俺も、あんな顔をしていた気がする。
「明日」
イナが俺を見た。
「もう一度。サエと」
「うん」
頷くと、彼女は二つの実を拾い、片方を俺へ返した。
今日勝った実だった。
俺はそれを、少しの間、掌に載せていた。
*
日陰へ戻ったあと、ノエが俺の手を取った。
指先についた土を、親指で払う。
「サエ。笑う、多い」
俺は顔を上げた。
「今日?」
ノエは頷き、子どもたちのほうを見た。
イナが少年と、実の置き方を変えて試している。
オキが途中から口を出し、自分でやって外した。
また笑い声が上がった。
「楽しい」
俺が答えると、ノエは頷いた。
つないだ手は、そのままだった。
しばらくして、イナが戻ってきた。
二人の手へ一度目を落とす。
ノエも顔を上げた。
イナは俺の隣、少し離れたところに座った。
俺は彼女のほうへ身体を向けた。
「もう一度。明日?」
イナが頷く。
それから、ノエへ何か尋ねた。
二人で話し始める。
今度は、俺にも帰り道の話だと分かった。
歩く相手。出る時間。子どもの足。
ノエは明日の朝、ここへ連れてきてくれた男と帰る。
イナは最後まで聞き、頷いた。
手をつないだまま、帰る話を聞くのは、少し寂しかった。
ノエの指が動いた。
俺の掌を、一度押す。
「まだ。今日、ある」
彼女は、俺を見ていた。
「うん」
俺は握り返した。
*
夕方、子どもたちの木の実を拾い集めていると、トワに呼ばれた。
隣には、明日ノエたちと歩く男がいた。
俺は実を少年へ渡し、そちらへ行った。
朝の男が、空になった荷を脇へ置いた。
約束を覚えていてくれたらしい。
俺もしゃがむと、男が話し始めた。
トワが短く区切り、俺の知っている言葉へ置き換えてくれた。
今朝、ノエが話してくれたのは、尾根から水を見たことだった。
俺は頷いた。
男は地面へしゃがみ、指で道を描いた。
途中から、別の線を引く。
「古い。道」
トワが言った。
俺は膝をついた。
尾根を示す盛り土の脇へ、その線が続いていく。
「歩いた?」
男は頷いた。
いつかを尋ねると、少し考えてから、指を折った。
昨日や今日の話ではなかった。
今も通れるかは分からない。
それでも、そこを歩いた人が、目の前にいた。
俺は寝床へ目を向けた。
木の見取りを持ってこよう。
立ち上がりかけたところで、ノエが来た。
手に、その木を持っていた。
さっき寝床で、置いた場所を見ていたのだ。
俺へ差し出し、隣にしゃがむ。
「これ。話す?」
「うん」
受け取る。
ノエの描いた尾根の線を、男のほうへ向けた。
男が、そこへ指を置いた。
しばらく眺め、首を傾げる。
二つの水の印を順に触り、何か尋ねた。
俺はノエを見た。
彼女が答え、上から見下ろす仕草をする。
男は頷いた。
指が尾根の線へ戻る。
山を越すように動くかと思った。
違った。
指は尾根の端を回り、その裏で止まった。
「水」
そこなら近づけるのかと、俺は聞き返した。
トワが男へ確かめる。
返ってきた言葉は、聞き取れた。
「そこで。飲んだ」
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