第104話 待っていた人
ノエが来たのは、俺が魚の頭と格闘しているときだった。
骨の脇に、まだ身がある。
取れそうで取れない。
オキが横から指を伸ばしたので、俺は器を引いた。
「俺の」
「そこ。まだ、ある」
教えるだけだという顔をしている。
以前、その顔で一口持っていかれた。
信用には、実績が要る。
そのとき、集落の入口で子どもの声がした。
顔を上げる。
荷を背負った男。その脇から、小さな身体が飛び出した。
俺を見つけ、走ってくる。
器を置いて立つと、腰の辺りにぶつかった。
「サエ!」
受け止める。土と草と、少し汗の匂いがした。
その向こうを、ノエが歩いてきた。
*
四つ夜を越した朝、男は予定どおり出発した。
ノエが来られるかは、帰ってくるまで分からなかった。
俺はその間、いつもの仕事をした。カヅと枝を選び、イナと魚を干し、雨の前には寝床を奥へ寄せた。
木に描いた川の見取りも、一度広げた。
二つの水の間に、ノエが加えた尾根の線がある。
次に確かめるなら、誰に道を聞くか。
トワとそこまで話し、しまった。
帰り道を探すことも、ここで暮らすことも、なくなったわけではない。
ただ、今日は男が戻る日だった。
朝から入口を見るたび、オキに同じほうを見られた。
そして今、子どもが俺の腰から離れない。
オキは俺の器を持ち上げ、届かない場所へ移してくれた。
魚の頭も、そのままだった。
*
ノエは、俺の前で足を止めた。
肩に掛けた荷が、歩みを止めてからも少し揺れた。
「来た」
「うん」
俺は笑ってしまった。
言いたかったことは幾つもあったのに、最初の一つがそれだった。
「待った」
ノエも笑った。
空いている手が伸びてくる。
握ると、指の付け根に土がついていた。
長い道を歩いてきた手だった。
俺は荷へ手を添え、受け取っていいか確かめた。
彼女が肩を抜く。
その後ろで、男がトワに何か話していた。道中は変わりなく、子どももよく歩いたらしい。
「よく、歩いた?」
俺が尋ねると、子どもは胸を張った。
ノエが男を示し、背に負う仕草をした。
子どもが何か言い返す。
男が笑った。
途中までは、自分の足だったということらしい。
俺にも、森で何度も助けてもらった覚えがある。
そこは詳しく聞かないことにした。
*
イナは、少し離れたところに立っていた。
いつ来たのか、気づかなかった。
胸元には白い貝がある。
俺はノエへ向き直った。
「イナ」
名を呼ぶと、二人の目が合った。
イナがこちらへ来る。
ノエも一歩進んだ。
短い挨拶が交わされた。
俺がまだ覚えていない言い方だった。
イナは子どもの前で少し腰を落とし、何か尋ねた。
子どもが答える。ノエが付け足した。
イナは頷き、日陰を示した。
「休む。先」
そこで初めて、俺はまだ荷を抱えたままだと気づいた。
「ああ。こっち」
案内しかけて、行く先に自分の器があるのを思い出す。
オキが片手で向こうを示した。
器も、座る場所も、空いていた。
今日はずいぶん助けてくれる。
あとで、魚の身を少し分けようと思った。
少しだけ。
*
ノエと子どもが水を飲み、腰を落ち着けてから、俺はノエの隣へ座った。
イナは近くで、敷いた草の端を直していた。
「ノエ。話す」
彼女が器を置く。
俺はイナへ目を向け、それからノエを見た。
「俺。イナも、好き」
ノエの顔から笑いが消えた。
俺は続けた。
「イナに、話した。ノエ、好き。ノエも、俺、好き」
ノエは俺を見たまま、動かなかった。
傍らで子どもが、俺の置いた荷の紐をいじっている。
俺は言い足そうとして、待った。
ノエが低い声で尋ねる。
「イナ。サエ、好き?」
「うん」
答えたのは、イナだった。
立ち上がらず、こちらを見ている。
ノエがそちらを向いた。
二人の間で、言葉が幾つか交わされた。
俺の名は聞き取れた。
あとは、ところどころしか分からなかった。
ノエは一度、膝の上の手を握った。
イナもすぐには答えず、考えてから口を開いた。
俺は二人の顔を見ていた。
やがてノエが、俺へ向き直る。
「サエ。ここ、いる?」
今この場所か、集落か。
俺が確かめると、ノエは自分とイナを順に示した。
二人を残して、どこかへ行くなということらしかった。
「いる」
俺は答えた。
ノエは頷いたが、笑わなかった。
すぐに手を握り直してくれることもなかった。
俺はその隣に座っていた。
*
少しして、子どもが立ち上がった。
俺の膝をたたき、向こうを示す。
この集落の少年が、こちらを覗いていた。
俺に結び方を教え返してくれた、あの少年だ。
少年は子どもを見ると、しゃがんだ。
掌に、小さな木の実を幾つか載せている。
一つを地面へ置き、弾く。
別の実に当たった。
子どもが俺の膝から手を離した。
ノエを見る。
ノエが短く答えると、少年のそばへ行った。
二人は並んでしゃがみ込んだ。
最初の一つは、まるで違う方へ転がった。
少年が拾って戻し、もう一度やってみせる。
今度は子どもも当てた。
大きな声が上がる。
俺は思わず笑った。
向き直ると、ノエもそちらを見ていた。
イナが何か言う。
ノエの口元が、ようやく少し緩んだ。
*
イナが、座っていた場所から白い貝を持ち上げた。
ノエが手を伸ばす。
途中で止め、イナを見た。
イナが紐を緩め、首から外した。
掌へ渡す。
ノエは薄い縁を指で確かめた。
タギの名が出たので、俺にも何の話か分かった。
「俺。四つ、磨いた」
指を立てる。
ノエが俺の指先を見る。
もう、擦れた跡はほとんど消えていた。
イナが何か説明すると、ノエは頷いた。
次に、俺の胸元を示した。
灰色の貝。
「イナ、くれた」
俺が言うと、ノエは頷く。
それは前に話した。
ノエがイナへ何か尋ねた。
返事の中に、魚という音があった。
俺が磨いていた間に、イナが自分の干し魚と替えてくれた貝だった。
ノエは白い貝を返した。
それから俺を見る。
「サエ。ほか、欲しい?」
貝のことかと思った。
頷きかけたところで、ノエが俺とイナを交互に見た。
違う。
俺は口を閉じた。
二人とも、こちらを見ている。
「……今。分からない」
知っている言葉を選んで答えた。
分からないまま、いい返事だけするわけにはいかなかった。
ノエは鼻から息を吐いた。
怒ったのかと思ったが、そのあと小さく首を振った。
イナも何か言い、白い貝を首へ戻した。
俺に向けられた言葉は、短かった。
「今日は。ノエ、来た」
イナは、ノエを見た。
「疲れた。休む」
俺は頷いた。
ノエも、背を支えていた腕から力を抜いた。
*
子どもの声が上がった。
二人とも立っていた。
こちらの少年は地面の木の実を示し、ノエの子は自分の掌を開く。
数が合わないらしい。
俺が腰を上げると、イナも立った。
ノエはそのまま座っていたが、俺たちから目を離さなかった。
少年の足元に、転がった実が一つあった。
拾って渡す。
二人がまた座ろうとしたところで、イナが近くの木片を取った。
地面の浅い窪みに置く。
もう一つ、その先へ。
少年がすぐに実を弾いた。
一つ目の間を抜け、二つ目の手前で止まる。
子どもの目が変わった。
今度は自分の番だと、しゃがみ直す。
「イナ。知る?」
俺が尋ねると、彼女は頷いた。
「小さい。私も」
昔、同じ遊びをしたらしい。
俺は後ろを振り返った。
ノエが笑っていた。
イナが弾いた実は、二つ目の木片の間まで抜けた。
少年が声を上げる。
俺にも、一つ渡された。
狙う。
指を弾いた。
実は最初の木片に当たり、俺のほうへ戻ってきた。
子どもが腹を抱えた。
そこまで笑う失敗か。
向こうで、ノエまで肩を揺らしていた。
*
夕方になって、俺は荷を置いた場所へ戻った。
ノエがそばにいた。
子どもは少年と、まだ地面を眺めている。
「来て。うれしい」
俺が言うと、ノエはこちらを見た。
「待った?」
「待った」
彼女は少し間を置き、俺の手首へ触れた。
指が下りてくる。
俺は掌を開いた。
短く握り、離れる。
「明日。サエの、ここ。見る」
集落の奥を示した。
俺の寝床や、いつも働いている場所を見たいらしい。
「案内する」
そう答えると、ノエは頷いた。
そこへイナが戻ってきた。
泊まる場所を話していた女と、一緒だった。
ノエが立ち上がる。
荷を持とうとすると、イナが俺へ顎を向けた。
「サエ。持つ」
「持つ」
俺がすぐに答えたので、ノエが笑った。
イナも、少し笑った。
二人は並んで歩き出した。
俺は荷を肩へ掛けた。
明日は、俺がここで何をしているのかを見てもらえる。
イナのことも、俺の説明だけで知ってもらうのではない。
その背中を追いかけようとしたとき、ノエが足を止めた。
イナへ何か話す。
二人が、同時にこちらを見た。
「サエ」
呼んだのはイナだった。
「明日。さっきの。もう一度」
地面を指で弾く仕草をする。
ノエが隣で笑っている。
「私も。見る」
俺は子どもたちのほうを見た。
あの木の実は、まだ借りられるだろうか。
明日の朝までに、一度くらいは、木片の間を通しておきたかった。
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