第103話 今度は、私が
朝の食事が終わっても、子どもは俺の隣から動かなかった。
俺が器を置いて立つと、子どもも慌てて器を下ろした。
ノエが何か言う。
子どもは俺を見上げ、それから、家の脇にまとめた荷を見た。
分かったらしい。
俺より先に荷のところへ行き、持ち上げようとする。
紐は動いたが、荷はほとんど動かなかった。
「それは、俺が持つ」
しゃがんで受け取ると、子どもは手を離した。
その手が、今度は俺の袖をつかむ。
俺は立つのを待った。
ノエが隣へ来る。
子どもの目の高さに合わせ、ゆっくり話した。
朝のうちに、トワと帰る。
その先は、俺には聞き取れなかった。
子どもは最後まで聞いてから、袖を離した。
俺は空いた手を差し出した。
「外まで。一緒」
小さな指が入ってくる。
ノエが笑い、自分も立ち上がった。
*
トワは、もう支度を終えていた。
俺の荷を見て頷き、ノエへ短く声をかける。
彼女が答えた。
その間に俺は、昨日伝言を預かった男を探した。
目が合うと、男は指を二本立てた。
細い道具のことだ。
「オキ。次、来る。ここ、見る」
俺が返すと、男は頷いた。
覚えている。
トワが歩き出す。
子どもが俺の手を引いた。
俺たちも、ノエと並んでついていった。
*
集落の端で、子どもが足を止めた。
ノエが手を伸ばすと、俺の手からそちらへ移る。
俺は荷の紐を肩へ収めた。
ノエを見る。
昨日と同じ顔なのに、少し見つめるだけで、夜のことを思い出した。
彼女も俺を見ていた。
「また、会う」
俺から言うと、ノエは頷いた。
それから、自分の胸へ掌を当てる。
「次。私、行く」
ノエは、俺たちの帰る道を示した。
「サエの、ところ」
俺は、次も自分が歩いてくるつもりでいた。
「ノエ、来る?」
彼女は頷く。
子どもを見て、言葉を足した。
俺が二人を順に示すと、ノエは頷いた。
すぐ、という話ではなかった。
誰と歩くのか。いつ家を空けられるのか。
そこは、彼女もこれから決めるらしい。
俺は帰る道へ目をやった。
寝床も、火のそばも、川辺の仕事もある。
ノエが来たら、見せたい場所が幾つも浮かんだ。
「来て。俺、待つ」
ノエの口元が緩んだ。
俺は言い足した。
「トワに、聞く。誰、一緒、来る」
彼女は少し先のトワへ目を向けた。
俺も見た。
トワは話が済むのを待っていた。
あとで相談しようと頷くと、ノエも頷いた。
*
別れ際、ノエが俺の手を取った。
俺も握り返すと、彼女は少しだけ近づいた。
肩が触れる。
「待ってる」
俺が言うと、ノエは頷き、指を離した。
子どもが二人の手を見ていた。
自分も手を出す。
俺はその手を握った。
小さく上下へ動かすと、子どもが笑った。
ノエが何か言い、子どもも一緒に手を上げる。
俺はトワを追った。
木々に入る前に振り返る。
二人とも、まだこちらを見ていた。
今度は、来るほうと待つほうが替わるかもしれない。
俺はもう一度手を上げ、前を向いた。
*
帰り道では、トワにノエの話をした。
子どもと一緒に来たいと言っていること。
俺も来てほしいこと。
トワは歩きながら聞き、途中で一度足を止めた。
指で人数を確かめる。
それから、昼の太陽を示し、荷を持つ仕草をした。
子どもを連れた道中は、俺たち二人とは違う。
俺は頷いた。
トワが何か言う。
聞き返すと、知っている男の名が出た。
近いうちに、こちらへ来る人がいるらしい。
日を確かめてから相談する。
俺は、その言葉を繰り返した。
トワが頷き、また歩き出す。
俺もついていった。
ノエに見せたい場所を、歩きながら数えた。
*
集落へ着くと、オキが最初に俺を見つけた。
仕事の手を止め、こちらへ来る。
俺は荷を下ろす前に、指を二本立てた。
「見た。二つ」
細い道具の形を示す。
オキが近づき、手元を覗き込む。
「次。オキ、行く。そこで、見る」
男の返事を伝えると、オキは大きく頷いた。
そのままトワへ向き直り、質問を始める。
俺は腰を伸ばした。
一つ、頼まれたことを返せた。
荷を持ち直し、寝床のほうへ向かった。
*
イナは、屋根の陰にいた。
俺を見ると、手元のものを置いた。
「帰った」
俺が言うと、頷く。
「帰った」
イナも同じ言葉を返した。
荷を下ろし、水を飲む。
イナがそばへ座る。
俺は器を置いた。
「ノエ。元気。子どもも」
「次。ノエ、ここ、来たい」
イナが顔を上げた。
子どもも一緒に来たいと言っていることを、俺は伝えた。
彼女は少し考え、尋ねた。
「サエ。うれしい?」
俺は頷いた。
「俺。ノエ、好き」
イナの指が止まった。
「ノエも。俺、好き。話した」
イナは黙って聞いた。
胸元の灰色の貝へ一度目を落とし、また俺を見る。
イナは自分の胸へ手を置いた。
「イナは?」
短い問いだった。
俺は彼女へ身体を向けた。
「イナと、いる。うれしい」
彼女を見る。
「会う。話す。……好き」
イナの唇が少し動いた。
何か言い、途中でやめる。
俺は待った。
*
やがて、イナが尋ねた。
「ノエ。知る?」
俺は首を振った。
「貝。イナ、くれた。話した」
そこまでは伝えてある。
今、イナへ言った言葉は、まだだった。
俺は彼女の目を見た。
「これも、話す」
イナは膝へ目を落とした。
白い貝を指で持ち上げ、離す。
それから、ノエの名を言った。
続いた言葉を、俺は知らなかった。
聞き返すと、彼女は少し眉を寄せ、自分の胸を押さえた。
「ノエ。サエ、好き」
もう一度、さっきの言葉。
俺には、うまく訳せなかった。
だが、ただ頷ける話ではなかったのだと分かった。
「イナ。今、うれしい、違う?」
確かめると、彼女は小さく頷いた。
俺は口を開きかけ、閉じた。
すぐに機嫌を直してほしい、と言うつもりはなかった。
イナが顔を上げる。
「でも。サエ、帰った」
俺のいるところへ、掌を向けた。
「うれしい」
声が、少し柔らかくなった。
「私も。サエ、好き」
俺は彼女を見た。
聞き返す言葉が、今度は出なかった。
イナは目をそらさず、それから、俺の荷を指した。
*
荷はまだ、入口の近くにあった。
「そこ、邪魔」
俺は振り返った。
「……そうだな」
立って、いつもの場所へ運ぶ。
荷を収め、戻ってきた。
イナはまだ座っていた。
そばへ寄ると、俺の手を取る。
引かれたので、隣へ腰を下ろした。
彼女の指が、俺の指の間へ入った。
俺は握り返した。
「少し。ここ」
「うん。ここにいる」
イナは息を吐き、組んだ手を二人の間へ下ろした。
しばらく、どちらも話さなかった。
やがて、彼女が尋ねた。
「ノエ。子ども、いくつ?」
俺は指で背の高さを示しかけ、止めた。
そういえば、きちんと聞いていない。
年の数を答えられず、俺は首を振った。
「背、これ。よく、走る」
手で高さを示すと、イナの口元が少し動いた。
俺は小さな束を二人で運んだ話をした。
子どもが俺の手についた草を払ってくれたことも。
イナは最後まで聞き、頷いた。
「ノエと、話す。会って」
俺は頷いた。
会ったあとで何を思うかは、彼女が決めることだった。
それでも、今つないでくれた手は、温かかった。
*
夕方、トワがこちらへ来た。
向こうへ行く男の予定を確かめたという。
四つ夜を越して出発し、あちらで一晩休んで戻る。
その帰りなら、ノエたちと歩ける。
俺は指で日を数え、トワへ返した。
頷きが返る。
その男に、ノエへ日程を伝えてもらえる。
二人がその日に来られるかどうかは、向こうで決める。
俺はイナを見た。
彼女も話を聞いていた。
「ノエ。子ども。一緒?」
トワが頷く。
イナは俺たちの手を離し、自分の家のほうへ目を向けた。
少し考え、戻す。
「来る。分かったら、言う」
「言う」
俺が答えると、彼女は頷いた。
トワが立ち上がる。
俺も腰を浮かせかけたが、イナが手を差し出した。
握る。
もう一度、隣へ座った。
イナの肩が、軽く腕へ触れた。
俺は少し姿勢を変え、彼女のほうへ顔を向けた。
「帰った」
今朝、ノエの集落を出てから、ようやく荷を全部下ろした気がした。
イナが笑った。
「知ってる」
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