第102話 好き、と言った
ノエが肩を離したのは、子どもに呼ばれたときだった。
名を呼ぶ声が、二度。
彼女は返事をし、俺の手を軽く握ってから立ち上がった。
指が離れる。
少し先で、子どもがノエに何か見せている。
彼女はしゃがみ、話を聞いた。
その横顔を眺めていて、オキの伝言を思い出した。
忘れる前に済ませようと立ち上がったところで、ノエが振り返った。
「行く?」
俺は向こうの火を指した。
「オキの話。伝える。あと、ここ」
ノエは頷いた。
戻る場所へ目をやってから、火のほうへ歩いた。
*
トワは、持ってきた包みを開いていた。
相手の男が中身を確かめている。
俺はそばへ座り、オキの名を言った。
集落で骨を細く削っていた男から、こちらの道具を一度見せてもらいたい。
そんな伝言だった。
道具の名を言い、指で細い形を示す。
相手の問いにはトワが言葉を足してくれた。
男は家のほうへ行き、小さな包みを持って戻った。
中に、細く尖ったものが二つ入っている。
持ち帰るものではなく、オキにここで見てもらいたいらしい。
次に来るとき、という返事を繰り返して確かめた。
男が頷く。
帰りの仕事を一つ覚え、立ち上がる。
トワが俺を呼び止めた。
「明日。朝、食べる。出る」
「分かった」
俺が頷くと、彼はまた相手の男へ向き直った。
俺はノエのいるほうへ戻った。
*
家の脇に、草を束ねたものが積まれていた。
ノエはその前で子どもと話している。
俺を見ると、子どもが小さな束を持ち上げた。
運ぶ手伝いをしていたらしい。
ノエに置き場所を聞き、大きいほうを持ち上げた。
子どもが先に歩く。
入口の脇へ俺が下ろすと、その隣へ自分の束を置いた。
俺の顔を見る。
「同じ?」
二つを指して尋ねると、子どもは頷いた。
大きさは、ずいぶん違う。
だが、運んだ回数なら同じだった。
次を持つと、子どもは俺が立つのを待った。
今度は並んで運んだ。
全部終えると、子どもがこちらの手を取った。
掌を上へ向け、指の間についた草を払い落とす。
「ああ。ありがとう」
礼を言うと、自分の両手も差し出した。
俺も同じように払った。
ノエはそばで、その様子を見ていた。
*
夕方になると、ノエは家と火のそばを何度も往復した。
食べるものを受け取り、器を戻す。
子どもに呼ばれれば立つ。
俺も、そのたびに手を離した。
戻るたび、ノエは俺の隣へ座った。
三度目には、俺も器を寄せ、場所を空けて待っていた。
子どもは食べながら眠りかけた。
器が傾く前に、ノエが受け取る。
声をかけると一度目を開けたが、すぐにまた閉じた。
ノエが抱き上げる。
俺は立ち、入口の前のものを脇へ寄せた。
彼女が中へ入る。
俺は外で器を片づけた。
少し離れたところには、まだ人の声がある。
火がはぜた。
ノエが戻ってきた。
入口で一度後ろを確かめてから、俺の隣へ腰を下ろす。
二人ぶんの影が、壁の下へ伸びていた。
*
「寝た?」
尋ねると、ノエは頷いた。
俺も頷き、火のほうを見る。
話したいことはあった。
道中で考えた言葉より、ずっと短い言葉だった。
けれど、口に出すまでに時間がかかった。
ノエが俺を見る。
俺は彼女へ向き直った。
「ノエ」
名を呼ぶと、彼女は待った。
俺は自分の胸へ手を当てた。
「好き」
食べ物の好みを話すときにも使った言葉だ。
今は、彼女の顔を見て言った。
俺は続けた。
「ノエ。好き」
彼女はすぐには笑わなかった。
俺の顔を、じっと見ている。
俺もそらさなかった。
やがて、ノエが手を伸ばした。
俺の胸元で、指が止まる。
貝の下で、掌がシャツへ触れた。
「サエ」
俺は頷いた。
ノエは自分の胸へ、その手を戻す。
「好き」
俺は頷こうとして、笑ってしまった。
ノエも笑う。
胸へ当てた掌は、そのままだった。
*
俺はノエの手を取った。
昼間より、少し冷えている。
両手で包むと、指が動いた。
俺の親指へ触れ、そこを軽く押す。
顔を上げると、近くに目があった。
俺はゆっくり身体を寄せた。
途中で止まる。
ノエが顔を上げた。
そのまま、彼女のほうから少し近づいた。
唇が触れた。
ほんの短い間だった。
離れると、ノエは俺を見ていた。
俺も見た。
「……うん」
なぜ返事をしたのか、自分でも分からなかった。
ノエが小さく笑う。
俺も笑った。
額が触れそうな距離で、しばらくそのままいた。
家の中で、子どもが小さく声を出した。
二人とも、同時に入口を見る。
すぐに静かになった。
ノエは俺の手を握ったまま、耳を澄ませていた。
やがて肩の力が抜け、こちらへ顔を戻した。
俺は握った手を自分の膝へ載せた。
ノエも少し寄り、肩を預けてくる。
入口の中は静かだった。
俺たちは、子どもの次の声が聞こえるまで、そこに座っていた。
*
夜は、用意してくれた敷物で眠った。
子どもが先に横になっていて、ノエはそのそばへ戻った。
俺は少し離れたところへ身体を伸ばす。
頭を下ろす前に、ノエと目が合った。
彼女が手を上げた。
俺も上げた。
胸元の貝を紐ごと外し、荷の上へ置いた。
明日は朝の食事をしてから、トワと帰る。
水も荷も、支度は済ませた。
横になると、子どもが寝返りを打った。
ノエが背を撫で、小さく何か言う。
俺にも声が向いた。
意味は分からなかったが、目が合うと、彼女は笑った。
俺は敷物へ頭を下ろした。
もう、言葉を練習しなくてよかった。
*
朝、足音で目が覚めた。
子どもが、俺の敷物の端に立っていた。
顔を覗き込んでいる。
俺が目を開けると、すぐに後ろを向いた。
「サエ、いる」
ノエの返事がした。
俺は身体を起こした。
子どもが俺の手を取る。
今度は、立てということらしい。
「起きた。もう起きた」
立ち上がると、入口へ引かれた。
外ではノエが朝の支度をしていた。
俺を見る。
昨夜と同じように、少し笑った。
「食べる」
俺は子どもと並んで座った。
ノエが器を置く。
受け取るとき、指が触れた。
ノエが指先で俺の指を軽く押し、それから手を離した。
俺は器を膝へ載せ、隣を空ける。
彼女が座った。
子どもはもう、自分のぶんを食べ始めている。
俺たちも食べた。
ノエの膝が、ときどき俺の膝へ触れた。
どちらも、場所をずらさなかった。
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