第12話 追わない
その下で、
何かがこちらを見ていた。
息が止まった。
木と木の間。
影の中から、
二本の角が伸びている。
耳が動いた。
その下に、顔がある。
さらに、
茶色い身体。
鹿――
だと思う。
動物園で見たことはある。
けれど、
こんなふうに見たことはない。
柵がない。
ガラスもない。
向こうも、
俺を見ていた。
*
隣で、
若い男の手が動いた。
槍の先が、
ゆっくり上がる。
俺は動けなかった。
男の肩が落ちる。
腰が沈む。
足が、
わずかに開いた。
さっきまで森を歩いていた男とは、
同じ人間に見えなかった。
俺も息を浅くする。
何をする。
ここにいるのか。
伏せるのか。
こいつについていくのか。
聞けない。
男の手を見る。
*
耳が、
もう一度動いた。
茶色い身体が一歩出る。
濡れた葉が揺れた。
若い男は動かない。
槍だけが、
少し上がった。
俺は口を閉じる。
もう一歩。
その顔が、
こちらを向いた。
目が合った。
ような気がした。
次の瞬間、
身体が翻った。
葉が跳ねる。
枝が鳴る。
茶色い背中が、
木の向こうへ消える。
一瞬遅れて、
奥の枝が大きく揺れた。
さらに向こう。
また音がする。
遠ざかっていく。
俺は若い男を見た。
*
走らない。
槍も投げない。
男は、
消えたほうを見ているだけだった。
「……追わないのか?」
返事はない。
俺は森の奥を指した。
「行ったぞ」
男が、
俺の手を見る。
次に、
足元を見た。
しゃがむ。
俺も視線を落とした。
柔らかい土に、
跡がある。
一つ。
少し先に、もう一つ。
昨日の雨のおかげなのか、
俺にも見えた。
男は跡に触れない。
じっと見る。
俺もしゃがんだ。
跡は、
動物が消えたほうへ続いている。
顔を上げる。
まだ追えるんじゃないか。
そう言おうとして、
やめた。
若い男が、
別のものを見ていた。
*
足跡の少し横。
折れた草。
低い枝。
その先。
俺には、
何が違うのか分からない。
男はしばらく動かなかった。
風が来た。
濡れた葉が、
一斉に鳴る。
男が顔を上げる。
俺も上を見る。
空はほとんど見えない。
男は鼻から、
ゆっくり息を吸った。
それから立ち上がった。
槍を下ろす。
歩き出す。
「……え?」
動物が逃げた方向ではない。
反対でもない。
斜めに外れていく。
俺はその場に残った。
森の奥を見る。
若い男を見る。
もう数歩先にいる。
「そっちなのか?」
男は振り返らない。
*
俺はもう一度、
足跡を見る。
追えばいい。
俺なら、
そう考える。
でも、
追うのは俺じゃない。
俺は立ち上がった。
男のあとを追った。
*
少し進むと、
男が立ち止まった。
俺は今度こそ、
何かいるのかと思って身を低くした。
男が振り返る。
俺を見る。
何もいない。
「……違うのかよ」
男は槍を脇へ寄せた。
木の枝へ手を伸ばす。
葉の陰を探る。
何かを取った。
小さい。
俺の位置からは、
よく見えない。
男は手のひらの上で確かめ、
腰のあたりへ入れた。
そのまま、
別の木へ行く。
また見る。
しゃがむ。
今度は地面から何かを拾った。
俺は、
来た方向を振り返った。
さっきの姿は、
もうどこにもない。
*
若い男は先へ進む。
俺もついていく。
途中、
赤みのある小さな実が目に入った。
低いところに、
いくつかついている。
見たことがあるような気がした。
食べられるやつだったか。
足を止める。
一つ取ろうと、
手を伸ばした。
ぱしっ。
手の甲に痛みが走った。
「痛っ」
若い男だった。
いつ戻ってきたのか分からなかった。
俺の手を叩いた棒を下ろし、
実を見る。
俺を見る。
「何だよ」
男が何か言う。
短い。
俺は実を指した。
口を指す。
「食えない?」
男は答えない。
実にも触れない。
俺の腕を押し、
そこから離した。
「毒か?」
当然、
答えは分からない。
男はもう歩き始めている。
俺は赤い実を見る。
色も形も、
どこかで見たような気がする。
名前が出てこない。
ポケットの中には、
電源の入らないスマートフォンがある。
俺は手を入れなかった。
赤い実から離れた。
*
少し先で、
若い男がしゃがんだ。
今度は、
別のものを拾った。
俺は近づく。
男の手元を見る。
さっきの赤い実とは違う。
男はそれを確かめ、
持っていく。
俺は、
来た道を振り返った。
赤い実は、
もう葉の向こうに隠れていた。
前では、
若い男がまた何かを見つけている。
槍を持っている。
でも、
槍だけを使っているわけじゃない。
俺は足元を見る。
細い枝が落ちている。
踏まないように、
横へ足を置いた。
音はしなかった。
顔を上げる。
若い男は、
もう次の木を見ていた。
俺は黙って、
そのあとを追った。
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