第11話 森へ行く
朝、目を覚ますと、
あの子はいなかった。
昨夜、暗がりから聞こえた笑い声を思い出す。
誰といたのかは、結局分からなかった。
身体を起こす。
火はまだ残っている。
集落では、もう人が動いていた。
女もいた。
昨夜、一人で戻ってきた女だ。
俺に気づくと、軽く顎を動かした。
俺も頭を下げる。
あの子はどこにいる。
そう聞こうとして、
口を閉じた。
その言い方を知らない。
*
水を飲んだあと、
枝を運んだ。
もう何度もやっている。
抱える。
運ぶ。
置く。
戻る。
もう一束持ち上げようとしたとき、
後ろから声がした。
振り向く。
若い男だった。
手に長い棒を持っている。
先端に石がついていた。
最初の日、
俺に向けられていたものだ。
男が集落の外を指す。
次に俺を見る。
「俺?」
自分を指す。
男は答えず、
もう一度、外を指した。
そして歩き出す。
俺は立ったまま、
その背中を見た。
向こうには森がある。
一人なら、
まだ入りたくない。
男が森の手前で止まった。
振り返る。
呼ばない。
ただ、こっちを見ている。
俺は抱えていた枝を下ろした。
革靴を見る。
乾いた泥が白く残っている。
「これで行くのかよ」
男が歩き出した。
俺もあとを追った。
*
森に入ると、
光が変わった。
枝と葉の間から、
朝の光が細く落ちている。
湿った土の匂い。
濡れた葉の匂い。
昨日の雨が、
まだあちこちに残っていた。
若い男は速い。
走ってはいない。
それなのに、
少しずつ離される。
俺は根をまたぐ。
石を避ける。
顔の前の枝を払う。
男との距離が開く。
「ちょっと待て」
男が止まった。
俺が追いつく。
息を整えている間、
男は俺の足元を見た。
革靴。
何か言う。
「仕方ないだろ」
男はもう歩き出していた。
*
しばらくして、
突然止まった。
俺も止まる。
男は地面を見ている。
土。
落ち葉。
細い枝。
俺も見る。
何もない。
男がしゃがんだ。
指を伸ばす。
落ち葉の間に、
浅い窪みがあった。
一つ。
少し先に、
もう一つ。
俺もしゃがむ。
指で触れようとすると、
男が俺の手首をつかんだ。
「何だよ」
男は手を離し、
窪みを指した。
それから、
その先を指す。
俺は手を引いた。
男は立ち上がる。
頭の横に指を二本立てた。
二本。
耳。
角。
俺は四本足で歩く真似をした。
男は俺を見た。
何も言わない。
そのまま先へ進んだ。
「合ってるのか、それ」
返事はなかった。
*
男の歩き方が変わった。
さっきより遅い。
数歩進んでは、
何かを見る。
俺もあとを追う。
低い枝の前で、
また止まった。
先のほうが折れている。
男は折れたところに触れた。
指先を見る。
匂いを嗅ぐ。
俺も触ろうとした。
男が俺の手を見る。
やめた。
「見るだけな」
聞こえているはずだが、
意味は分からない。
男は地面へ視線を落とした。
俺も見る。
何があるのか、
やっぱり分からない。
*
会社にいたころなら、
分からないものは検索した。
名前が分からなくても、
写真を撮れば何か出てくる。
ポケットに手を入れる。
指先に、
スマートフォンの角が触れた。
そのまま手を出した。
前で、
男が止まっていた。
*
木の幹に傷があった。
俺の腰より少し低い。
樹皮が削れている。
男が傷に触れる。
指先を鼻へ持っていく。
周囲を見る。
俺も木を見る。
傷は見える。
それ以上は、
何も見えない。
一歩近づいた。
その瞬間、
胸を押された。
強い。
俺は一歩下がった。
「何だ――」
男は俺を見ていなかった。
槍を握っている。
身体が低い。
視線は、
森の奥に向いていた。
俺もそちらを見る。
木。
葉。
影。
何もいない。
口を開こうとしたとき、
男が手を上げた。
俺は黙った。
*
音がした。
葉が擦れる。
近い。
俺は息を止めた。
もう一度。
右のほう。
何かいる。
男がゆっくり足を動かした。
俺にも手を向ける。
低く。
俺は腰を落とした。
一歩。
革靴の底が、
泥の上を滑った。
身体が傾く。
慌てて手をつく。
足元で、
枝が折れた。
ぱきっ。
若い男が振り向いた。
その顔を見た瞬間、
俺にも分かった。
やった。
森の奥で、
何かが走った。
葉が激しく揺れる。
枝が鳴る。
俺は一瞬、
茶色いものを見た。
すぐに消えた。
男は立ち上がった。
追わない。
槍を下ろす。
森の奥を見たまま、
しばらく動かなかった。
「……悪い」
男が俺を見る。
足元を見る。
折れた枝を見る。
また俺を見る。
何か言った。
短い。
「悪かったって」
もう一度、
何か言われた。
さっきより短かった。
たぶん、
二度言わせるようなことではない。
*
男が歩き出した。
俺もついていく。
一歩。
ぱき。
男が止まる。
振り返る。
俺も止まる。
男の視線が、
俺の足元へ落ちる。
細い枝を踏んでいた。
男は戻ってきた。
俺の前に立つ。
何も言わず、
自分の足を上げた。
落ち葉の間。
枝のないところへ置く。
もう一歩。
石の横。
音がしない。
俺を見る。
俺も足元を見る。
一歩。
枝を避ける。
濡れた土に、
ゆっくり足を置く。
男は見ている。
もう一歩。
今度は落ち葉が鳴った。
男が目を閉じた。
「……分かったよ」
男は歩き出した。
少し進む。
さっきより、
遅い。
俺も、
足元を見ながらついていった。
*
どれくらい歩いたのか分からない。
男がしゃがんだ。
地面に、
黒っぽい小さなものが落ちている。
いくつもある。
俺もしゃがむ。
男は触らない。
俺も触らない。
男が、
来た方向を指した。
俺は振り返る。
足跡。
折れた枝。
木の傷。
そして、
目の前の黒い粒。
俺は順番に指した。
最後に、
森の奥を指す。
若い男は、
俺の指を見る。
顔を見る。
それだけだった。
立ち上がる。
俺も立った。
*
そこからは、
男の背中ばかり見ないようにした。
足元。
枝。
葉。
土。
さっきまで気にも留めなかったものが、
いくつも目に入る。
どれが意味のあるものなのかは、
分からない。
一度、
折れた枝を見つけた。
俺は足を止めた。
若い男を見る。
男も気づいて戻ってきた。
俺が枝を指す。
男は一度見ただけで、
歩き出した。
「違うのか」
少し先。
また折れた枝がある。
今度は指ささなかった。
*
男が突然しゃがんだ。
俺も止まった。
足元を見る。
枝はない。
ゆっくり腰を落とす。
音は出なかった。
若い男が、
こっちを見る。
ほんの一瞬だった。
すぐに森の奥へ視線を戻す。
指を伸ばした。
俺も、その先を見る。
木。
木。
その向こうに、
暗い影。
何も見えない。
目を細める。
影が、
わずかに動いた。
俺は息を止めた。
木の間から、
細長いものが二本、
ゆっくり現れた。
枝じゃない。
その下で、
何かがこちらを見ていた。
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