第10話 誰と、誰が
朝から、
子どもの声がしていた。
火の向こうを走っている。
昨日の雨で地面はまだ少し湿っていて、
足の裏に泥がついていた。
それでも気にしない。
走って、
しゃがんで、
また走る。
何がそんなに忙しいのか、
俺には分からない。
*
俺は、
昨日運んだ枝をまとめていた。
太いもの。
細いもの。
湿っているもの。
前なら全部、
ただの枝にしか見えなかった。
今は少しだけ違う。
火のそばに置くものと、
少し離しておくもの。
若い男がやっていたのを、
何度も見た。
俺は一本取って、
火の近くへ置く。
向こうにいた若い男が、
ちらりと見る。
何も言わない。
首も振らない。
それだけで、
少し安心した。
*
子どもが走ってきた。
俺の前で止まる。
手に何か持っている。
木の実だった。
一つ。
俺に見せる。
「それ、昨日の?」
通じない。
子どもは木の実を握ったまま、
俺の横にしゃがんだ。
枝を見る。
一本取る。
俺が火の近くへ置いたものとは、
別の場所へ放る。
「え?」
子どもが、
もう一本取る。
同じ場所。
俺は二つの枝を見る。
「そっちなのか」
昨日までなら、
たぶん全部一緒にしていた。
子どもが俺を見る。
俺も見る。
「分かったよ」
分かったかどうかは、
まだ怪しい。
それでも俺が枝を持ち直すと、
子どもはもう興味をなくしていた。
*
女の声がした。
子どもが振り向く。
あの女だ。
最初の日、
水を持ってきてくれた女。
子どもが走っていく。
女の前で止まる。
何か言う。
女がしゃがんで、
子どもの肩についていたものを払った。
髪にも何かついていたらしい。
指で取る。
子どもはじっとしていない。
体をひねって、
どこかへ行こうとする。
女が腕をつかむ。
子どもが笑う。
女も何か言う。
俺は、
枝を持ったまま見ていた。
母親。
そんな言葉が、
頭に浮かんだ。
たぶん。
そうなんじゃないかと思った。
*
若い男が戻ってきた。
手に細長い棒を持っている。
先のほうを見て、
指で触る。
女が何か言った。
男が答える。
子どもが二人の間へ入る。
男の持っている棒に触ろうとして、
手を払われた。
子どもが、
もう一度伸ばす。
また払われる。
三度目。
男が棒を高く上げた。
届かない。
子どもが跳ぶ。
男が少し上げる。
また跳ぶ。
「おい」
思わず笑った。
若い男が、
こっちを見る。
目が合う。
俺は笑うのをやめた。
男は少しだけ俺を見て、
また子どものほうを見る。
棒をさらに上げた。
子どもが怒ったような声を出す。
今度は、
女が笑った。
俺もまた笑った。
*
三人を見ていると、
さっきの言葉が、
もう一度浮かんだ。
母親。
それから――
俺は若い男を見る。
子どもは、
男の脚にしがみついている。
男は邪魔そうに足を動かす。
それでも本気で振り払わない。
父親。
そこまで考えて、
俺は枝を一本拾った。
*
昼を少し過ぎたころだった。
見たことのある男が、
森のほうから戻ってきた。
年は、
若い男より上に見える。
最初の日から、
何度か見ている。
あまり俺を見ない男だ。
その男を見つけると、
子どもが走った。
女のところへ行ったときより、
速かった。
男の前まで行く。
何か言う。
男が答える。
子どもが、
男の腰に抱きついた。
「……あれ?」
男は、
子どもの頭に手を置いた。
一度。
二度。
それから、
持っていたものを女に渡した。
女が受け取る。
二人が話す。
子どもは、
その間にしゃがんで、
男の足元をいじっている。
若い男は少し離れたところで、
石を触っていた。
こちらを見もしない。
*
俺は、
手の中の枝を見る。
さっきまで、
簡単だった。
女。
子ども。
若い男。
三人並べれば、
勝手に形ができた。
でも、
もう一人いる。
*
男が座った。
子どもが、
すぐ隣へ座る。
何か話している。
言葉は分からない。
男が指を三本立てる。
子どもが、
二本立てる。
男が首を振る。
子どもが笑う。
また三本。
今度は、
子どもも三本。
男が何か言う。
子どもが立ち上がって、
走っていく。
何だったのか、
分からない。
俺には、
分からないことばかりだ。
*
夕方。
子どもは、
また若い男のところにいた。
今度は、
男が何かを削っている。
子どもが横から覗く。
近づきすぎたらしい。
額を押されて、
後ろへ下がる。
また近づく。
また押される。
俺は少し離れたところで、
木の実を分けていた。
前よりは速くなった。
たぶん。
子どもほどじゃない。
*
しばらくして、
昼に戻ってきた男が立った。
何か持っている。
女に声をかける。
女が振り向く。
二人が少し話す。
男が歩き出した。
女も、
あとを追う。
子どもが気づいた。
走っていく。
三人は、
森の手前のほうへ向かった。
俺は手を止めた。
若い男を見る。
まだ座っている。
何も気にしていないように、
手を動かしている。
「……行かないのか?」
当然、
通じない。
若い男は顔も上げなかった。
*
三人の姿が見えなくなった。
俺は、
木の実を一つ持ったまま考えた。
どこへ行った。
いつ戻る。
あの男は誰だ。
女は。
若い男は。
あの子は。
*
名前すら、
ほとんど分からない。
それなのに俺は、
もう誰と誰が何なのかを、
決めようとしていた。
*
日が傾いた。
森の影が長くなる。
俺は枝を運んだ。
火のそばに置く。
若い男が、
一本だけ抜いた。
別の場所へ移す。
「……それ、違ったか」
男は何も言わない。
*
暗くなる少し前。
声がした。
子どもだった。
森のほうから走ってくる。
一人。
少し遅れて、
女が見えた。
昼の男はいない。
「……あれ?」
子どもは、
まっすぐ火のところへ走っていく。
若い男が顔を上げる。
子どもが何か言う。
若い男が答える。
それだけだった。
女も戻ってくる。
持っていたものを置く。
誰も、
昼の男のことを説明しない。
俺に説明するはずもない。
*
夜。
火のそばに座る。
子どもは、
女の近くにいる。
若い男は、
少し離れたところ。
老人もいる。
ほかにも何人かいる。
誰かが話す。
誰かが笑う。
子どもが、
別の大人のところへ行く。
何かもらう。
戻ってくる。
途中でまた止まる。
今度は老人の横に座る。
*
俺は、
その様子を見ていた。
母親。
父親。
家族。
*
知っている言葉なら、
いくらでもある。
けれど、
どれをここに置けばいいのか、
分からなかった。
*
そのとき、
暗がりから声がした。
*
低い、
男の声。
*
子どもが、
すぐに顔を上げた。
*
俺も、
そちらを見た。
*
誰の声なのかは、
分からなかった。
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