第11話 シュレディンガーの添付ファイル
11話 話はまったく進みません。
メールの添付ファイルを開けるか開けないか悩むお話です。
『38階です。ドアが開きます』
無機質な機械のガイダンス音声の後、私はトッシー先輩に会釈してから、すでに人数が少なくなっていたエレベーターを降りた。
先ほどまでトッシー先輩とフリートークしていた時間を思い出す。
私、独りじゃないんだな。
そう、会社にはトッシー先輩がいるのだ……
あまり会いたくなかったトッシー先輩だけれども。
知っている人が1人いるといないとじゃ、心の持ちようがまったく異なってくるから不思議だ。
ありがとう、トッシー先輩!!
おっと、感慨に浸っている場合ではない。
はやく秘書課に入らないと。
秘書課のドアノブを左手で開け、後ろ手にドアを静かに閉める。
ドア口で秘書課のみなさんに『おはようございます』と挨拶をすると、ちらほらと挨拶が返ってきた。
自分の席までみんなの様子を観察しながら、他の人の邪魔にならないように、忍び足で移動する。
秘書課の一番奥にいる秘書課課長の小山さんがパソコンの横からひょっこりと顔を出した。
目が合ったので軽く会釈をする。
ああ、憧れの小山さん。
立ち居振る舞いや所作がとても優雅で美しい上に、今日も微笑みながら仕事をこなしていらっしゃる。
今日も少し大きめのゆったりとしたワイシャツを着こなしているな。
別に隠す必要ないのに……
170cmの身長に大きな胸と腰のくびれ。
本人は自分の体がコンプレックスだと言っていたから、本人の前で言えないけど、私のように日本人の平
均的な胸の大きさの人間からしてみたら、うらやましい限りだよ。
できれば、もっと小山さんの仕事ぶりや橋上や仕草など、すべてを観察していたいけど、自分の席の前でじっと立ったままでいるわけにもいかない。
仕方なく、私は自分の椅子に座った。
座ってしまうと、小山さんのデスクトップパソコンが邪魔をしていて、体どころか、顔も良く見えなくなってしまう。
これじゃあ、小山さんの観察はできない。
小山さんの隣の席の人がうらやましいよ。
出きれば代わってほしいところだけど、ここの席順は役職が高い人が一番奥で、後は年功序列になっているから、入社2年目で本社1年目の私が小山さんの隣に座れるわけがない。
もしも、28歳という若さで課長になって2年目の小山さんの近くで、秘書の技術を盗みたいので、席を代わってくださいなんて言おうものなら、全員から嫌われてしまうだろう。
ここは我慢だ。
今は私の席がドアから一番近いけれど、耐えて、耐えて、耐え抜いて、いつか10席ある物理的距離を縮めていくしかない。
もっとここにいる年数が長くなれば、小山さんとの距離も近くなっていくはず……
……いや、違う。
ここで働いている限り、1年たてば、全員の年数が同じように上がっていくわけだから、誰かが退職しない限り、ずっと物理的距離は縮まらないじゃないか!!
うちの会社、寿退社も自主退職も少ないから、他の人が定年退職するまで絶望的だろう。
小山さんの近くで秘書の技術を盗める日は、めちゃくちゃ遠いじゃないか……
なんで今まで気づかなかったんだ。
テンション下がる……
がっくりしながら、デスクの引き出しにトートバッグを入れてパソコンを立ち上げた。
個人のパスワードを入力してすると、お待ちくださいの表示が出てくる。
しかたない、パソコンが立ち上げるまで、待つか……
私は周りを見回した。
みんなパソコンとにらめっこしながら、指だけ動かしていて、私と目が合う人などいない。
今は電話がかけている人もいないので、空調の音とパソコンをタイピングするカチャカチャさせる音だけが響いていた。
うう、この音、好きじゃない。
まるで、キーボード同士で無機質にモールス信号を打ち合っているようにしか思えないんだよね。
人と人が会話してこそ、コミュニケーションじゃないのか??
人の声を直接聞くことで、『今日は二日酔いなのかな??』とか、『今日は機嫌がいいな』とか、分かることってたくさんあるのに。
秘書の仕事は相手を慮ることだ。
このカチャカチャ音で分かるのはめちゃくちゃ機嫌が悪い人が思い切りキーボードを叩いているときくらいで、この音だけでは、人を思いやる私のスキルが活かせないのだよ。
時間節約のため、口頭での引継ぎやミーティングは緊急時以外行われないので、仕方ないと言えば、仕方ないけどさ。
せめて、みんなの顔と服装が見える位置にして欲しいよね。
この席からだと、壁とパソコンしか見えないじゃないか。
今日は誰が気合を入れておしゃれしているとか、靴はどんなものを履いているとか、全然分からない。
コミュニケーションは言葉だけではないんだから……
なんて思っている最中、パソコンにパスワードを訊かれたので、すぐさまパスワードを打ち込み、パソコンのデスクトップを表示させると、自動的に社内チャットの画面が出てきた。
おっと、自分の愚痴を心の中でつぶやいている場合じゃない。
今日の確認事項をきちんと把握しないと。
えっと、引継ぎやミーティングはと……
私がワイヤレスマウスを動かすと、そこには赤い色のフォントで【緊急・重要】と文字があった。
そう、『上役の名簿の追加訂正について』という題名を見て、私の背筋が一瞬で凍り付く。
まさか……
いや、まさか……
私は唾をごくりとのみこみ、ゆっくりと添付ファイルを開こうとしたが、そこで手を止める。
この添付ファイルの中身がトッシー先輩に関することであれば、私はトッシー先輩に粗相をしたことになる。
逆にトッシー先輩のことでなければ、私はトッシー先輩に粗相したことにならない。
そう、この添付ファイルを開くまではわからないのだ。
このまま添付ファイルをずっと開けないで、トッシー先輩に粗相したかどうか、分からないままのほうが良いのではないか??
そう、箱に猫を入れて、猫が生きているかどうかは、箱を開けるまでは分からない『シュレディンガーの猫』のように、添付ファイルを開けるまで、トッシー先輩が部長かどうかは分からない、『シュレディンガーの添付ファイル』にしたほうが良いのだ。
まとめ
加奈、メールの添付ファイルを開けるか開けないか悩む。




