ここは、異世界だ
彼女についていって、もう一度、家の中に入ると、彼女は手のひらくらいの大きさのパンを持ってくる。
「これくらいしかありませんが、たべてください!」
大切そうに胸に抱いていたそれを両手で、渡してくれた。
彼女は天使の生まれ変わりか、本物の天使なのではないかと、思えてきた。
パンを食べるまで、不安そうにじっと見つめてくる彼女だが、パンを食べ始めると、自分の事のように、嬉しそうに微笑んでみせる。
「ぐぅうううううううううう…………」
誰かのいびきのような音が、唐突に、小屋の中に響き渡った。
音の正体を探す間もなく、彼女の頬が段々と赤く染まっていくのが分かる。
どうやら、今の音は、彼女のお腹が鳴ったものらしい。
「……食べる?」
「い、いえ! それはもうあなたのものです! それにわたしは、おなかなんてすいてません!」
「ぐぅううううううううううううううううううううううう――――」
「すいてません!!」
先ほどよりも大きなお腹の音だったのだが、彼女は首を横に振って、否定する。
「でも、すいてても大丈夫なんです。それが、わたしの魔法ですから……」
「魔法魔法って、そんなのあるわけが……ホントにあるの?」
否定しようとするが、彼女の無垢な眼差しに当てられて、それを貫く気を削がれてしまう。
「わたしの魔法は、人に見せれるような大それたものじゃないので、説明だけしますと、わたしたちは生まれた時から、一つの言葉を持っています。その言葉というのは、同じ場合もあるんですが、基本的にはひとりひとり違います。例えば、『水』という単語を、生まれながらに持っている人がいるとします。その人は、『水』に関係した力を持っていて、それを魔法として使うことができるんです」
「その、君の言葉って言うのは……?」
「わたしのは……あっ、そう言えば、重要なことを忘れてました!」
彼女は、自らの顔を最大限にまで近づけてくる。
重要と言うくらいのことなのだから、今置かれている状況についての情報があるのかと思いきや、彼女の口から出たのは、そんな事ではなかった。
「名前です! まだきいてませんでした!」
確かに彼女の名前を僕は知らない。同じように彼女も僕の名前を知らない。でも、僕は僕の名前を知っているのか?
今のところ、憶えているのは、今着ている制服を着て、高校に通っていた事だけだ。
「わたしは、リリー・シャーロット・コリンズっていいます! リリーってよんでください! あなたのお名前は?」
「僕の……名前……」
思い出そうと、片手を頭に当ててみるが、何の刺激にもならない。
憶えていない訳ではないが、何故か、思い出したくない自分がいる。
「わかりませんか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……なんでだろ……?」
自分でも分からないが、何かが引っかかって外れない。
知っているはずなのに、それが自分を表しているものだと、認めたくない。
「大丈夫ですよ! わたし、バカにしたりしませんから!」
「馬鹿にされる……?」
馬鹿にされていた。そうか。確かに、からかわれていたような記憶がある。
それが原因で、名前が言えない。この世界でも――――。
『リオって……女の子みたいな名前』
「利央。石綿 利央って言うんだ」
「リオ……わたしと同じで、リがつくんですね! 一緒ですね! リオさん!」
リリーは笑顔で、その名前を呼んでくれた。
いつぶりだろうか、自分の名前を呼ばれて、嬉しいと思ったのは。
多分、“前”の世界では、あり得なかったことだ。
この世界は、今まで経験してきた世界とは違う。そう思った瞬間に、記憶にかかった何層もの靄が、一層だけ無くなった気がした。すると、自分の名前がすらっと出てきて、得体の知れない場所にいることに対する不安も払拭される。
ここは、異世界だ。




