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食い逃げ妖精、指名手配中

食い逃げ妖精、眠れるお城の台所だけ起こす。

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/26

 

 山の向こうに、朝を祝う城があった。


 一年で最も夜が短い日。


 城では、夜が明けるまで眠らずに祭りの支度をする。


 塔には金色の旗。


 庭には千本の蝋燭。


 広間には白い卓が並び、台所では朝食のパンが次々と焼かれていた。


 蜂蜜パン。


 林檎のパイ。


 朝露を固めたゼリー。


 太陽の形をした黄色いタルト。


 城の者たちは、朝日が山から顔を出した瞬間、焼きたての菓子を食べることになっていた。


 けれど、その年。


 夜の魔女が城の上を通りかかった。


 魔女は暗い空を好んでいた。


 下を見る。


 城の窓という窓に灯りがついている。


 塔にも。


 庭にも。


 台所にも。


「まぶしいねえ」


 夜の魔女は目を細めた。


 城へ降りる気はなかった。


 祭りを邪魔するつもりも、それほどなかった。


 ただ、少し静かにしてほしかった。


 魔女は袖の中から、黒い芥子の種を一粒取り出した。


 指で弾く。


 種は城の上で弾け、紫色の粉になった。


 粉が屋根へ降る。


 窓から入る。


 煙突から入る。


 城門の隙間から入る。


 魔女は大きな欠伸をした。


「赤い雄鶏が三度鳴くまで、おやすみ」


 その声を聞いた者から、眠り始めた。


 庭師が箒を持ったまま眠る。


 楽師が笛を吹いたまま眠る。


 兵士が槍を立てたまま眠る。


 王は祭りの挨拶を練習したまま眠り、王妃は冠を選びながら眠った。


 姫は靴を片方だけ履いて眠った。


 台所でも、料理人たちが次々と眠った。


 生地をこねたまま。


 卵を割ったまま。


 焼き上がったパンを持ったまま。


 最後に、城の裏にある鳥小屋へ紫色の粉が入った。


 赤い雄鶏が目を閉じた。


 城は静かになった。


 赤い雄鶏が鳴くまで、城の者は起きない。


 けれど、赤い雄鶏も眠っていた。


 夜の魔女は、そのことに気づかず飛んでいった。


 そのころ。


 タルムは山道を歩いていた。


 大きな甲羅の上には、小さな家が載っている。


 家の窓から、リリィが顔を出した。


「タルム」


「なんだい」


「パンの匂いがするよ」


「夜中だよ」


「夜中でもパンはパンだよ」


 風に乗って、甘い匂いが流れてくる。


 焼けた小麦。


 蜂蜜。


 林檎。


 溶けたバター。


 リリィは窓から身を乗り出した。


 山の上に城が見える。


 窓には灯りがついている。


 けれど、人の声はしない。


 音楽も聞こえない。


「お祭りかな」


「静かなお祭りだねえ」


「見てくるね」


「見るだけかい」


「食べ物がなかったらね!」


 リリィは家を飛び出した。


 城へ向かう。


 門は閉じていた。


 門番は立ったまま眠っている。


「入るよ」


 返事はない。


 リリィは門番の鼻先で手を振った。


 起きない。


 兜の飾りを引っ張ってみる。


 起きない。


「よく寝てるね」


 城壁を越える。


 庭では、噴水のそばで侍女が眠っていた。


 広間では、楽師たちが眠っていた。


 長い卓には皿だけが並び、料理はまだ運ばれていない。


 けれど、甘い匂いは城の奥から続いている。


 リリィは匂いを追った。


 廊下を曲がる。


 階段を下りる。


 大きな扉の下から、細い光が漏れていた。


 扉には金色の文字がある。


『王室大台所』


 リリィは鍵穴から中へ入った。


 台所も眠っていた。


 料理長は大きな匙を握ったまま、椅子に座っている。


 パン職人は窯の前で眠っている。


 菓子職人は絞り袋を持ったまま眠り、白いクリームが空中へ少しだけ垂れていた。


 火は消えていない。


 窯の奥で、赤い炭が静かに光っている。


 調理台の上には、祭りの朝食が並んでいた。


 蜂蜜パン。


 林檎のパイ。


 朝露のゼリー。


 黄色いタルト。


 リリィは蜂蜜パンへ近づいた。


「起きてる」


 パンはまだ温かかった。


 指で押す。


 ふわりと戻る。


 表面には蜂蜜が塗られ、窯の光を映している。


 リリィは端をちぎった。


 口へ入れる。


 外側は薄く香ばしい。


 中は柔らかい。


 蜂蜜が温かい生地へ染み込んでいた。


「おいしー!」


 金色の粉が、ぱらぱら落ちた。


 眠っているパン職人の帽子へ積もる。


 調理台へ積もる。


 床へ落ちる。


 けれど、誰も起きなかった。


 リリィはもう一つ食べた。


 今度は林檎のパイ。


 薄い生地をかじると、ぱりぱり崩れた。


 中から温かい林檎が出てくる。


 甘酸っぱい。


 少しだけ香辛料の香りがした。


「おいしー!」


 金色の粉が増えた。


 窯の中で、炭が揺れた。


 ぽっ。


 小さな火がつく。


 隣の炭にも火が移る。


 ぽっ。


 ぽっ。


 窯の奥が明るくなった。


 銅の鍋が、壁で小さく震えた。


 泡立て器が鉢の中で一度だけ回った。


 くるん。


 リリィは気づかなかった。


 台所の一番奥にある、小さな調理台を見つけていた。


 そこには、赤い布がかけられている。


 布の前には札があった。


『夜明けまで、つまむべからず。』


 リリィは赤い布をめくった。


 下には、雄鶏の形をしたパンが置かれていた。


 丸い胴体。


 大きな翼。


 細い脚。


 生地で作られた尾羽。


 頭には、赤い砂糖でできた立派な鶏冠が載っている。


 普通のパンよりずっと大きい。


 けれど、リリィなら抱えられるくらいだった。


「鳥のパンだ」


 札の裏側には、さらに文字があった。


『朝告げパン。日の出とともに焼き上げ、城の雄鶏と一緒に鳴かせること。』


 リリィは読まなかった。


 赤い鶏冠へ顔を近づける。


 苺砂糖の匂いがする。


 指で触る。


 かりかりしている。


「ここ、おいしそう」


 鶏冠の端をかじった。


 かりっ。


 甘い。


 苺の酸っぱさ。


 焦がした砂糖の苦さ。


 リリィは鶏冠を外した。


 両手で持つ。


 もう一口かじる。


「おいしー!」


 金色の粉が、朝告げパンへ降り注いだ。


 パンの翼が震えた。


 ばさり。


 リリィは鶏冠を持ったまま目を丸くした。


 朝告げパンが首を上げる。


 生地の目が開く。


 翼を広げる。


 ばさっ。


 調理台から飛び降りた。


「起きた」


 パンの雄鶏は床を歩いた。


 ぺた。


 ぺた。


 脚もパンなので、柔らかい音がする。


 雄鶏は窯の前で止まった。


 扉を嘴でつつく。


 こん。


 窯の扉が開いた。


 熱い風が台所へ吹き出す。


 金色の粉が舞い上がった。


 料理長の鼻へ入る。


 パン職人の鼻へ入る。


 菓子職人の鼻へ入る。


 三人が同時にくしゃみをした。


「はっくしょん!」


 料理長が目を開けた。


 パン職人も目を開ける。


 菓子職人も目を開ける。


 続いて、台所にいた者たちが一人ずつ起き始めた。


 卵を持った料理人。


 牛乳を運んでいた助手。


 果物を切っていた見習い。


 台所だけが目を覚ました。


 料理長は辺りを見回した。


「朝か?」


 窓の外を見る。


 まだ夜だった。


「夜だな」


 窯を見る。


 火がついている。


 眠っている城へ続く扉を見る。


 そして、蜂蜜パンを食べているリリィを見る。


「妖精がいるな」


「リリィだよ」


「なぜ食べている」


「パンがあったから」


 料理長は朝告げパンを見た。


 床を歩いている。


 その頭を見る。


 赤い鶏冠がない。


 料理長の顔色が変わった。


「鶏冠はどこだ!」


 リリィは両手を見た。


 半分ほど残った赤い砂糖の鶏冠を持っている。


「これ?」


「食べたのか!」


「まだ残ってるよ」


「残っていればよいというものではない!」


 料理長が朝告げパンへ駆け寄る。


 パンの雄鶏は、嘴を大きく開いた。


 息を吸う。


 胸がふくらむ。


 誰もが耳をふさいだ。


 けれど。


「ふすっ」


 小さな空気だけが出た。


 料理長は頭を抱えた。


「鳴けない!」


 リリィは首を傾げた。


「パンだから?」


「鶏冠がないからだ!」


「鶏冠で鳴くの?」


「朝告げパンはそうなのだ!」


 そのとき、台所の大時計が動いた。


 かちり。


 針が一つ進む。


 壁に並んだ鍋が一斉に震えた。


 銅の鉢が調理台へ飛ぶ。


 小麦袋が跳ねる。


 卵が籠から飛び出す。


 料理人たちが慌てて持ち場へ走った。


「何が始まった?」


「朝食です!」


 パン職人が叫んだ。


「台所だけ、朝の支度を始めています!」


 大時計の下にある札へ、文字が浮かんだ。


『雄鶏が鳴くまで、朝食を焼き続けます。』


 料理長が札を読む。


 朝告げパンを見る。


 鶏冠はない。


 鳴けない。


「まずい」


 小麦袋の口が開いた。


 白い粉が台所へ飛び出す。


 水差しが勝手に傾く。


 牛乳の壺も。


 蜂蜜の壺も。


 粉と水と牛乳と蜂蜜が、巨大な鉢へ入っていく。


 泡立て器が回る。


 ぐるぐる。


 ぐるぐる。


 生地が膨らむ。


 鉢からあふれる。


 調理台へ広がる。


 床へ落ちる。


 料理人たちが押さえる。


「多すぎます!」


「止めろ!」


「止まりません!」


 窯からも、次々とパンが飛び出した。


 丸パン。


 長いパン。


 編んだパン。


 花の形のパン。


 どれも自分で床を転がり、朝告げパンの周りへ集まっていく。


 パン同士がくっついた。


 丸パンが胴体へ。


 長いパンが脚へ。


 編んだパンが尾羽へ。


 花形のパンが翼へ。


 朝告げパンは、どんどん大きくなった。


 リリィより大きくなる。


 料理長より大きくなる。


 調理台より大きくなる。


 ついには、台所の天井へ頭が届いた。


 巨大なパンの雄鶏だった。


 頭に鶏冠だけがない。


「大きくなったね」


 リリィが見上げた。


「感心している場合か!」


 巨大な雄鶏が一歩踏み出す。


 どすん。


 床が揺れた。


 もう一歩。


 どすん。


 台所の扉へ向かう。


「止めろ!」


 料理人たちが脚へしがみつく。


 柔らかいパンなので、指が沈む。


 けれど止まらない。


 雄鶏は扉へ体当たりした。


 ばたん。


 扉が外れる。


 巨大なパンの雄鶏が、眠る城の廊下へ出た。


 リリィと料理長たちが追いかける。


 雄鶏は眠っている兵士をまたぐ。


 甲冑の列を翼で避ける。


 大広間へ入る。


 長い卓の上を歩く。


 白い皿が次々と跳ねた。


 どすん。


 どすん。


 雄鶏は城の中央階段を上り始めた。


「どこへ行くの?」


 リリィが聞く。


 料理長は息を切らしながら答えた。


「一番高い場所だ!」


「どうして?」


「雄鶏だからだ!」


 塔へ向かっている。


 巨大なパンの雄鶏が階段を上るたび、体から焼きたてのパンが落ちた。


 丸パンが廊下を転がる。


 蜂蜜パンが絨毯へ落ちる。


 林檎パンが眠っている兵士の兜へ載る。


 それでも、城の者は起きない。


 赤い雄鶏が三度鳴くまで、呪いは解けない。


 雄鶏は塔の螺旋階段へ入った。


 体が大きすぎる。


 壁へ押しつけられる。


 けれど、柔らかいパンなので、細長くつぶれながら上っていく。


「待ちなさい!」


 料理長が追う。


「待って!」


 リリィも追う。


 途中で、雄鶏の翼から蜂蜜パンが一つ落ちた。


 リリィは受け止める。


 一口かじる。


「おいしー!」


 金色の粉が階段へ広がった。


 巨大な雄鶏の体が、さらに膨らんだ。


 料理長が振り返る。


「食べるな!」


「落ちたよ」


「落ちても食べるな!」


 雄鶏が塔の屋上へ出た。


 夜空には、大きな月。


 山の向こうは、まだ暗い。


 眠っている本物の赤い雄鶏は、鳥小屋にいる。


 巨大なパンの雄鶏は胸を張った。


 嘴を開く。


 息を吸う。


「ふすううっ」


 やはり鳴けない。


 料理長が屋上へ転がり出た。


「鶏冠だ!」


 リリィが手に持っている、半分食べた赤い砂糖の鶏冠を指差す。


「それを戻せ!」


「まだ食べてるよ」


「城じゅうが起きないのだぞ!」


 リリィは眠る城を見下ろした。


 庭の者も。


 広間の者も。


 鳥小屋の雄鶏も。


 みんな眠っている。


 巨大なパンの雄鶏が、もう一度口を開く。


「ふすっ」


「鳴けないね」


「だから鶏冠を戻せ!」


 リリィは鶏冠を見た。


 一口分、欠けている。


「小さくなってるよ」


「構わん!」


 リリィは羽を広げた。


 巨大な雄鶏の頭へ飛ぶ。


 鶏冠があった場所には、赤い砂糖の跡が残っていた。


 そこへ、食べかけの鶏冠を押しつける。


 ぺたり。


 少し曲がった。


 一口分、欠けている。


「戻したよ」


「離れろ!」


 リリィが飛び上がる。


 指についていた金色の粉が、鶏冠へ広がった。


 赤い砂糖が光る。


 欠けたところから、小さな金色の鶏冠が生えた。


 巨大な雄鶏が目を開く。


 月へ向かって首を伸ばす。


 胸いっぱいに息を吸った。


「コケコッコー!」


 パンでできているとは思えない、大きな声だった。


 城の旗が揺れる。


 眠る者たちの髪が揺れる。


 けれど、まだ起きない。


 二度目。


「コケコッコー!」


 塔の鐘が鳴った。


 鳥小屋の赤い雄鶏が片目を開ける。


 三度目。


「コケコッコー!」


 山の向こうから、朝日が昇った。


 最初の光が、城の塔へ当たる。


 紫色の眠り粉が、窓や屋根から舞い上がった。


 庭師が目を開ける。


 兵士が目を開ける。


 楽師が目を開ける。


 王も。


 王妃も。


 姫も。


 城じゅうの者が、一斉に目を覚ました。


「朝だ!」


 誰かが叫んだ。


 その瞬間。


 巨大なパンの雄鶏の体へ、細いひびが入った。


 ぱき。


 胸が割れる。


 翼が割れる。


 尾羽がほどける。


 無数のパンになって、城の上から降り始めた。


 丸パン。


 蜂蜜パン。


 林檎パン。


 花形のパン。


 焼きたての朝食が、庭へ降る。


 卓へ降る。


 兵士の兜へ降る。


 王の膝へ降る。


 城の者たちは、空から降ってきた温かいパンを受け取った。


 王が蜂蜜パンを一口食べる。


「うまい」


 王妃も食べる。


 姫も食べる。


 兵士も。


 楽師も。


 庭師も。


 朝の祭りは、空から降るパンとともに始まった。


 塔の屋上では、料理長が座り込んでいた。


「どうにかなった」


 リリィは金色の小さな鶏冠をかじっていた。


「これもおいしいよ」


 料理長が顔を上げる。


「また食べている!」


「もう鳴いたよ」


「朝告げパンの鶏冠だぞ!」


「戻したよ」


「戻したあとに食べるな!」


 料理長は指を折った。


「蜂蜜パンが二つ」


「一つ半だよ」


「林檎のパイが一つ」


「端だけだよ」


「朝告げパンの鶏冠が一つ」


「半分残したよ」


「今、残りも食べているだろう!」


 料理長が手を差し出した。


「代金を払いなさい」


「ないよ!」


 リリィは金色の鶏冠を抱えて、塔から飛び立った。


 料理長が追いかける。


「待て! 祭りを救ったことと食い逃げは別だ!」


「パン、いっぱいあるよ!」


「だからといって無料ではない!」


 リリィは城壁を越えた。


 山道では、タルムが待っていた。


 甲羅の上の小さな家から、朝の煙が出ている。


「城は起きたかい」


 タルムが聞いた。


「台所が先に起きたよ」


「朝ごはんはあったかい」


「空から降ったよ」


「変わった朝だねえ」


 リリィは小さな家へ飛び込んだ。


 扉を閉める。


 寝台へ転がる。


 手には、食べかけの金色の鶏冠が残っていた。


「おなかいっぱい」


「朝ごはんの代金は払ったかい」


 家の外から、料理長の声が聞こえた。


「払っていない!」


 リリィは毛布を頭までかぶった。


 それから朝を祝う城では、祭りの前夜に必ず雄鶏のパンを焼くようになった。


 頭には、大きな赤い砂糖の鶏冠。


 その隣には、小さな鶏冠をもう一つ。


 小さな方には札が立てられた。


『食い逃げ妖精はこちらをどうぞ。』


 毎年、夜明け前になると小さな鶏冠だけがなくなった。


 代金が置かれていたことは、一度もなかった。

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