食い逃げ妖精、眠れるお城の台所だけ起こす。
山の向こうに、朝を祝う城があった。
一年で最も夜が短い日。
城では、夜が明けるまで眠らずに祭りの支度をする。
塔には金色の旗。
庭には千本の蝋燭。
広間には白い卓が並び、台所では朝食のパンが次々と焼かれていた。
蜂蜜パン。
林檎のパイ。
朝露を固めたゼリー。
太陽の形をした黄色いタルト。
城の者たちは、朝日が山から顔を出した瞬間、焼きたての菓子を食べることになっていた。
けれど、その年。
夜の魔女が城の上を通りかかった。
魔女は暗い空を好んでいた。
下を見る。
城の窓という窓に灯りがついている。
塔にも。
庭にも。
台所にも。
「まぶしいねえ」
夜の魔女は目を細めた。
城へ降りる気はなかった。
祭りを邪魔するつもりも、それほどなかった。
ただ、少し静かにしてほしかった。
魔女は袖の中から、黒い芥子の種を一粒取り出した。
指で弾く。
種は城の上で弾け、紫色の粉になった。
粉が屋根へ降る。
窓から入る。
煙突から入る。
城門の隙間から入る。
魔女は大きな欠伸をした。
「赤い雄鶏が三度鳴くまで、おやすみ」
その声を聞いた者から、眠り始めた。
庭師が箒を持ったまま眠る。
楽師が笛を吹いたまま眠る。
兵士が槍を立てたまま眠る。
王は祭りの挨拶を練習したまま眠り、王妃は冠を選びながら眠った。
姫は靴を片方だけ履いて眠った。
台所でも、料理人たちが次々と眠った。
生地をこねたまま。
卵を割ったまま。
焼き上がったパンを持ったまま。
最後に、城の裏にある鳥小屋へ紫色の粉が入った。
赤い雄鶏が目を閉じた。
城は静かになった。
赤い雄鶏が鳴くまで、城の者は起きない。
けれど、赤い雄鶏も眠っていた。
夜の魔女は、そのことに気づかず飛んでいった。
そのころ。
タルムは山道を歩いていた。
大きな甲羅の上には、小さな家が載っている。
家の窓から、リリィが顔を出した。
「タルム」
「なんだい」
「パンの匂いがするよ」
「夜中だよ」
「夜中でもパンはパンだよ」
風に乗って、甘い匂いが流れてくる。
焼けた小麦。
蜂蜜。
林檎。
溶けたバター。
リリィは窓から身を乗り出した。
山の上に城が見える。
窓には灯りがついている。
けれど、人の声はしない。
音楽も聞こえない。
「お祭りかな」
「静かなお祭りだねえ」
「見てくるね」
「見るだけかい」
「食べ物がなかったらね!」
リリィは家を飛び出した。
城へ向かう。
門は閉じていた。
門番は立ったまま眠っている。
「入るよ」
返事はない。
リリィは門番の鼻先で手を振った。
起きない。
兜の飾りを引っ張ってみる。
起きない。
「よく寝てるね」
城壁を越える。
庭では、噴水のそばで侍女が眠っていた。
広間では、楽師たちが眠っていた。
長い卓には皿だけが並び、料理はまだ運ばれていない。
けれど、甘い匂いは城の奥から続いている。
リリィは匂いを追った。
廊下を曲がる。
階段を下りる。
大きな扉の下から、細い光が漏れていた。
扉には金色の文字がある。
『王室大台所』
リリィは鍵穴から中へ入った。
台所も眠っていた。
料理長は大きな匙を握ったまま、椅子に座っている。
パン職人は窯の前で眠っている。
菓子職人は絞り袋を持ったまま眠り、白いクリームが空中へ少しだけ垂れていた。
火は消えていない。
窯の奥で、赤い炭が静かに光っている。
調理台の上には、祭りの朝食が並んでいた。
蜂蜜パン。
林檎のパイ。
朝露のゼリー。
黄色いタルト。
リリィは蜂蜜パンへ近づいた。
「起きてる」
パンはまだ温かかった。
指で押す。
ふわりと戻る。
表面には蜂蜜が塗られ、窯の光を映している。
リリィは端をちぎった。
口へ入れる。
外側は薄く香ばしい。
中は柔らかい。
蜂蜜が温かい生地へ染み込んでいた。
「おいしー!」
金色の粉が、ぱらぱら落ちた。
眠っているパン職人の帽子へ積もる。
調理台へ積もる。
床へ落ちる。
けれど、誰も起きなかった。
リリィはもう一つ食べた。
今度は林檎のパイ。
薄い生地をかじると、ぱりぱり崩れた。
中から温かい林檎が出てくる。
甘酸っぱい。
少しだけ香辛料の香りがした。
「おいしー!」
金色の粉が増えた。
窯の中で、炭が揺れた。
ぽっ。
小さな火がつく。
隣の炭にも火が移る。
ぽっ。
ぽっ。
窯の奥が明るくなった。
銅の鍋が、壁で小さく震えた。
泡立て器が鉢の中で一度だけ回った。
くるん。
リリィは気づかなかった。
台所の一番奥にある、小さな調理台を見つけていた。
そこには、赤い布がかけられている。
布の前には札があった。
『夜明けまで、つまむべからず。』
リリィは赤い布をめくった。
下には、雄鶏の形をしたパンが置かれていた。
丸い胴体。
大きな翼。
細い脚。
生地で作られた尾羽。
頭には、赤い砂糖でできた立派な鶏冠が載っている。
普通のパンよりずっと大きい。
けれど、リリィなら抱えられるくらいだった。
「鳥のパンだ」
札の裏側には、さらに文字があった。
『朝告げパン。日の出とともに焼き上げ、城の雄鶏と一緒に鳴かせること。』
リリィは読まなかった。
赤い鶏冠へ顔を近づける。
苺砂糖の匂いがする。
指で触る。
かりかりしている。
「ここ、おいしそう」
鶏冠の端をかじった。
かりっ。
甘い。
苺の酸っぱさ。
焦がした砂糖の苦さ。
リリィは鶏冠を外した。
両手で持つ。
もう一口かじる。
「おいしー!」
金色の粉が、朝告げパンへ降り注いだ。
パンの翼が震えた。
ばさり。
リリィは鶏冠を持ったまま目を丸くした。
朝告げパンが首を上げる。
生地の目が開く。
翼を広げる。
ばさっ。
調理台から飛び降りた。
「起きた」
パンの雄鶏は床を歩いた。
ぺた。
ぺた。
脚もパンなので、柔らかい音がする。
雄鶏は窯の前で止まった。
扉を嘴でつつく。
こん。
窯の扉が開いた。
熱い風が台所へ吹き出す。
金色の粉が舞い上がった。
料理長の鼻へ入る。
パン職人の鼻へ入る。
菓子職人の鼻へ入る。
三人が同時にくしゃみをした。
「はっくしょん!」
料理長が目を開けた。
パン職人も目を開ける。
菓子職人も目を開ける。
続いて、台所にいた者たちが一人ずつ起き始めた。
卵を持った料理人。
牛乳を運んでいた助手。
果物を切っていた見習い。
台所だけが目を覚ました。
料理長は辺りを見回した。
「朝か?」
窓の外を見る。
まだ夜だった。
「夜だな」
窯を見る。
火がついている。
眠っている城へ続く扉を見る。
そして、蜂蜜パンを食べているリリィを見る。
「妖精がいるな」
「リリィだよ」
「なぜ食べている」
「パンがあったから」
料理長は朝告げパンを見た。
床を歩いている。
その頭を見る。
赤い鶏冠がない。
料理長の顔色が変わった。
「鶏冠はどこだ!」
リリィは両手を見た。
半分ほど残った赤い砂糖の鶏冠を持っている。
「これ?」
「食べたのか!」
「まだ残ってるよ」
「残っていればよいというものではない!」
料理長が朝告げパンへ駆け寄る。
パンの雄鶏は、嘴を大きく開いた。
息を吸う。
胸がふくらむ。
誰もが耳をふさいだ。
けれど。
「ふすっ」
小さな空気だけが出た。
料理長は頭を抱えた。
「鳴けない!」
リリィは首を傾げた。
「パンだから?」
「鶏冠がないからだ!」
「鶏冠で鳴くの?」
「朝告げパンはそうなのだ!」
そのとき、台所の大時計が動いた。
かちり。
針が一つ進む。
壁に並んだ鍋が一斉に震えた。
銅の鉢が調理台へ飛ぶ。
小麦袋が跳ねる。
卵が籠から飛び出す。
料理人たちが慌てて持ち場へ走った。
「何が始まった?」
「朝食です!」
パン職人が叫んだ。
「台所だけ、朝の支度を始めています!」
大時計の下にある札へ、文字が浮かんだ。
『雄鶏が鳴くまで、朝食を焼き続けます。』
料理長が札を読む。
朝告げパンを見る。
鶏冠はない。
鳴けない。
「まずい」
小麦袋の口が開いた。
白い粉が台所へ飛び出す。
水差しが勝手に傾く。
牛乳の壺も。
蜂蜜の壺も。
粉と水と牛乳と蜂蜜が、巨大な鉢へ入っていく。
泡立て器が回る。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
生地が膨らむ。
鉢からあふれる。
調理台へ広がる。
床へ落ちる。
料理人たちが押さえる。
「多すぎます!」
「止めろ!」
「止まりません!」
窯からも、次々とパンが飛び出した。
丸パン。
長いパン。
編んだパン。
花の形のパン。
どれも自分で床を転がり、朝告げパンの周りへ集まっていく。
パン同士がくっついた。
丸パンが胴体へ。
長いパンが脚へ。
編んだパンが尾羽へ。
花形のパンが翼へ。
朝告げパンは、どんどん大きくなった。
リリィより大きくなる。
料理長より大きくなる。
調理台より大きくなる。
ついには、台所の天井へ頭が届いた。
巨大なパンの雄鶏だった。
頭に鶏冠だけがない。
「大きくなったね」
リリィが見上げた。
「感心している場合か!」
巨大な雄鶏が一歩踏み出す。
どすん。
床が揺れた。
もう一歩。
どすん。
台所の扉へ向かう。
「止めろ!」
料理人たちが脚へしがみつく。
柔らかいパンなので、指が沈む。
けれど止まらない。
雄鶏は扉へ体当たりした。
ばたん。
扉が外れる。
巨大なパンの雄鶏が、眠る城の廊下へ出た。
リリィと料理長たちが追いかける。
雄鶏は眠っている兵士をまたぐ。
甲冑の列を翼で避ける。
大広間へ入る。
長い卓の上を歩く。
白い皿が次々と跳ねた。
どすん。
どすん。
雄鶏は城の中央階段を上り始めた。
「どこへ行くの?」
リリィが聞く。
料理長は息を切らしながら答えた。
「一番高い場所だ!」
「どうして?」
「雄鶏だからだ!」
塔へ向かっている。
巨大なパンの雄鶏が階段を上るたび、体から焼きたてのパンが落ちた。
丸パンが廊下を転がる。
蜂蜜パンが絨毯へ落ちる。
林檎パンが眠っている兵士の兜へ載る。
それでも、城の者は起きない。
赤い雄鶏が三度鳴くまで、呪いは解けない。
雄鶏は塔の螺旋階段へ入った。
体が大きすぎる。
壁へ押しつけられる。
けれど、柔らかいパンなので、細長くつぶれながら上っていく。
「待ちなさい!」
料理長が追う。
「待って!」
リリィも追う。
途中で、雄鶏の翼から蜂蜜パンが一つ落ちた。
リリィは受け止める。
一口かじる。
「おいしー!」
金色の粉が階段へ広がった。
巨大な雄鶏の体が、さらに膨らんだ。
料理長が振り返る。
「食べるな!」
「落ちたよ」
「落ちても食べるな!」
雄鶏が塔の屋上へ出た。
夜空には、大きな月。
山の向こうは、まだ暗い。
眠っている本物の赤い雄鶏は、鳥小屋にいる。
巨大なパンの雄鶏は胸を張った。
嘴を開く。
息を吸う。
「ふすううっ」
やはり鳴けない。
料理長が屋上へ転がり出た。
「鶏冠だ!」
リリィが手に持っている、半分食べた赤い砂糖の鶏冠を指差す。
「それを戻せ!」
「まだ食べてるよ」
「城じゅうが起きないのだぞ!」
リリィは眠る城を見下ろした。
庭の者も。
広間の者も。
鳥小屋の雄鶏も。
みんな眠っている。
巨大なパンの雄鶏が、もう一度口を開く。
「ふすっ」
「鳴けないね」
「だから鶏冠を戻せ!」
リリィは鶏冠を見た。
一口分、欠けている。
「小さくなってるよ」
「構わん!」
リリィは羽を広げた。
巨大な雄鶏の頭へ飛ぶ。
鶏冠があった場所には、赤い砂糖の跡が残っていた。
そこへ、食べかけの鶏冠を押しつける。
ぺたり。
少し曲がった。
一口分、欠けている。
「戻したよ」
「離れろ!」
リリィが飛び上がる。
指についていた金色の粉が、鶏冠へ広がった。
赤い砂糖が光る。
欠けたところから、小さな金色の鶏冠が生えた。
巨大な雄鶏が目を開く。
月へ向かって首を伸ばす。
胸いっぱいに息を吸った。
「コケコッコー!」
パンでできているとは思えない、大きな声だった。
城の旗が揺れる。
眠る者たちの髪が揺れる。
けれど、まだ起きない。
二度目。
「コケコッコー!」
塔の鐘が鳴った。
鳥小屋の赤い雄鶏が片目を開ける。
三度目。
「コケコッコー!」
山の向こうから、朝日が昇った。
最初の光が、城の塔へ当たる。
紫色の眠り粉が、窓や屋根から舞い上がった。
庭師が目を開ける。
兵士が目を開ける。
楽師が目を開ける。
王も。
王妃も。
姫も。
城じゅうの者が、一斉に目を覚ました。
「朝だ!」
誰かが叫んだ。
その瞬間。
巨大なパンの雄鶏の体へ、細いひびが入った。
ぱき。
胸が割れる。
翼が割れる。
尾羽がほどける。
無数のパンになって、城の上から降り始めた。
丸パン。
蜂蜜パン。
林檎パン。
花形のパン。
焼きたての朝食が、庭へ降る。
卓へ降る。
兵士の兜へ降る。
王の膝へ降る。
城の者たちは、空から降ってきた温かいパンを受け取った。
王が蜂蜜パンを一口食べる。
「うまい」
王妃も食べる。
姫も食べる。
兵士も。
楽師も。
庭師も。
朝の祭りは、空から降るパンとともに始まった。
塔の屋上では、料理長が座り込んでいた。
「どうにかなった」
リリィは金色の小さな鶏冠をかじっていた。
「これもおいしいよ」
料理長が顔を上げる。
「また食べている!」
「もう鳴いたよ」
「朝告げパンの鶏冠だぞ!」
「戻したよ」
「戻したあとに食べるな!」
料理長は指を折った。
「蜂蜜パンが二つ」
「一つ半だよ」
「林檎のパイが一つ」
「端だけだよ」
「朝告げパンの鶏冠が一つ」
「半分残したよ」
「今、残りも食べているだろう!」
料理長が手を差し出した。
「代金を払いなさい」
「ないよ!」
リリィは金色の鶏冠を抱えて、塔から飛び立った。
料理長が追いかける。
「待て! 祭りを救ったことと食い逃げは別だ!」
「パン、いっぱいあるよ!」
「だからといって無料ではない!」
リリィは城壁を越えた。
山道では、タルムが待っていた。
甲羅の上の小さな家から、朝の煙が出ている。
「城は起きたかい」
タルムが聞いた。
「台所が先に起きたよ」
「朝ごはんはあったかい」
「空から降ったよ」
「変わった朝だねえ」
リリィは小さな家へ飛び込んだ。
扉を閉める。
寝台へ転がる。
手には、食べかけの金色の鶏冠が残っていた。
「おなかいっぱい」
「朝ごはんの代金は払ったかい」
家の外から、料理長の声が聞こえた。
「払っていない!」
リリィは毛布を頭までかぶった。
それから朝を祝う城では、祭りの前夜に必ず雄鶏のパンを焼くようになった。
頭には、大きな赤い砂糖の鶏冠。
その隣には、小さな鶏冠をもう一つ。
小さな方には札が立てられた。
『食い逃げ妖精はこちらをどうぞ。』
毎年、夜明け前になると小さな鶏冠だけがなくなった。
代金が置かれていたことは、一度もなかった。
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