第9話 血のある聖所
中継層へ続く支持橋は、すでに片側が沈んでいた。
玲華と黒鉄が渡り始めた時、下の乗り場では住民の避難が続いていた。桐生の保安隊が高齢者を水平通路へ移し、拘束された断電派構成員が担架を持つ。互いを信じられなくても、重さは分け合えた。
支持橋の中ほどで、盗んだキーを持つ連絡員が現れた。
反対側の手すりに立ち、玲華へ拳銃を向ける。二人の間に遮蔽物はない。
黒鉄が先に照準を定めた。銃口は連絡員の額へ正確に向いている。
「キーを下ろせ」
連絡員は笑いながら後退した。
「撃てば、これも落ちる」
キーを手すりの外へ差し出す。
玲華は足を止めた。銀眼が距離と気流を計算する。手首を撃った場合、キーが内側へ落ちる確率は四十一パーセント。それより先に連絡員が引き金を引く確率の方が高い。
下から金属が裂ける音がした。
支持橋を支える補助柱が傾いていた。停電と連続する爆発で固定装置が緩んだのだ。柱が倒れる先には、住民が集まる乗り場がある。
玲華が下を見た瞬間、連絡員が撃った。弾丸が肩の横をかすめる。
黒鉄は相手を撃てた。
だが銃口を下へ向けた。手すりを越えて傾く柱の上へ飛び降りる。イリジウムの腕が補助リングへ掛かった。数トンの荷重が腕の関節を引き、赤い警告灯をともす。
「桐生! 乗り場を空けろ!」
命令が回廊全体へ響いた。
玲華は連絡員へ二発撃った。一発は銃を落とさせ、もう一発は逃走路の前を塞いだ。だが相手はキーを懐へ入れ、脇の整備扉へ身を投げた。
追うことはできた。
玲華は下へ跳んだ。
黒鉄の左腕接続部から煙が出ている。支持橋が少しずつ滑った。玲華は反対側の手動リングを掴み、グローブの磁力を起動した。
「腕を切り離して!」
「今切り離せば柱が落ちる」
「人が出た後で」
「だから支えている」
桐生が最後の担架を安全扉の向こうへ押した。
「乗り場、無人です!」
玲華が手動リングを固定した。
「もう放して」
黒鉄がイリジウムの手を開く。支持橋が固定装置の上へ落ち、轟音を上げた。接続部のねじれた腕は数秒間動かなかった。
桐生が医療支援を呼ぼうとしたが、黒鉄が止めた。
「駆動線が一本切れただけだ。作戦可能」
玲華が肘の非常カバーを開き、配線を確認する。
「精密制御は半分以下よ」
「銃は右手で撃つ」
「キーを逃した」
黒鉄は住民が去った空の乗り場を見た。
「代わりに四十人余りが残った」
「救護活動と呼ぶつもりはないのね」
「都市機能を維持しただけだ」
玲華はカバーを閉じた。善行を否定する彼のやり方は、断電派が暴力を正当化するやり方と同じほど頑固だった。それでも、いま下した選択は説明に関係なく残る。
坂本が回線へ座標を送った。
「キー信号を再捕捉。今度は上ではなく下へ向かっています」
連絡員は、閉鎖された礼拝区画へ向かっていた。
閉鎖礼拝区画は、セル東京がまだ人口配置を終えていなかった初期に使われた空間だった。
公式地図では配管倉庫と表示されている。坂本が復旧した旧図面では、名称が何度も変わっていた。共同避難所、配給予備室、無許可礼拝室、閉鎖区画。最後の修正者は記録から消されている。
玲華と黒鉄が下へ移動する間、坂本は盗まれたキーの信号を追った。信号は区画入口で三つへ分かれた。
階段の壁には、古い配給標語の上へ何世代もの文字が重なっていた。水を受け取った日付、死者の名、扉が開いたことへの短い感謝文。断ち切られた円は最も新しい上書きだったが、その下にも似た欠けた輪の跡が残っていた。玲華は年代を推定する根拠がないため、映像だけ保存した。
「また囮?」
玲華が尋ねた。
「今回は三つとも、本物のキーから出た複製信号です。断電派が台帳室で得た認証値を分けて撒いている」
「電力使用量は?」
「ほとんどない」
坂本の答えは短かった。
黒鉄が回線へ尋ねた。
「停電の規模と合わないという意味か」
「断電派の装備が使った量は、携帯蓄電池数個分です。都市電力を抜き取った痕跡はない。切断して扉を開き、移動しただけです」
玲華は壁内の微かな脈動を見た。彼らが線を切ったことで構造バッテリー全体が不安定になったが、誰かが電気を盗んで蓄えたわけではない。
「目的は台帳」
「今のところは」
坂本が付け加えた。
「もう一つ妙な点がある。台帳の複製には名前と移送日は残ったのに、寄与点数は全部消されている。資料を売るつもりなら、一番高価な列を捨てたことになる」
黒鉄が言った。
「債務無効化を示す象徴行為かもしれない」
「ずいぶん高価な象徴だ。都市の半分を消したんだから」
玲華は礼拝区画へ下りる扉の前に立った。カードパッドはない。中央に丸い取っ手が一つあり、右側の一部が切れている。断ち切られた円の印は装飾ではなく、開閉構造そのものになっていた。
「長く準備されていた場所ね」
玲華が言った。
「現在の断電派が生まれる前から存在した可能性もあります」
坂本は旧図面の日付を確認したが、ファイルの半分が壊れていた。
黒鉄は右手で拳銃を持った。損傷したイリジウムの腕は身体の脇へ低く下げている。
「内部の熱源は?」
玲華が銀眼の範囲を広げた。扉の向こうには予想以上の体温がある。横たわる者、立つ者、子供と思われる小さな熱源。一方には一定間隔で動く医療装置があり、反対側には銃器用バッテリーの熱が集まっていた。
「最低五十。患者と武装者が混在」
「突入は保安隊の合流後とする」
黒鉄が言った。
扉の内側から低い声が一斉に聞こえた。
光は誰のものでもない。
言葉は明瞭だったが、続いたのは説教ではない。薬品の数量、水の配給順、失踪者の名前だった。
玲華は銃を下ろさなかった。
「中に台帳がある」
「そして民間人もいる」
黒鉄が玲華の言おうとしたことを先に言った。
桐生の到着まで4分。その間に、扉の下の隙間から赤い液体がゆっくりと流れ出した。
血だった。
桐生が到着する前に、上の通路から担架が一台下りてきた。
保安隊員二人が白布で覆われた身体を運んでいる。南側診療所で死亡した太田勝だった。公式霊安室の電力が止まり、最寄りの低温保管区へ移送中だった。
担架が断ち切られた円の扉の前を通ると、内側の唱和がしばらく止まった。
扉の向こうにも、名前が聞こえたようだった。
玲華は白布の下から出た老人の手を見た。爪の間には古い機械油が染み込んでいる。生涯、下層設備に触れてきた手だった。断電派が意図して彼を殺したわけではない。だからといって、彼らが切った線と無関係に死んだわけでもない。
桐生が尋ねた。
「死亡記録では、攻撃主体をどう分類しましたか」
「単一の主体には絞らなかった。断電派の切断、封鎖による接近遅延、補助電力不足をすべて入れた」
「責任の所在が曖昧になります」
「原因を消すよりいい」
黒鉄が担架を止めた。白布を少しめくって顔を確認する。
「太田勝」
名を一度読み、再び布を掛けた。桐生へ言う。
「現場原本をそのまま保存しろ。公式発表には、確認された死因だけを載せる」
玲華が彼を見た。
「要約は?」
「公開できる事実を減らすことと、原本を消すことは違う」
「当事者の家族が原本を見られて、初めて違いになる」
「停電終了後に審査する」
二人の対話は合意へ届かなかった。それでも、少なくとも名前が記録の外へ押し出されることはなかった。
内側でロックが動いた。
断ち切られた円の取っ手がゆっくり回る。桐生の保安隊が盾を立てた。玲華は右手で鎮圧弾の弾倉を確認し、左手で扉脇の非常弁へ触れた。
扉が掌ほど開いた。
灰色の防護服を着た女が顔を出す。武器はなく、袖には乾いた血が付いていた。
「患者二人が死にかけています。神経安定剤が必要です」
桐生が言った。
「武装解除後、全員外へ出ろ」
「外へ出れば、債務者は逮捕されるでしょう」
玲華が尋ねた。
「血を流している人の状態から話して」
「痙攣が12分継続。体温三十九・八度。原因は過労と接続熱傷と推定」
「医師?」
「鷺沢華蓮」
坂本がすぐに名前を照会した。
「正式な免許があります。二年前、医療債務者を匿った容疑で資格停止」
華蓮は扉の隙間から玲華を真っすぐ見た。
「ここでは点数より脈拍を先に見ます。入るなら武器の安全装置を掛けて」
桐生が反対しようとしたが、玲華が手を上げた。
「診療区画の確認を名目に入る。保安隊は二人だけ。残りは扉の外」
「罠の可能性があります」
「だから私が先に行く」
玲華は拳銃の安全装置を掛けたが、ホルスターには収めなかった。黒鉄も右手の銃口を床へ下げる。
扉がさらに開いた。
その向こうには、祭壇ではなく薬品箱と水桶、眠る子供たち、壁へ立て掛けられた小銃が同じ空間に置かれていた。
玲華は断電派が隠していた答えより、さらに多くの矛盾の中へ踏み込んだ。
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