第10話 祭壇より多い寝台
断電派の聖所には、膝をつくための空き場所さえなかった。
古い配給箱が壁沿いに積まれ、その間には二十台を超える折り畳み寝台が並んでいる。食料を分ける机のすぐ後ろでは、弾倉を分解して清掃していた。天井の配管には、焼けた廃ヒューズをつないで作った断ち切られた円が掛けられていた。
玲華が予想した狂信者の顔は見当たらなかった。
大半が疲れ切っていた。老人は保温布をまとい、子供は空の水容器を枕に眠っている。灰色の作業服を着た信徒は、祈りより配給量を数えることに忙しかった。武装した者は玲華たちへ銃を向けたが、患者が通るたびに射線を空けた。
華蓮が先に歩いた。
「診療区画の中では撃たないで。どちら側も」
桐生が盾を持って後に続く。
「武装者を壁から離してください」
「患者が先に通ります」
華蓮は交渉しなかった。血の付いた手袋で寝台を一つ押し、道を作った。
玲華は人々の手首を見た。エネルギー債務帯を切った痕が多い。皮膚が剥がれるほど無理に引きちぎった者もいれば、帯の上へ黒い線を引いた者もいた。公式網で移送待ちと表示された名前が、実際の顔を持ってここへ集まっていた。
壁には紙の台帳が貼られていた。
南結衣。保護者同伴。吸入剤、一日二回。
少女は隅の寝台で眠っていた。母親が隣に座り、手を握っている。玲華と目が合うと、母親は身体で少女を隠した。
玲華は近づかなかった。生存しているという事実だけを現場記録へ加えた。
黒鉄は聖所の構造を調べた。
「主電力の迂回線はどこへ続く?」
武装信徒の一人が答えた。
「あんたたちが奪った場所から、必要な分だけ取っている」
「現在の消費量では、この区画は1時間ももたない」
「1時間あれば人を移せる」
玲華が割って入った。
「どこへ?」
答えはなかった。
聖所の奥から低い朗読が聞こえた。一人が名前を読み、周囲が同じ名前を一度だけ繰り返す。聖典の一節ではなく、停電中に失踪した人々の名簿だった。
続いて短い言葉が読まれた。
「光は誰のものでもない」
人々は繰り返さなかった。それぞれが手にした薬品や水容器を、次の人へ渡した。教義は掛け声であり、掛け声は作業手順のように使われていた。
玲華は壁に立て掛けられた小銃を見た。三本の銃身には、発砲直後の熱が残っている。反対側の寝台には、その銃を撃った者に撃たれた保安隊員が横たわっていた。華蓮は防弾服を切り、傷を縫合している。
「この場所を何と呼ぶの?」
玲華が尋ねた。
華蓮は糸を切りながら答えた。
「今日は診療所。昨日は配給所。攻撃が来れば避難所」
「聖所は?」
「死んだ人の名前を読む時だけ」
言葉が終わると、奥の扉が開いた。
肩幅の広い男が、薬品箱を二つ自ら抱えて出てきた。剃り上げた頭、右頬の火傷痕、繕われた防護服。首には焼けた廃ヒューズが一つ掛けられている。
道後玄馬は銃ではなく箱を下ろし、玲華を見た。
「都市から、人を数えに来たと聞いた」
華蓮は道後と玲華が向き合うのを見ても、会話を許さなかった。
「どいて。患者が通ります」
担架には十六歳ほどの少年が横たわっていた。全身が汗に濡れ、指が一定の間隔で痙攣している。首の後ろでは、整備作業用の接続端子が赤く腫れていた。
玲華は道を空けながら尋ねた。
「感電?」
「接続熱傷、脱水、高熱。正確な原因は分かりません」
「いつから?」
「高負荷勤務の後、似た患者が続いています。公式診療所では過労に分類されます」
華蓮は少年のまぶたを上げ、瞳孔を確認した。
「質問は後で。冷却布二枚、神経安定剤は半量」
補助者が薬品箱を開いた。空欄の方が多かった。
黒鉄が言った。
「正規医療網へ送れば、必要な薬を受け取れる」
華蓮は注射器を準備したまま、顔も上げなかった。
「送った瞬間、寄与点数不足で治療順位が下がります。その後は移送審査が付く」
「医療優先順位は生存可能性に従って決まる」
「書類にはそうあります」
黒鉄の姿勢がさらに真っすぐになった。
「根拠を提出すれば調査する」
華蓮は少年の震える手を握った。
「この子の名前は原駿。十三歳から配管整備をして、先月の勤務は196時間。今日で三度目の痙攣です。ほかにどんな根拠が必要ですか?」
玲華は銀眼で少年の生体信号を読んだ。心拍は速く、血中酸素は低い。皮下には微弱な残留電気が見えたが、長時間接続する整備士には珍しくない症状だった。異常ではあるが、原因は特定できない。
「記録原本を見られる?」
華蓮が玲華を見た。
「患者の同意がなければ見せません」
「公式監察でも?」
「ここでは寄与点数も監察権限も、治療の後です」
玲華はその原則を受け入れた。
「目が覚めたら本人に聞いて」
華蓮がほんの少し頷いた。
別の寝台では桐生の部下が縫合を受け、その隣には玲華が肩を止血した断電派構成員がいた。二人の間の移動式仕切りには、どちら側の印もない。
保安隊員が低く言った。
「こいつは我々へ発砲しました」
華蓮が答えた。
「あなたも撃った。ここでは二人とも血を流しています」
「同じ扱いをするつもりですか?」
「傷が同じなら」
どの患者の前でも華蓮の手の速さは変わらなかった。それは中立を宣言する言葉より説得力があった。
突然、少年の背が弓なりに反った。モニターが鋭く鳴る。華蓮はすぐに身体を押さえた。
「神経安定剤を全量!」
「残りは一本だけです」
「今使う」
「次の患者は?」
華蓮の手が一瞬止まった。次の人のために、今いる人への量を減らすか選ばなければならない。
玲華が自分の救急キットから監察用安定剤を出した。
「同じ成分。未開封よ」
華蓮は包装を確認して受け取った。礼は言わない。薬が入ると、少年の痙攣は少しずつ収まった。
玲華は空の薬品箱と壁際の小銃を見比べた。
ここにいる者たちは治療のため法を破り、法を阻むため銃を持った。どちらの行為が先だったのかは、まだ分からなかった。
道後は玲華へ教義を説明しなかった。
代わりに、折り畳んだ紙を三枚、机へ置いた。
「太田勝。南側診療所で補助電力を失い、死亡」
最初の名前だった。
「城戸里奈。第二配給区のエレベーターで非常制動が外れ、転落」
二人目。
「藤森圭。居住区の酸素装置が停止。手動呼吸中に死亡」
三人目。
聖所内の物音がわずかに低くなった。道後は誰にも復唱を求めなかった。
玲華が尋ねた。
「全員、今日の停電で死んだの?」
「そうだ」
「あなたたちの作戦責任を認める?」
「我々の手で切った線の先にいた」
桐生がすぐに言った。
「その供述を逮捕記録へ残します」
「残せ。名前も一緒に」
道後は紙を桐生の方へ押した。右頬の火傷痕が、話すたびに引きつる。指導者というより、長い夜勤を終えた作業班長に見えた。
黒鉄が尋ねた。
「死亡を予想していたか」
「医療線は避けたと思っていた」
「思っていた?」
「図面が古く、こちらの一人が接続を読み違えた」
「その結果、三人が死んだ」
道後は黒鉄を見た。
「だから三人の名を言った」
「覚えるだけで責任は終わらない」
二人の言葉を聞き、玲華は第九乗換層を思い出した。黒鉄が九人を覚えていると言った時、自分が返した言葉だった。
道後は低く答えた。
「終わったとは言っていない」
しばらく、誰も話さなかった。
玲華は机の紙を一枚ずつ撮影した。道後が先に名前を公開した事実も、作戦の誤りも一緒に記録する。
「停電の目的は?」
「強制移送名簿を抜き出すこと」
「なぜ?」
「移送された者が帰らないからだ」
「矯正労働区へ移った記録がある」
「到着記録は?」
玲華の問いが止まった。坂本が復旧した空欄を思い出す。
道後は聖所の奥の壁を指した。小さな名札が数百枚掛けられ、それぞれに名前と最後に見た日付が記されている。
「我々が知るのはここまでだ。債務が積もる。移送通知が来る。人が扉を出る。次の住所は空欄だ」
「あなたたちが隠し、失踪に見せた可能性もある」
「一部は我々が救い出した。その名には救助印を付けた。残りは見つけられなかった」
道後は分けられた二つの一覧を出した。救出者と、発見できなかった者。坂本の資料と照合するまでは真偽を判断できない。
黒鉄が言った。
「疑惑だけで都市台帳を奪い、停電を起こしたのか」
「疑惑だけで人を移送した側は誰だ?」
二人の間で武装信徒が緊張した。桐生の盾が少し上がる。
玲華が掌で机を一度叩いた。
「ここでは判断しない。道後、盗んだ台帳原本とキーを渡して。失踪記録は私が照合する」
道後は三枚の紙をもう一度見た。
「あなたが調査している間に、次の移送が始まる」
「何人?」
「今日中に三人」
道後が名前を告げた。
玲華は三人の名を現場記録の保護要請欄へ載せた。停電が終わるまでは執行を止められる。
その後までは約束できなかった。
道後の要求は単純だった。
今日移送予定の三人を聖所の外へ逃がし、断電派が複製した台帳原本を渡す。その代わりに、物理キーと中継器の復旧コードを返す。
桐生は即座に拒否した。
「不法占拠者が市民の身柄を条件にしています」
道後が言った。
「三人は我々の所にはいない。まだ自宅にいる」
「なら人質ではない」
「都市の命令が人質にしている」
玲華が二人を止めた。
「まず三人の状態を確認する」
坂本が住所を照会した。一人は配給区の洗濯作業員。一人は冷却管清掃員。最後の一人は十一歳の子を一人で育てる給水設備技師。犯罪歴はなく、寄与債務だけが基準を超えていた。
「今、移送を執行する理由は?」
玲華が黒鉄へ尋ねた。
「停電中はすべての行政移動が停止している」
「停電の後は?」
「通常手続きが再開する」
「到着記録のない手続きを、通常と呼ぶ根拠は?」
黒鉄は坂本が送った資料を開いた。
「資料の出所は不法で、完全性も検証されていない」
道後は嘲らずに言った。
「完全に確認できるまで、人を送らなければいい」
「停電交渉を理由に行政体系全体を止めれば、次からは誰もが設備を切って要求する」
黒鉄の言葉にも根拠があった。それが玲華には不快だった。明白な悪意だけを相手にするなら、選択は簡単だった。
「臨時保護命令を延長する」
玲華が決めた。
「停電終了後48時間。その間に到着記録を確認する。三人は自宅に留まり、断電派も接近しない」
道後の目が細くなった。
「48時間後も答えがなければ?」
「原本と当事者の供述を公開審査へ上げる」
「審査中の人間は?」
「保護命令の継続要請を私が出す」
「要請」
道後はその言葉をゆっくり繰り返した。
「あなたもすべての鍵を持っているわけではないのか」
「だから持っているふりはしない」
聖所の奥から、誰かが荒い声で叫んだ。
「あいつらと取引しないでください!」
武装信徒四人が通路へ出た。先頭の男は首に廃ヒューズの輪をいくつも掛けている。道後が手を上げたが、彼らは止まらなかった。
「台帳を渡せば、名前はまた点数の下へ埋められる。コア中継器を完全に切るべきです」
道後の声が低くなった。
「患者と子供が残っている。武器を下ろせ」
「今回の停電が終われば、奴らはもっと固く閉ざします」
「それでもここでは撃つな」
先頭の信徒が玲華へ銃を向けた。
「その女は、システムの清潔な顔にすぎない」
玲華は銃口を見ながら、手をホルスターへ置いたままにした。
「あなたが撃てば、後ろの患者から当たる」
「あんたたちが入ってこなければ――」
道後が男の名を呼んだ。
「三上」
命令ではなく、まだ自分で選べる人間だと思い出させる呼びかけだった。
三上の指が引き金の上で震えた。その時、聖所の外で自動警報が鳴った。
コア中継器の圧力が限界値を超えようとしている。
三上は道後ではなく警告灯を見た。そして武器を下ろさず、背後の非常通路へ身体を向けた。
「中継器を終わらせる!」
強硬派の信徒が彼を追って走った。
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