第3話 最後の蓄電池
次の住所へ向かう最短経路は、第四配給区の広場を横切っていた。
暗闇の中、広場には数百人が集まっている。自動配給機が止まり、住民たちは倉庫の前で番号札を手書きしていた。秩序を守ろうとする者もいれば、閉じたシャッターを蹴る者もいる。片隅では、断電派の印を身につけた人々が携帯蓄電池を取り出し、呼吸補助器と保温シートへつないでいた。
玲華が姿を見せると、仮面の男が短く片手を上げた。
「東通路は開けるな。冷却材が漏れている」
「あなたたちが切った線よ」
「それでも、漏れているものは漏れている」
男はそれ以上何も言わず、子供を背負った住民を西階段へ送った。その後ろで武装した断電派三人が下がりながら、手製爆薬を柱へ貼りつける。
玲華はすぐに意図を悟った。爆薬は住民を傷つける方向には置かれていない。保安隊が進入する東歩道橋を落とし、追跡を断つ配置だった。だが橋脚の下には低温配管が通っている。計算がわずかに狂うだけで、配給区全体へ冷却材が広がる。
「爆薬を下ろして」
玲華は拳銃を向けた。
男は首を横に振る。
「人々が逃げる時間さえあればいい」
「橋脚下の圧力管が見えないの?」
「保安隊が先に来れば、もっと大勢が連れていかれる」
「爆発を制御できる根拠にはならない」
玲華が一歩踏み出した瞬間、男の親指が起爆器を押した。玲華は引き金を引く。弾丸が手首をかすめ、起爆器を落とさせた。だが装置の安全タイマーはすでに作動していた。
8秒。
玲華は爆薬へ駆け寄った。断電派の二人が阻もうとしたが、男の叫びで止まる。
「子供を先に行かせろ!」
広場の人々が、西階段へ押し寄せた。玲華は爆薬のカバーを剥がす。粗雑な配線の間に、圧力感応スイッチが隠れていた。切ってはいけない。坂本から送られた簡易回路図が、銀眼の上で揺れる。
「坂本、青が二本」
「両方とも囮だ。床側の接点から持ち上げろ」
3秒。
玲華は戦術ナイフを接点の下へ差し込んだ。グローブから流した逆電流が、起爆器の時計を止める。
ゼロ。
何も起きなかった。
そのとき、歩道橋の反対側で別の爆発が起きた。玲華は顔を上げる。断電派は二つ目の装置を仕掛けていたのだ。橋の半分が捻れながら崩れ、保安隊の進入路が断たれた。同時に、床下の配管が一本破裂する。白い冷却材が広場の端へ流れ出した。
断電派の者たちは逃げながらも、転倒した住民二人を引きずり出した。一人は自分の防護シートを脱ぎ、冷却材の上へ敷いた。救助と破壊が順番を分けることなく、同じ手によって行われていた。
玲華は冷却バルブへ走り、手動遮断器を回した。掌が凍りつくような痛みが、手袋を突き抜ける。流れが止まったとき、広場から住民の大半が消えていた。
壊れた橋の向こう側で、桐生の保安隊が足を止める。
「月城調査官、追跡経路が断たれました」
玲華は断電派が消えた西階段と、凍りついた広場を交互に見た。
「違う。上へ行った」
壁面の垂直換気口カバーに、ついたばかりの手形が残っている。
「ただし次は、彼らが誰を救っていようと、まず爆薬を取り上げる」
垂直換気口は、セル東京の高さを最も正直に見せる場所だった。
幅わずか四メートルの通路が、上下へ果てしなく伸びている。昇降機が止まった今、下を覗けば農業区の非常灯が爪ほどの赤い点にしか見えない。上方では、断電派が持ち去った物理キーの位置信号が短く点滅していた。
玲華は腰に安全索をつなぎ、最初の梯子をつかんだ。
「保安隊の到着まで待ちましょう」
回線から桐生の声がした。崩れた歩道橋を迂回するには、少なくとも12分かかる。
「その間に、キーが封鎖線の中へ入る」
「単独追跡は現場指揮権の範囲外です」
「逮捕しに行くんじゃない。移動経路を確認する」
黒鉄が回線へ入った。
「許可する」
桐生が息を呑む。
「責任者」
「ただし月城。梯子を三区間上るごとに、生体状態を報告しろ」
「私の身体まで、あなたの指揮表へ入れないで」
「都市設備へ接続するつもりなら、公共危険変数だ」
玲華は応答を切り、上り始めた。
銀眼が足場の腐食率と荷重を表示する。左手のグローブがつかむ場所を探すたび、細い青線が生まれた。問題は機械ではなく、身体だった。三年前に失った左眼の代わりに入ったレンズは視界を完璧に計算するが、奥行きを感じる脳は今でも、ときおり昔の空白を探す。
三区間目で、眼下が傾いた。
玲華は額を梯子へつけ、呼吸を数えた。その瞬間、第九乗換層の熱が記憶から立ち上った。閉じていく隔壁。内側から手で扉を叩いていた九人。自分の肩をつかんだ黒鉄の右手。彼の左腕はあの日、溶け落ちる支柱を支えようとして失われた。
「状態報告」
黒鉄の声が、記憶を断ち切った。
「脈拍百十二。酸素正常。移動を継続」
「目眩は?」
玲華はしばらく上を見た。
「判断には影響していない」
嘘ではない。影響しないように動いているだけだ。
上方でカバーの閉じる音がした。キー信号がまた遠ざかる。玲華は梯子から身体を離し、壁面の配管へ移った。掌の下で残留電流がかすかに震える。主電源は切れているのに、特定の通信線だけが生きていた。
「坂本。この線を読める?」
彼の返事は、雑音で半分途切れた。
「手を離してくれた方が読みやすいが、隊長は決まって先に身体を突っ込む。迂回信号で間違いない。台帳キーがその線を伝って上へ移動中」
「終点は」
「中間制御室。その先は保安網だから、俺にも見えない」
玲華は最後の梯子を蹴り、狭い整備用足場へ上がった。上のハッチまで十二メートル。その途中の闇に、赤い点が二つ灯る。
停電時に独立電源へ切り替わる、旧式警備ドローンだった。
「未承認の生体信号を確認」
一機目のドローンが電撃槍を展開する。二機目は玲華の安全索へ照準を合わせた。
「坂本」
「見えてる。だが、あの骨董品は公式網の外だ」
「なら物理的に通る」
玲華は梯子から両手を放した。
玲華の身体が、垂直通路を落下した。
一機目のドローンが機首を下げ、追ってくる。電撃槍から青い電流が伸びた瞬間、玲華は安全索の巻き取り機を作動させた。腰が上へ引かれ、落下方向が変わる。電流は戦術服の袖をかすめ、梯子へぶつかった。
二機目のドローンは、安全索の固定具へ切断器を撃ち込んだ。
「左外装の下に、手動停止ピンがある」
坂本の言葉が遅れて届いた。玲華は爪先で配管を蹴り、一機目のドローンの背に乗る。機体は彼女を振り落とそうと壁へ突進した。銀眼に姿勢制御装置の回転数が表示される。
「位置は」
「翼軸から内側へ八センチ。いや、それは旧式図面で――」
玲華はナイフを外装の隙間へ差し込んだ。手首を捻ると金属板が浮く。その下に、黄色い取っ手が見えた。
「見つけた」
ピンを抜くと同時に、プロペラが止まった。玲華は停止した機体を足場にして上へ跳ぶ。二機目が電撃槍を振り回す。彼女は身を低くして槍の柄を流し、シナプスグローブでドローンのカメラを覆った。
「管理者非常命令。人命救助を中止」
「権限不一致。排除手順を継続」
機械はためらわない。玲華はグローブの出力を限界まで上げ、レンズ裏の回路を焼いた。ドローンは視界を失い、宙で回転する。彼女は機体を梯子の方へ押し、固定網へ引っかけた。二機とも床へは落とさなかった。下に誰がいるのか確認できないからだ。
「ずいぶんお行儀よく片づけたな」
坂本が言った。その声の向こうに、荒い息が混じっている。
「接続を切って」
「指揮権をもらったのは黒鉄からで、俺からじゃないでしょうが」
「左肩が震える音がする」
短い沈黙が流れた。坂本が神経接続を弱めると、雑音も少し減った。
玲華はハッチへ到着し、ロックを調べた。断電派が盗んだキーで、一度開かれた痕跡がある。だがキーそのものは、これ以上上へ進んでいなかった。位置信号がハッチの内側で止まっている。
玲華が扉を押すと、無人の制御室が現れた。床には黒いケーブルが蛇のように横たわり、その先にキー信号を偽装する発信機がついている。
「囮ね」
「それは俺にも見える。問題は、その囮で何を隠したかだ」
銀眼が壁内の電流を走査した。断電派が切り出した迂回線はここで終わっているが、制御室内に別の足跡はなかった。代わりに、死んだはずの上層保安回線が一定の間隔で、わずかに開閉を繰り返している。
玲華はコンソールの下を開けた。手動バイパスに新しい傷がある。何者かが物理キーを使わず、制御室を通過したように信号だけを残したのだ。
「坂本。台帳の信号は?」
「本物はもう封鎖線の向こうだ。こっちがこの鉄屑と遊んでる間に」
玲華は発信機を踏み潰さず、証拠袋へ収めた。偽の経路も、原本の一部だった。
そして制御室に残った最後の蓄電池が消えた。
中間制御室のコンソールは、主電源ではなく非常用蓄電池で、一度だけ起動できた。
玲華は残量を確かめた。十九パーセント。封鎖線の扉を開けるには足りず、停止した昇降機を動かすにも足りない。下層換気区域三か所のうち、一か所だけなら生かせる量だった。
地図には、異なる警告が重なっている。
農業連絡区の窒素濃度上昇。第四配給区に残った冷却材。下層診療所の補助電源低下。どこへ先に電力を送っても、他の二か所には待てと告げることになる。
「美緒をつないで」
玲華が言った。
しばらくして、風間美緒の乾いた声が回線へ入った。構造バッテリーの現場責任者は、挨拶の代わりに数値を読み上げる。
「診療所の補助電源は17分保つ。冷却材は手動排気が可能。農業連絡区の窒素濃度は、9分後に歩行危険域、13分後に意識喪失域」
「蓄電池を農業区の換気へ回したら?」
「最低回転で22分。他の設備はそのまま」
「実行して」
坂本が割り込んだ。
「その電力は、封鎖線の接近扉を開けるのに必要でしょう」
「扉は別の方法で開ける」
「やっぱり、首の後ろへ差すって意味か」
「今、意識を失う人間から数える」
玲華は管理者端子をコンソールへ接続した。蓄電池に残った電流が神経系を通り、農業区の換気装置へ流れていくような錯覚がした。実際に通るのは命令信号だけだが、痛みは区別してくれない。
銀眼の視界が幾重にも割れた。玲華は揺れる数値の中から換気ファン三台を選び出す。設備全体を起こさず、羽根だけを低速で回した。遠くで、死んでいた空気が動き始める低い振動が伝わってくる。
「農業区、回転を確認」
美緒が言った。
「窒素濃度、低下開始。22分を確保」
玲華はケーブルを抜いた。膝が折れたが、片手をコンソールについて耐える。右の視界に黒い点が浮いていた。
坂本が低く悪態をつく。
「そんなふうに自分を機材扱いしてたら、本当に壊れますよ」
「故障かどうかは、あとで判断する」
「そう言ってる本人が判断対象なのが問題なんだ」
玲華は答えなかった。制御室の内壁が、かすかに震えている。たった今起動した換気線とは別の周波数だ。銀眼で追うと、保安封鎖線の向こう、コア方向から戻ってくる不規則な脈動が捉えられた。
停電は、単純に外から内へ押し入ったのではない。複数の下層区域で断ち切られた信号が、封鎖線内側の一点へ集まり、そこから再び広がっている。誰が中心を開いたのかは見えなかった。
「攻撃の中心はコア側よ」
玲華の報告に、黒鉄がすぐ答えた。
「だから、おまえが必要だ」
閉じた保安扉に、仮設の位置標識が灯った。封鎖線まで残り、垂直距離二百十メートル。桐生の保安隊も迂回路から接近中だった。
玲華は壁面の手動整備ハッチを開いた。狭い通路の先で、赤い非常灯がひとつずつ生き返る。都市はまだ暗かったが、少なくとも下にいる人々は再び息をしていた。
玲華はそれを、最初の復旧と判断した。
最新情報・更新のお知らせはX(Twitter)で発信しています。
作品を気に入っていただけたら、ぜひフォローしてください!
https://x.com/slivers_org/articles
キャラクターや世界観についてもっと知りたい方は、Discordコミュニティへどうぞ。
限定情報や最新のお知らせも更新しています。
https://discord.gg/5EdH9UYmf




