第2話 処理すべき被害一覧
公式通信網は死んでいたが、保安優先回線だけは途切れ途切れに生き返った。
玲華の端末が短く三度震えた。画面に表示された発信者名は、役職だけだった。
都市保安・行政責任者。
玲華は救助された住民たちが移動するのを確かめ、応答を開いた。雑音の向こうから黒鉄の声が聞こえる。
「現在位置」
挨拶も、生存確認もなかった。
「農業連絡区の下部。負傷者七名、死者なし。主電力線三本を切断。断電派の印と、無許可の迂回痕を確認」
わずかな沈黙のあと、別の声が割り込んだ。現場副官、桐生凌牙だった。
「黒鉄責任者、独立調査官への保安情報の開示は規定外です」
「停電は規定内なのか?」
黒鉄の問いは低く、平坦だった。桐生が口を閉ざす。
玲華は通路の壁に背を預けた。三年前の第九乗換層でも、黒鉄は同じ声で隔壁封鎖を宣言した。感情がないのではない。感情を決定の後ろへ押し込める声だった。
「月城。おまえの管理者端子は、まだ都市非常網へ接続できるか」
「接続は可能。長時間は無理」
「10分でいい」
「10分後の私の神経状態は、計算から外したようね」
「入れてある。他の手段を選んだ場合の予測死者数の方が多い」
玲華の右眼が、画面上の波形を見つめた。銀眼は声を〈安定〉と分類している。だが分類が、人間の判断に代わるわけではない。
黒鉄が続けた。
「今から停電が終息するまで、おまえに災害現場の指揮権を与える。救助、移動統制、設備への接近を許可する。逮捕と拘束は桐生の保安隊が執行する」
「私が拒んだら?」
「権限なしで同じことをするだろう。そうなれば現場には、おまえの命令に従う理由のない人間が出る」
玲華は周囲を見た。農業作業員たちが手動担架を押している。奈々は観察箱の補助蓄電池を外し、応急照明へつないでいた。すでに誰も、正常な指揮系統の中にはいなかった。
「条件がある」
「言え」
「現場集計を要約しないこと。負傷者、行方不明者、避難が遅れた人間の名前を原本に残して。あとで数字を書き換えた瞬間、権限を返す」
回線の向こうで、機械関節が動くかすかな音がした。黒鉄の左腕だ。
「承認する。その条件も私の命令に記録しろ」
桐生が不承不承答えた。
「現場権限キーを送信します」
玲華の端末に黒い印章が現れた。監察局を追われてから三年間、閉ざされていた都市地図が階層ごとに開いていく。数十の区域が赤く消え、保安封鎖線だけが弱い光で点滅していた。
権限の詳細では、強制拘束と市民資料の削除が明確に除外されている。玲華は二項目を再確認し、電子署名を残した。借りた権限の範囲を記録しなければ、あとに残るのは使用者の意図だけで、当事者の選択は消えてしまう。
「封鎖線で会おう」
黒鉄の最後の言葉とともに、回線が切れた。
玲華は権限キーを首の後ろの端子へ同期させた。都市が再び、彼女の視界へ入ってくる。
歓迎ではない。処理すべき被害一覧という形で。
坂本の工房には、停電する前からまともに点く照明がなかった。
古びた蓄電池につないだ二つの作業灯が、天井で揺れている。黄色い光の下には、分解された端末、旧式計器、用途もわからない通信部品が幾重にも積まれていた。坂本はその真ん中に座り、右手で三つのキーボードを代わる代わる叩いている。廃品をつなぎ合わせた左腕は、ケーブルの束をつかんだまま細かく震えていた。
公式発表は、単純な系統障害だとしていた。発表までに要した時間は42秒。原因を調べるには短く、用意してあった文章を呼び出すには充分な時間だ。
「グラフってのは、ずいぶん冷静だな」
坂本が独り言をこぼした。画面では、都市の電力低下が滑らかな曲線に整えられている。
彼は要約フィルターを切った。整然とした線の下から、数千もの微細な揺れが飛び出す。区域ごとに電力が切れた時刻は異なっていた。南部整備区、農業連絡区、第四下層配給区。無作為な故障では生じない間隔だ。何者かが都市を一度に倒さず、正確に11秒ずつ区切って寝かせている。
坂本はこめかみの端子へ光ファイバーのジャックを差し込んだ。ホワイトノイズが左耳を埋める。武骨な義手の指が勝手に丸まったが、接続は切らなかった。
削除ログがひとつ、視界の奥で瞬いた。
エネルギー寄与統合台帳。
何者かが停電と同時に、台帳の閲覧権限を開いた。持ち去ったのは発電量でも配線図でもない。下層住民の寄与点数、債務、強制転出予定だった。行政網は侵入痕を検出するや、その区間を丸ごと削除していた。
「消した奴の方が、泥棒より手が早い」
坂本は自前の監視網から、原本の断片をかき集めた。昔、自分が作った損失正規化フィルターが、警告を減らすために小さな欠落をまた雑音へ押し流そうとしている。彼はフィルターを切り、歯を食いしばった。普段なら一晩かかる復元量だ。今は数分で移動経路を見つけなければならない。
画面の端に、新しい権限キーが現れた。
月城玲華/臨時現場指揮
坂本の口元が歪んだ。
「都市も本当に終わりらしい。追い出した人間に、また鍵を渡すとはな」
彼は非公式回線へ短い呼び出しを送った。
「隊長、生きてるなら返事を。今回、盗まれたのは電気だけじゃない」
数秒後、玲華の声が返った。
「結論ではなく、根拠を」
坂本は復元した台帳の表題を送信した。
「いいね。その性格も健在だ。誰かが下層の連中の借金と転出名簿を、そっくり覗いていった。理由は不明。原本はまだ渡しません。先に取引を」
「何が欲しい?」
「削除禁止。俺が拾った名前を、保安隊の要約版へ入れないでくれ」
玲華は一拍置いて答えた。
「すでに同じ条件を出した」
坂本は笑わなかった。画面の下では、侵入信号が垂直移動路に沿って上へ進んでいた。
「なら走れ。台帳を持った連中が、封鎖線へ向かってる」
停電後の下層居住区は、音からして違っていた。
普段なら壁の中の設備が、人々の声を呑み込んでいる。今は泣くのを堪える息遣いも、裸足が床を踏む音も、遠くまで響いていた。玲華は非常灯ひとつない廊下を進みながら、扉ごとに貼られた居住番号を読んだ。坂本が復元した台帳で、最後に閲覧されていた住所だ。
最初の部屋は空だった。
食卓には、まだ温かいスープが二皿残されている。停電で冷却が止まった収納庫は開いており、中にあるはずの防塵マスクと作業服が消えていた。引き出しの上の家族写真には、母親と十歳ほどの男の子が写っている。
玲華は残留熱を調べた。出てから15分も経っていない。
「避難所への登録は?」
インイヤー越しに、坂本がキーボードを叩く音が聞こえた。
「ない。そもそも公式避難所じゃ、あの家族を受け入れないでしょう。母親の寄与債務は基準の三倍。今週中に矯正労働区へ転出予定だった」
「転出理由」
「未納。いつもどおり、実にきれいな二文字だ」
車輪が金属床を転がる音が、廊下の先から聞こえた。玲華は灯りを消し、曲がり角へ身体を寄せる。銀眼の熱映像に五人が現れた。灰色の作業服を着た二人が手動担架を押し、仮面をつけた三人が前後を守っている。担架には酸素マスクをつけた老人が横たわり、その後ろを写真の少年と母親がついてきた。
先頭の仮面には、切れた円が描かれていた。
玲華は拳銃を抜いた。
「止まって。患者を下ろし、身元を明かして」
仮面の者たちが一斉に振り向く。だが銃口は玲華ではなく、まず天井の監視装置へ向けられた。短い閃光とともに、カメラが砕ける。
母親が少年を抱き寄せた。
「お願いです、行かせてください。ここに残れば連れていかれます」
「行き先を知っているんですか?」
「少なくとも、この人たちは名前を聞いてくれました。点数を先に見たりしなかった」
引き金にかけた玲華の指が止まった。その隙に、後方の断電派が閃光弾を転がす。銀眼は光を遮断したが、右眼の視界が真っ白に潰れた。
「西階段へ!」
誰かが叫び、車輪の音が急速に遠ざかった。
玲華は壁を支えに立ち上がり、追跡した。熱映像に残る五人分の体温を追って角を曲がると、階段の下から鈍い衝突音がした。担架の前輪が、崩れた排水溝の隙間にはまり込んでいる。老人の酸素ボンベが床を転がり、圧力バルブが割れて白い気体を噴き出した。
断電派の者たちは逃げなかった。二人が担架を持ち上げ、一人は自分の呼吸器を外して老人の顔へ当てている。
玲華は酸素ボンベをつかみ、バルブを閉めた。
「呼吸数十二。肋骨損傷の可能性あり。水平に持って」
仮面の奥の目が、しばらく玲華を見つめた。敵の命令に従うべきか、計っている目だ。
「今、助けたいなら持ち上げて」
彼らは一緒に担架を階段の上へ運んだ。老人の呼吸が安定した瞬間、先頭の男が玲華の足元へ煙幕弾を投げる。灰色の煙が晴れたとき、家族も断電派も姿を消していた。
床には、エネルギー債務の通知書だけが残されていた。赤い転出印が押された紙に、黒い線が一本引かれている。
玲華は通知書を折り、ポケットへ入れた。救助された事実は確認できた。誘拐か、自発的な離脱か。それを判断する証拠はまだない。
「坂本。次の住所を」
「まず人を見つけるってことか」
「彼らが連れ出した理由も一緒に」
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