第25話 最初の扉へ
医療員は玲華の銀眼接続を、もう一日禁止した。首の後ろの神経炎症が治まっていないためだった。代わりに内部庭園で、2時間の低刺激療養を命じた。
セル東京中層の庭園は、地表を見たことのない人々のために作られた場所だった。天井灯は時刻に合わせて動き、浅い水路では復元された水生植物が育っている。本物の風ではないが、換気口は葉を揺らす程度に不規則な気流を送った。
玲華は、ベンチへ座っていろという指示を守れなかった。水路脇の配給箱の下で、見覚えのある印を見つけたからだ。切れた輪。金属を急いで引っ掻いたものではない。小さな食料票を何枚も円形へ置き、その一部を空けて作っていた。
食料票の裏には、数量と時刻だけが書かれている。
「第56区、児童食十二」
「第48区、神経安定剤四本」
「最初の扉の追悼、夕方交代終了後」
票の隅には、受け取った者が使用量を書き込む空欄があった。配給後の残りを次の区画へ回すための仕組みだ。信仰の象徴と在庫管理が、一枚の中に同居していた。
宗教集会の告知というより、配給の伝達票に見えた。玲華が一枚を拾うと、庭園管理人が近づいてきた。
「それは置いていってください。持ち主が取りに来ます」
「誰が置きました?」
管理人は水路の葉を整えるだけだった。
「ここでは皆、少しずつ何かを置いていきます。余った食券、薬の交換票、死んだ人の名前」
「断電派の連絡網だと知っていても?」
「断電派でなければ、持っていく者がいないものもありますから」
庭園の一角には、停電被災者のための臨時回復席があった。公式診療所を退院した人々が、日光を模した照明の下で指の運動をしている。そこには高橋もいた。まだ一人では歩けないが、娘と向かい合って座っていた。
玲華が近づくと、高橋は先に寄与端末を隠した。治療中でも復帰日は毎日更新されるという。
「ここへ来れば休めると思ったんですが、回復点検も寄与時間へ入るんですね」
「作業場へ戻されないよう、手配します」
「どれくらいの間ですか?」
結衣と同じ問いだった。保留の終わりを訊く人間へ、玲華はまだ期間を示せない。
管理放送が夕方交代の終了を告げた。庭園の出口付近で、誰かが食料票を一枚ずつ回収し始める。普通の清掃労働者の姿だった。
玲華は止めずに後を追った。票に書かれた「最初の扉」が断電派の礼拝なのか、それとも別の救助作戦の暗号なのか。確かめるまで療養命令は先延ばしになった。
食料票を回収する男は、庭園管理人へ残量をもう一度尋ね、必要な分だけ持っていった。誰も監視していないのに、一枚余分に隠すこともしない。断電派の規律なのか、古くからの隣人同士の信頼なのか、外からは区別できなかった。
銀眼の痛みがまた響いたが、今度は接続しなかった。人間の足取りだけでも追える距離だった。
食料票を集めた男は、庭園外の共同厨房へ票を渡して消えた。厨房では、断電派の印を見せていない住民が、残った穀物と野菜を数どおりに分けている。玲華がさらに追おうとした時、美緒から緊急呼び出しが入った。
構造バッテリー状況室の画面には、停電後一週間の回復曲線が表示されていた。予測値は復旧要員と設備効率を反映して何度も修正されたが、実際の出力は常にその上を走っている。
「センサーの較正は?」
玲華が訊いた。
「三回しました。補助発電機の入力もすべて照合済みです」
美緒は画面の灰色領域を拡大した。
「説明できない残差が増え続けています」
奇妙なのは、下層労働者が減った時間にも回復が落ちなかったことだ。断電派が転出対象者と疲労患者を連れ出し、公式の作業人数は減った。だが特定の時間帯には、構造バッテリーの充電速度がむしろ上がっている。
「隠された発電機がある?」
「物理入力があれば、熱か振動が残ります。そうした痕跡はまだありません」
美緒は壊れた測定器の問題として処理する前に、現象をそのまま報告した。数値は政治より正直だと信じている。だが数値が何を測っているかは、まだわからなかった。
黒鉄が遠隔で状況室へ接続した。
「都市の安定に役立つ誤差なら、復旧完了後に調べてもいい」
「誤差ではなく、未分類入力です」
美緒が訂正した。
「有益かどうかは、行き先を知らなければ判断できません」
玲華は灰色の残差が大きくなった時刻を抜き出した。市場での追跡、秘密診療所の避難、追悼式。すべて下層で、普段より多くの人間が動いた時間だった。だが停電と行事に伴い、補助設備も動いている。人と出力を結びつける根拠はなかった。
「最初の扉の集会が、今夜ある」
玲華が言った。
「予告された小規模停電も一緒に」
黒鉄の表情が固くなった。
「また電力網を攻撃するつもりか?」
「まだわからない。配給と追悼の案内も混じってる」
「武装組織の集会だ。桐生へ急襲準備を命じる」
玲華は美緒へ、その時間のすべての物理入力を別記録として残すよう頼んだ。断電派が隠された発電源を使うのか、停電を利用して何を運ぶのか。確認できるはずだった。
状況室を出る前、美緒が言った。
「出力が増えたからといって、設備が健全とは限りません。どこから来るかわからない電力は、故障より危険です」
美緒は過去の報告書に付けられた「好ましい側の誤差」という印を、すべて外した。原因不明の数値へ肯定も否定もつけないためだった。画面には「未分類」という語だけが残る。
美緒は残差を復旧成果に含めず、別の経路へ分離した。原因を突き止めるまでは、安定率を上げる根拠に使わないという判断だった。
玲華は灰色の棒が伸び続ける画面を保存した。説明できない助力には、説明できない被害と同じだけ調査する必要があった。
断電派の集会が予定された第58宗教区は、かつて複数の信仰共同体へ割り当てられた区画だった。都市が縦へ拡張されるたび、礼拝室、葬祭室、瞑想室が同じ回廊へ付け足された。断電派は、そのうち閉鎖された葬祭室を使っていた。
桐生は図面上に三重の封鎖線を引いた。
「予告された停電の直後に突入します。武装者と非武装者を分け、道後玄馬を確保します」
「患者と債務者の避難路から表示して」
玲華が言った。
「彼らがまた人間を盾にしたら?」
「人間を盾と呼ぶ前に、誰が、なぜそこにいるのか確認して」
桐生は赤い突入線の横へ、緑の医療通路を加えた。先日の診療所急襲以来、命令を復唱する代わりに、判断の条件を訊くようになっていた。
黒鉄は上層指揮室から作戦を承認した。
「停電が発生する前に制圧できないのか?」
「集会そのものだけでは、逮捕する根拠がない。電力攻撃を確認したら動く」
「その間に、また病院が消えるかもしれない」
「だから非常電源を先に配置して」
玲華は宗教区の診療室と人工呼吸器を使う家庭へ、独立電池を配るよう指示した。断電派が実際に攻撃しても、前回の死者を繰り返さないための措置だった。黒鉄は電池の持ち出しを承認し、回収責任も自分の名で残した。
坂本は現場通信の傍受を担当した。
「断電派の回線は普段より静かだ。作戦前なら信号が増えるはずなのに」
「オフラインで伝えてるのかも」
「食料票みたいに?」
玲華は庭園から持ってきた票を見せた。坂本は紙の繊維に電子標識が隠れていないか調べる。何もなかった。数量、時刻、手書きの文字だけだ。
「侵入するのが一番難しい方式だな」
坂本が言った。
「人間が直接覚える」
作戦時刻の1時間前、玲華は警備標識を外し、普通の復旧作業服へ着替えた。銀眼の輝度を落とし、管理者端子は襟で隠す。先に入り、武装者と患者の位置を確かめるつもりだった。
桐生が小型送信機を渡した。
「信号が途切れたら、予定どおり突入します」
「私の信号じゃなく、電力攻撃を基準にして」
「あなたが人質になっても?」
「その時は、あなたが判断して」
桐生は初めて命令ではなく選択を渡された。送信機をもう一度点検し、うなずいた。
玲華は夕方交代を終えた労働者に混ざり、葬祭室へ向かった。入口では身分も信仰も訊かれない。持ってきた食料と、必要な薬の量だけを記録した。
集会参加者のうち、警備手配者ではない者の顔を、玲華は意図的に保存しなかった。犯罪行為を確認する前に、信仰と配給受領の事実を監視資料にしないためだ。代わりに出口の数と、担架の位置だけを覚えた。
持参品のない者も拒まれないか、玲華は見守った。手ぶらで来た労働者も、名前ではなく必要な薬の種類だけを書き、中へ入った。
その平凡な受付方法が、武装検問より警戒を難しくした。
葬祭室の中には、祭壇も聖像もなかった。中央の床で、焼けた廃ヒューズが円を作り、その一部だけが掌ほど空いている。人々は作業服と患者着のまま、周囲へ座った。
入口近くの卓では、粥を配っていた。配給担当は信徒かどうかを訊かず、子供と患者から器を渡す。別の卓では壊れた吸入器と暖房電池を修理していた。礼拝より、夜間配給所に近い。
玲華は壁沿いにゆっくり動いた。武装者は少なくとも六人。衝撃棒と改造小銃が布の下へ隠されている。反対側には担架十二台と酸素ボンベ。救助と戦闘が、同じ部屋で準備されていた。
華蓮が先に玲華を見つけた。一度視線を向けたが、声は出さない。薬箱へ数字を書き、玲華のそばを通りながら低く言った。
「ここで逮捕劇をやったら、患者から死ぬ」
「電力網に触れなければ、突入もない」
「その約束、あなたがどこまで守れる?」
玲華は答えなかった。華蓮は、結衣の状態は改善したが、公式区画へ戻る意思はないと伝えた。続けて、今日の集会の武装作戦は自分もすべて知らないと言った。
「道後は、あなたにも隠す?」
「指導者だからって、患者の決定まで代行させない」
葬祭室奥の扉から、転出対象者が入ってきた。田村空は小さな酸素ボンベを引き、森千夏は弟の手を握っている。断電派隊員は、切れた輪を渡すことも、誓いを求めることもしなかった。名前と服用薬だけを確かめる。
玲華はその姿のために、武装を忘れないよう意識した。壁の内側には停電装置が接続され、入口の見張りは警備通信の周波数を確認している。彼らは人を助けていたが、都市電力を攻撃する準備もしていた。
道後が中央へ歩み出た。新しい服も特別な標識もなく、診療所で見た防護服を着ている。人々は立ち上がらなかった。道後も手を挙げず、沈黙を求めない。
「まず、残っている粥の量を報告してくれ」
配給担当が、児童食十二、一般食二十八、不足七と読み上げた。道後は不足分を自分の区画の取り分から引けと言った。その後でようやく、床の廃ヒューズを一つ拾う。
玲華は送信機を弱く二度押した。非武装者と患者が多数いるという合図だった。桐生から確認の振動が返る。
葬祭室の奥には、信仰を示さない人々のための場所も別にあった。祈りには参加せず、粥だけを受け取って帰る。誰も引き留めなかったが、周囲の視線まで完全に自由だったかは玲華にも判断できない。
玲華は武装者の位置を再確認しながら、配給担当と患者が射線へ入らないよう記憶した。突入することになっても、最初に空けるべき場所は明確だった。
礼拝が始まったが、誰も救済を約束しなかった。道後はまず、今日食べられない七人の名を読み上げた。
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