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第19話 光の債務

第47居住区の暖房は復旧していたが、前田結衣の部屋だけは冷たかった。扉脇の計量器には、赤い封印表示が浮かんでいる。「エネルギー寄与債務超過。居住供給停止」。玲華が監査権限を当てると、錠は遅れて解除された。


室内には、急いで去った人間の痕跡と、すぐ戻る人間の痕跡が一緒に残っていた。食卓には畳みかけの作業服があり、小さな鍋には固まった粥がこびりついている。子供の寝台には外套がなかった。結衣が自分の意思で転出したなら、まず息子に着せる服を用意したはずだ。


隣人の女が戸口で言った。


「黒い作業服の人たちが連れていきました。結衣は歩くこともできなかったのに」


「警備標識は見ましたか?」


「ありません。顔も隠してた。断電派でしょう」


女は確信するように答えたが、すぐ声を落とした。


「でも、あの人たちが来る前に行政転出班が来るという通知が出ていました。どちらが先に連れていったのかは、わかりません」


玲華は床から、切れた手首端末の帯を拾った。結衣の口座は転出処理と同時に債務がゼロへ変わっていた。返済したのではない。債務項目そのものが消されている。管理組織は転出者へ暖房を供給する必要がなくなり、断電派は人を隠すために公的身分を消す必要があった。結果だけ見れば、両者は同じ画面を作った。


食卓の下には、返済計画を手書きした紙が貼られていた。毎月、暖房温度を一度ずつ下げ、夜間の飲料水を減らせば、十一か月後に債務を終えられるという結衣の計算だった。停電復旧の特別交代手当を足せば九か月。その隣には、隼人の吸入器の交換日が書かれていた。交換費用を含めれば、また十二か月へ延びる。


玲華は紙を剥がさず撮影した。行政画面では一行の債務が、この部屋では子供の呼吸回数と夜の温度へ分けられていた。


隼人は隣家にいた。母親は中層病院にいるという自動案内を、まだ持っていた。玲華は嘘だとは言わず、病院名を確認できないとだけ話した。


「お母さん、借金を全部返したって」


隼人が口座画面を見せた。


「じゃあ戻ってきたら、暖かく暮らせるよね?」


玲華は部屋の温度を上げるため、緊急供給を申請した。システムは保護者不在世帯だとして拒否する。隼人を現場救助対象者として登録して、ようやく最低限の暖房を入れられた。


壁の内側から、生温い空気が流れ始めた。子供はそれだけで安心したように手を当てている。玲華は結衣の債務内訳を開いた。暖房、飲料水、作業服の充電、子供の吸入器。生きるために必要なものが、すべて債務という名前で積み上がっていた。


「おじさんたちが、お母さんを背負っていった」


隼人が遅れて言った。


「お母さん、自分で行くって。僕がいる場所は後でわかるって言ってた」


「どんな人だった?」


子供は指で空中に、途切れた輪を描いた。自発的な移動という証言と、断電派の印が同時に現れた。だが高熱でまともに歩けない人間の同意が、どこまで自由なのか。玲華には判断できなかった。


端末へ新しい通知が届いた。結衣と同じ区画に住む債務超過者三人が、今夜、強制転出される予定だった。


玲華は住所を複製し、桐生へ送った。今度は転出班より先に着かなければならない。


坂本は前田の切れた端末帯から、微弱な近距離信号を復元した。転出時刻の直前、結衣の口座は公式移動網と非公式下層網へ、ほぼ同時に接続していた。


「片方は行政転出の呼び出し。もう片方は断電派が使う臨時中継器」


坂本が言った。


「両方が同じ人間を探してた」


玲華は洗濯店のサーバー前で、移動経路が現れるのを待った。点は第47居住区を出た後、五方向へ散った。記録が壊れたのではなく、意図的に別々の口座へ分割した痕跡だった。


「断電派が追跡を切ったのね」


「たぶんな。でも妙なのは、こっちだ」


坂本が行政転出の目的地を開いた。画面には中層回復施設のコードがあったが、実際の図面では検索できない。そのコードが指すのは、復元暦五十二年に閉鎖された貨物昇降場だった。同じ目的地が、過去三か月で八百人余りの転出者に使われている。


「八百人が入れる空間じゃない」


玲華が言った。


「今は壁だよ。昇降場そのものがない」


坂本は転出完了の確認値を逆算した。人の位置を確認した記録ではない。口座から健康原本と家族関係を削除した瞬間、自動的に完了処理されていた。目的地への到着は必要なかった。行政網から消えれば、転出は終わる。


坂本は閉鎖された貨物昇降場の現場カメラまで探した。停電前から、映像にはコンクリート壁しか映っていない。だが転出完了時刻になるたび、出入人数が一人ずつ減った。カメラが人間を見たのではなく、行政口座の数値を受け取って表示した結果だった。


「壁の前へ八百人並べて、全員到着したことにしたわけね」


「いや、壁まで行く必要もなかった。システムの中だけを移動したんだ」


玲華はその違いが嫌だった。人が移動した痕跡すらないのに、記録だけで住居も家族も医療履歴もまとめて移され、消えていた。


玲華は結衣の非公式信号を拡大した。最初の中継は、下層市場の廃冷却室で途絶えている。その後ろには、薬品倉庫の在庫コードがついていた。


「誘拐した相手へ薬を使うのは、妙ね」


「死なれたら、連れていった意味がないからな」


坂本が言った。


「先に善意で解釈するな。あんたが先に悪だと決めるのと同じくらい危険だ」


玲華は答えず、位置追跡を共有しようとした。坂本がファイルをロックする。


「警備隊を全員連れていけば、信号は切れる」


「転出対象者の保護が先よ」


「あの人たちの目には、警備隊だって迎えに来る側だ」


坂本は、下層非公式網に上がった短い音声も聞かせた。債務転出班が来る前に医療支援を求める者は、空の給水管へ切れた輪を掛けろという内容だった。宗教的な言葉は一言もない。住所と時刻、低体温患者の運び方だけが続いた。


「救護網ね」


「救護網も人間を隠せる。誘拐網も薬を運べる。名前をつけるのは、見つけた後にしろ」


玲華は音声の背景から、市場の換気扇の音を聞き分けた。移動時刻は近い。


玲華は桐生への指示を変更し、支援員二人だけ私服で待機させた。坂本には、移動経路を開いておけと命令せず、頼んだ。


「人を見つけるまででいい」


坂本はしばらく玲華を見て、ロックを外した。


「捕まえた後で原本を押収したら、次から金を取るぞ」


「今までは無料だった?」


「違う。あんたが後で返す借りが増えてる」


冗談めかした言葉だったが、二人とも債務という響きには笑えなかった。最初の中継器が再び生きた。三人が下層市場へ向かっていた。


下層市場は、停電後に初めて店を開いた者たちで溢れていた。非常灯の下で、充電池、濾過布、傷んだ野菜が手から手へ渡っていく。玲華は群衆の肩越しに、三枚の灰色の保温布が同じ速さで動くのを見た。


保温布を持つ者たちは、顔を隠していない。古びた作業防護服の上へ、切れた廃ヒューズの輪をつけただけだった。中央の二人が折り畳み式の運搬台を押し、そこに横たわる女は酸素マスクを着けている。


「前田結衣!」


玲華が名を呼ぶと、搬送班の動きが一斉に速まった。一人が市場照明へ小さな装置を投げる。消えたのは二列だけだが、人々は停電が再び始まったと思い、出口へ殺到した。


玲華は真っ先に非常誘導灯を手動で点灯した。


「全体停電じゃない。北階段は塞がってる。西通路へ移動して」


声を増幅すると、群衆の流れがわずかに分かれた。その数秒の間に、運搬台は遠ざかる。犯人を追うことだけに集中すれば、距離を詰められた。玲華は倒れた露店を起こし、子供が踏まれないようにしてから、再び走った。


銀眼の熱映像は運搬台を見失わない。商人の天幕を飛び越え、倒れかけた子供を片手で立たせ、狭い給水通路へ入った。後ろから来る桐生の隊員は、群衆を押さないため速度を落としている。


搬送班の一人が振り返り、衝撃棒を振った。玲華は手首を捻って壁へ押さえつけたが、別の一人が運搬台を押して通れるよう、男は身体で道を塞いだ。


「あの人をどこへ連れていく?」


「あなたたちに見つからない場所へ」


「治療が必要なら、公式診療所へ送って」


男は乾いた笑いを漏らした。


「そこで歩けるようにして、また交代へ戻すために?」


玲華は男の防護服の内側に患者名簿を見つけた。武器を隠すはずの場所には、名前と薬品量を書いた布切れが折り畳まれている。衝撃棒には最大出力の制限があった。警備隊を殺さないためなのか、節電のためなのかはわからない。


「市場の照明を消したのは、あなたたちよ。今も人が負傷しかねない」


「明かりがついていれば、カメラが患者の顔を持っていく」


「だから無関係な人間を踏ませるの?」


男は答えられなかった。救助という目的が被害を消すわけではない。その事実を彼も知っている顔だった。


玲華の力が一瞬緩んだ。その隙に男は肩で突き飛ばした。だが追撃せず、床へ落ちた薬箱を先に拾い、運搬台の後ろへ投げた。


給水通路の先にある鉄扉が閉じ始めた。玲華は管理者端子を使わず、隙間へ手を差し込む。銀眼が扉の圧力を警告した。耐えている間に、桐生の隊員一人が反対側の制御盤を開いた。


搬送班は鉄扉の先で、二つの通路へ分かれた。一方には空の保温布を持つ男、もう一方には本物の運搬台。玲華は熱映像から横たわる人の体温を追い、右を選んだ。


「左は追わないで。市場の避難を優先」


桐生の隊員が理解できないように振り返った。


「停電への恐怖で圧死者が出る。ここは私が行く」


玲華は右の通路へ飛び込んだ。断電派は人を連れ去っていた。だが彼らを追う間、玲華が救い続けなければならないものも人間だった。どちらが誘拐で、どちらが救助なのか。走る速さだけでは区別できなかった。


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