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第20話 名前しか持っていない

通路は古い飲料水貯蔵庫の下へ続いていた。床の水垢に、運搬台の車輪跡がはっきり残っている。玲華が角を曲がると、断電派の隊員が貨物箱を倒した。


玲華は身を低くした。銃弾か爆発物を予想したが、箱からこぼれたのは密封薬品と保温布、小型酸素ボンベだった。ガラス製アンプルが数本、床で割れ、鼻を刺す臭いが広がる。


「止まって!」


玲華は叫んだ。


「患者の状態から確認する」


隊員たちは答えない。後方階段では、市場の住民が逃れようとして一斉に押し寄せた。一人の老人が滑り、欄干へ頭を打ちつける。玲華は運搬台と負傷者の間で、一瞬立ち止まった。


その選択を見た断電派隊員の一人が戻ってきた。結衣を運ぶ仲間には先へ行けと手で合図し、老人の頭へ畳んだ布を押し当てる。


「圧迫を続けて」


玲華が膝をついた。


「わかってる」


二人は互いを警戒したまま、同じ負傷者を支えた。老人の瞳孔は正常だが、傷は深い。玲華が救助信号を送る間、隊員は自分の薬袋から凝固剤を出した。


「この薬、公式配給番号が消されてる」


「受け取る資格がない人に使うから」


「その資格を、あなたが決める?」


「いいえ。あの薬を受け取れないと決めたのは、あなたたちの側でしょう」


男は薬箱に残る凝固剤を素早く数えた。仲間が持ち去った量より先に、床で割れた量を確認している。追跡を妨げるために箱を倒した選択が、数人分の治療を消した。その計算をしている顔だった。


「箱を投げたのも、あなたの選択よ」


玲華が言った。


男の唇が固くなった。


「わかっています」


言い訳をしない答えが、かえって不快だった。断電派は被害を知らずに作ったのではない。知った上で、より切迫した人間のために選んだと信じている。


遠くから桐生の隊員が近づく足音がした。断電派隊員は凝固剤を玲華の手へ握らせ、立ち上がった。玲華が腕を掴むと、抵抗せずに言う。


「俺を拘束すれば、あの人はあなたたちに連れていかれる。そうなれば、今夜また転出される」


「前田をどこへ運ぶ?」


「名前を訊くなら、本人が目覚めた時、直接訊いてください」


男は手首の内側から非常用電池を剥ぎ取り、床の配線へ差し込んだ。通路灯が過負荷で閃き、玲華の銀眼が一瞬白く塞がる。視界が戻った時、男は狭い排水口へ消えていた。


桐生が到着し、老人を引き継いだ。床には割れた薬品と血痕、運搬台の車輪跡が残っている。警備隊員が違法医療物資を証拠品として回収しようとした。


「緊急診療所へ送って」


玲華が言った。


「証拠写真だけ残す」


「断電派の物資です」


「今それを必要とする患者も、断電派所属なの?」


隊員は口を閉ざし、薬箱を持ち上げた。玲華は結衣が通った跡を追い、再び歩き始める。断電派が起こした恐慌の中で民間人が傷つき、その断電派が残した薬で止血された。どちらの事実も、もう一方を消せない。


桐生は負傷者の搬送を確認し、玲華と並んだ。


「彼らを救助組織に分類すれば、武装攻撃が隠れます」


「テロ組織だけに分類すれば、患者が隠れる」


「報告書には一つの分類が必要です」


「それが問題なら、分類欄を増やして」


桐生は初めて聞く命令のように沈黙した。規則は対象を一つの欄へ入れなければ動けない。現場では、一人の人間が救助者と加害者の両方になり得る。


車輪跡は、閉鎖された医療廃棄物通路の前で途切れた。扉の向こうから、一定の酸素ポンプ音が聞こえた。


扉を開けた瞬間、消毒薬の臭いと人の熱気が一緒に押し寄せた。廃棄物通路の先には、古い検疫室を改造した診療所があった。寝台には配線の代わりに手書きの名札がつき、天井灯は車載用電池でかろうじて点いている。


玲華が一歩入ると、金属製の手術鋏が喉元で止まった。


「武器を床へ」


鷺沢華蓮は白衣ではなく、染みだらけの防水前掛けを着ていた。片手に鋏を持ち、もう一方の手で患者の静脈管を握っている。玲華は拳銃を抜かず、両手を見せた。


「前田結衣の状態を確かめに来た」


「結衣から。確認した後、どこへ連れていくつもり?」


「転出命令は保留させた」


「保留は治療じゃない」


華蓮は鋏を下ろし、結衣の寝台へ戻った。体温は三十四度を下回り、指は刺激にほとんど反応しない。皮膚に火傷も感電痕もない。代わりに首の後ろと手首の内側で、微細な出血点が繰り返されていた。


玲華の銀眼が生体信号を読もうとすると、華蓮が手で遮った。


「患者の同意なしに接続しないで」


「診断のためよ」


「その言葉で、この人の身体にはもう多すぎるものが接続された」


玲華は銀眼の補助を切り、肉眼で記録を読んだ。結衣は過去二か月、同じ症状で四度公式診療所を訪れている。毎回、点滴を受け、作業復帰の判定が出た。この診療所では心拍より先に感覚反応を記録し、寄与点数の欄は黒い線で消していた。


周囲の寝台も似ている。疲労困憊、低体温、記憶の空白、末梢神経痛。停電で負傷した患者より、普段の交代を終えて倒れた者のほうが多かった。


華蓮は寝台の下から、薄い診断フィルムの束を取り出した。公式診療所が捨てた出力紙へ、手書きの新しい記録を足したものだった。半年で八回、同じ症状を起こした患者もいる。交代が減った週は回復し、債務加算がついた月は悪化していた。


「栄養不足だけで説明できますか?」


「栄養はいつでも足りない。でも同じ食事をした人間でも、特定作業の後にひどくなる」


華蓮は結衣の手首を上げ、小さな痕を示した。


「接触装置の問題だと申告したら、作業場検査は正常で終わった。患者の検査だけ抜けてた」


「どうして原本を外部へ渡さなかった?」


「渡した。次の日、患者が転出された」


玲華はフィルムの角に書かれた名を見た。その名も、監査一覧の空白口座の一つだった。


「原因は何?」


「わかってたら、こんな地下にはいない」


華蓮が言った。


「同じ交代から来て、同じ壊れ方をして、公式記録では同じ部分が消える。私が知ってるのは、そこまで」


外で警備隊接近の警告が短く鳴った。診療所の人々は悲鳴を上げない。それぞれ担当する寝台の車輪ロックを外し、酸素ボンベを持つ。何度も経験した避難だった。


玲華は桐生へ突入保留を命じた。通信の向こうに短い沈黙が流れる。


「武装者を確認しています」


「患者二十三人も確認した。避難路を確保するまで入らないで」


「逃走する可能性があります」


「その時は私が責任を負う」


言った瞬間、黒鉄の署名癖に似てきた自分を感じた。華蓮も矛盾に気づいたように冷たく見たが、今は患者の搬送が先だった。


玲華は華蓮へ訊いた。


「断電派が、この人たちを誘拐したの?」


華蓮は結衣の瞼を確かめながら答えた。


「目が覚めたら本人に訊いて。治療室では、あなたの肩書も私たちの教義も無効よ」


結衣の指がわずかに動いた。華蓮はすべての会話を打ち切り、患者の名を呼んだ。玲華もその名が戻るまで、寝台のそばを離れなかった。


華蓮は結衣の呼吸が安定してから、ようやく玲華に記録を見せた。患者名は物理フィルムと診療所内の端末へ二重に残され、公式網とは接続していない。接続した瞬間、位置と健康状態が一緒に渡るからだった。


「記録を消したのは、やっぱりあなたたちね」


玲華が言った。


「公式記録を切った。名前は消してない」


華蓮は壁面の引き出しを開いた。中には何百枚もの薄いフィルムが、日付ごとに束ねられている。一枚ずつに患者名、以前の住所、家族への連絡方法が記されていた。行政網から消えた人々は、この部屋ではより多くの情報と共に残っている。


玲華は、交代直後に神経異常を起こした患者だけを選んだ。冷却管溶接、放熱織布、運搬ベルト、構造バッテリー外壁清掃。職種は異なるが、作業服の手首と首の後ろへ接触パッドを使う仕事という共通点があった。


「パッドが感電させてる?」


華蓮は首を横へ振った。


「電流熱傷も組織損傷もない。作業場の検査でも漏電なし。でも患者は、身体の内側が抜けていく感じがすると言う」


「感覚は原因じゃない」


「だから検査機材を寄越せと七回申請した」


華蓮は却下通知を見せた。すべて「寄与機材正常」「追加検査不要」という同じ文章で終わっている。患者を検査してほしいという要求に、機材は正常だという返答だけが来ていた。


玲華は却下通知の承認者を確かめた。医療局でも作業場でもない。「寄与調整室」という部署だった。現在の行政組織図には存在しない。通知の日付は十年以上離れているのに、文章も署名位置も同じだった。華蓮はすでに、その点へ印をつけている。


「ずっと前から、同じ返答が来てたのね」


「医者が変わって、作業場が変わっても、答えは同じ。だからここでは患者の言葉を先に書く」


玲華は「身体の内側が抜けていく」という表現が、何枚ものフィルムに繰り返されているのを見た。医学用語ではない。だが互いに会ったこともない人々が、同じ言葉を使っていた。


結衣が低く呻いた。華蓮はすぐ寝台へ行き、手を握る。


「前田さん、ここがどこかわかりますか?」


結衣の目がゆっくりと開いた。焦点が戻るまで時間がかかる。玲華の警備標識を見ると起き上がろうとし、また倒れた。


「隼人は無事よ」


玲華が先に言った。


「暖房も入れた」


結衣の唇が動いた。


「戻ったら……また連れていかれます」


「誰に?」


「転出班」


断電派という言葉は出なかった。結衣は、彼らに連れていかれたのではなく、転出班より先に到着してくれたのだと言った。同意したのかと訊くと、小さくうなずいた。


華蓮が玲華を睨んだ。


「確認できたなら、治療を続けさせて」


玲華は結衣の記録を押収しなかった。代わりにフィルムの検証値を目で読み、記憶した。公式機材は正常で、人間だけが繰り返し壊れる。誰が何のために記録を消すのかは、まだわからない。


診療所の奥の扉が開き、大柄な男が酸素ボンベを二本抱えて入ってきた。右頬の火傷痕より先に、防護服についた切れた廃ヒューズの輪が見えた。


道後玄馬は玲華を見ると、まず酸素ボンベを床へ下ろした。


銀眼はその顔を手配者と即座に照合した。コア攻撃指示、警備網破壊、違法配給所運営。容疑一覧が画面を埋め尽くす。道後はその警告が見えているようだったが、逃げなかった。結衣の酸素が安定して流れることを確かめ、何も持たない両手を見せる。


「武器を探す目だな」


道後が言った。


「今日は人の名前しか持っていない」


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