第18話 数字より長い名簿
下層の公共画面に災害集計が表示されたのは、復旧開始から20時間後だった。人々は配給所の前で水を受け取りながら顔を上げた。画面の下を赤い速報帯が流れる。
「停電関連の下層緊急集計対象者のうち、死亡および生存未確認は二・七パーセント」
玲華の足が止まった。
全市民ではなく、封鎖と浸水の被害が集中した十二区画の暫定登録者を母数とする数字だった。放送は、通信の復旧に伴い数値が変わる可能性があると付け加えた。続いて管理委員会の報道官が現れ、予想より低い被害率だとして、迅速なコア再稼働の成果を強調した。
配給の列から、嘆きも歓声も上がらない。人々はまず、自分の家族の名前が画面にないことを確かめた。名簿は公開されず、数字しかなかった。
画面脇の臨時掲示板には、住民が自分で書いた名前が貼られていた。紙の代わりに包装紙や破れた作業票が使われている。「加藤美奈、第44冷却区」「石田翔、最終連絡03時10分」。公式網で検索できない名前の下には、近隣住民が書いた目撃時刻が続いた。電力が戻った後、人々が最初にしたことは充電ではなく、互いの行方を記すことだった。
玲華も前田結衣の名前を書いた。そばにいた幼い子が文字を見ると、自分の母親を知っているのかと訊いた。隼人だった。治療施設にいるという自動通知を信じているか、玲華には訊けなかった。
「探してる」
「どこを?」
答えられる場所がなかった。玲華は第47居住区という住所だけを、約束のように子供へ繰り返した。
玲華は銀眼に残る大阪からの機関通信を呼び出した。「損失率二・七パーセント」。文書の作成時刻は、東京の暫定集計が確定する6時間前だった。異なる都市の異なる報告書が、同じ小数点で出会っている。
偶然かもしれない。百分率は重なる。大阪の報告対象は都市内部の生態設備であり、東京の数値は災害被災者だった。二つの報告を結びつける理由はない。
それでも玲華は、放送局の原集計を請求した。返答は即座に来た。安全上の理由により詳細名簿は非公開、現場指揮権は統計原本の閲覧対象外、という通知だった。
「死者を非公開にする安全って、何よ」
隣で水を配っていた老人が苦く笑った。
「名前が出れば、どの階層で何人死んだか見えますから」
「家族確認用の回線は開いています」
「家族がいる者だけ、名前になれるんですね」
老人は自分の水を受け取り、去っていった。玲華は答えられなかった。行政転出者は行方不明者としても数えられない。家族が届け出ても、すでに別区画へ移動したという自動応答しか返らないだろう。
公共画面の数字が一度揺らぎ、二・六へ変わってから、また二・七へ戻った。通信途絶者一人の生存信号が入り、同じ瞬間に別の一人の死亡が確定した結果だった。小数点の下で、二つの名前が互いの場所を入れ替えた。
放送はすぐ、創設者記念週間の日程が一部正常化したというニュースへ移った。死亡率の数字は画面下の細い帯へ追いやられる。人々は水を受け取り続け、掲示板の名前は一行ずつ増えた。都市が情報を隠さなくても、別の情報でどれほど簡単に覆えるのか。玲華はそれを見た。
玲華の端末が震えた。発信者は坂本だった。
「あの数字、見たのは俺だけじゃないよな? 原本が二つとも要る。今すぐ」
坂本は閉鎖された洗濯店の乾燥機三台を、サーバー代わりにしていた。扉を開けると、暖かい埃と古い繊維の臭いが押し寄せた。回転槽の代わりにケーブルの束が回り、壁には下層公共網から拾った断片資料が幾重にも浮かんでいる。
「大阪の報告は、正式な農業区通信よ」
玲華が言った。
「東京の被害集計とは関係ない」
「関係がないと言えるほどのデータが、まだないだけだろ」
坂本はごつい左手で通信ファイルを受け取った。指の関節ごとに、異なるメーカーの部品がつながっている。ファイルを開く間、肩がかすかに震えたが、本人は気づかないふりをした。
二つの二・七が、画面の中央へ並んだ。坂本はまず文書様式を比較した。作成機関、対象コード、集計方式のすべてが異なる。数字以外に共通点はない。
「ほら、偶然よ」
玲華が言った。
「偶然かもしれない。でも、この東京の数値は原計算値じゃない」
坂本は放送用集計の小数桁を拡大した。二・七の後ろに切り捨てられた数字がない。登録者が数千人なら、除算の結果はもっと長い小数になるはずだ。誰かが丸めたのではなく、最初から一桁の数値として保存したことになる。
「要約規格かもしれない」
「だから原本を出せって言ってる。分母が誰で、分子が誰なのか」
坂本は自分のサーバーから、下層の通報資料を呼び出した。公式集計に含まれない行方不明者、診療所から消えた患者、転出通知後に連絡が絶えた者。資料ごとに情報源の信頼度は異なり、重複も多い。すべて足せば二・七を上回り、確認可能なものだけ残せば、はるかに低くなった。
「グラフなんて、好きな形にいくらでも作れる」
坂本が言った。
「名前を抜き始めれば、もっと簡単だ」
画面の隅には、「群体損失正規化」という古いツールが開かれていた。坂本が公共生態網の下請けをしていた頃に作ったコードだった。小さな変化と送信エラーを束ね、通信量を減らすフィルターだという。
「これ、あなたの通報網にも使った?」
「帯域がただだと思ってるのか? 重複通報を整理するために入れた」
玲華がフィルターを切ると、欠落していた細い棒がグラフの下へ現れた。一度だけ届いた失神報告、綴りが異なる転出者、未確認の死亡証言。それぞれは信頼しづらい雑音だが、同じ作業区で繰り返されていた。
坂本の口元から皮肉が消えた。
「俺も、きれいなグラフを作ったわけだ」
「原本を見直して」
「そうする。俺が消したものから」
坂本は自分のコードの検証値を別に保存した。管理組織の削除を罵っていた人間が、自分の手で押した削除も調査対象へ入れた瞬間だった。
玲華は前田結衣の空になった健康記録を見せた。冗談めいた坂本の顔が固まる。彼は削除時刻と放送集計の更新時刻を重ねた。数秒の差で噛み合った。
「断電派が台帳を盗む時、こんなふうに消したのか?」
「その可能性も調査中」
「可能性は便利だな。あんたの側はいつも、知らない人間を先に犯人欄へ入れる」
「私の側と呼ばないで」
坂本は言い返さず、手を差し出した。
「原本閲覧キー」
玲華は一瞬ためらった。限定監査さえ承認を得ていない。坂本へキーを渡せば、彼は複製を作る。その後は回収できない。
「閲覧だけ。持ち出すかは私が決める」
「またあんたが決めるんだな」
「今は私の権限で入る。見つかった時に止まるのは、あなたのサーバーじゃなく私よ」
「だから、もっと問題なんだ。あんたは自分の身体も権限も、全部共有機材みたいに使う」
坂本はそれ以上言わなかった。だがキーを受け取る手は、いつもより遅かった。
その言葉が引っかかった。それでも玲華はキーを渡した。今必要なのは結論ではなく、根拠だった。
復旧記録室は、中層行政区の下へ隠された狭い円筒形の空間だった。一枚の紙もない部屋なのに、古い書庫のように乾いた臭いがする。何十年も交換されていない冷却剤が、壁の中で低く煮えていた。
玲華は自分の管理者端子を閲覧台へ接続した。坂本は携帯機器を直接つなげず、玲華が表示した画面だけを受け取る。約束どおりだった。少なくとも始まりは。
前田結衣の記録を呼び出すと、基本情報と債務数値しか現れなかった。健康原本、作業履歴、家族関係は空の灰色欄だった。削除命令を追うと、利用者名の代わりに「転出整合性処理」という自動規則が出てきた。
「整合性、ね」
坂本が呟いた。
「人間を消して表をきれいにする名前にしては、優雅だな」
玲華は同じ規則が実行された口座をすべて開いた。停電前後の三日間で百十二人。その半数以上がエネルギー寄与債務の限度を超え、残りには治療の反復や作業中断の記録があった。
削除対象は無作為ではない。債務超過者は転出へ、反復治療者は再配置へ、保護者のいない者は居住資格終了へ分けられていた。別々の理由に見えても、最後は同じ空欄へたどり着く。規則設計者の署名を探すと、数十回の改定を経て原作者の名は消え、部署コードだけが残っていた。
「誰が責任を負う規則なの?」
「誰も」
坂本が答えた。
「一行ずつ直した奴は、自分の行だけ責任を負ったと言うさ。最後に人間が消えるのは、規則全体のせいだと」
玲華は、黒鉄がいつも責任者欄へ自分の名を書く理由を一瞬だけ理解した。名前のない自動化より、一人の誤った判断のほうがまだ捕まえやすい。だからといって、その一人が全員の同意を代行できるわけではない。
「断電派が連れ出した人間も、混じっているかもしれない」
「なら、どうして行政網が断電派の後始末をしてやるんだ?」
坂本は画面の削除手順を巻き戻した。古い左腕が速く動くほど、接続端子からホワイトノイズが漏れる。完全な復元には至らなかったが、データが消える直前に作られた検証値の一部が残っていた。名前の最初の文字、年齢、最後の健康状態。
前田結衣。二十八歳。低体温および末梢感覚消失。
玲華は読み進め、止まった。公式の転出記録には「健康上、移動適合」とある。同じ時刻の原本は、一人で歩くのも難しい状態を示していた。
扉の外で警備警告が鳴った。許可範囲を超える復元要求を検知したという案内だった。坂本が反射的にケーブルを抜こうとしたが、玲華が手を止めた。
「一つだけ、もう一つ」
玲華は前田の子供関係の検証値を復元した。七歳、前田隼人。保護者口座には、母親が中層治療施設へ移動したという自動案内が送られていた。治療施設名は空白だった。
警告音が一段高くなる。玲華は出力装置を開き、二行の名前を物理フィルムへ刻んだ。デジタル記録が再び消されても残るように。
坂本はフィルムを受け取り、光へかざした。
「一人救ったと思うなよ。後ろに百十一人いる」
「わかってる」
玲華が原本復元要求を終了すると、部屋の画面で前田結衣の名が再び灰色に薄れた。だが彼女の手元には、消えない文字が残った。
物理出力機が文字を刻むたび、部屋の温度が少しずつ上がった。百十二人全員を印刷するには、警告までの時間が足りない。玲華は検証値一覧を圧縮せずに保存し、坂本には画面座標を撮影させた。持ち出し禁止を破らず、もう一度戻る場所を残す方法だった。
「これは複製に入るか?」
坂本が訊いた。
「記憶の補助よ」
「監察官らしい詭弁だな」
「必要なら、私の名前で記録して」
坂本は撮影ファイルの責任者欄へ、本当に玲華の名を入れた。
黒鉄の臨時執務室には椅子がなかった。壁一面を占める都市状態盤と、折り畳み式の署名台だけが置かれている。整備士が左腕の外装を外している間も、黒鉄は復旧命令を検討していた。
玲華は前田結衣の物理フィルムを署名台へ置いた。
「転出整合性処理。誰が作った規則?」
「災害行政の規則は、数十年かけて付け足された。担当部署を探す」
「その間に、百十二人が記録から消えた」
整備士の手が止まった。黒鉄は彼を外へ出し、開いた義手の内側を布で覆った。精密な金属関節の間から、古い切断面が一瞬見えた。
「断電派が転出網を使って人を連れ出した形跡もある」
黒鉄が言った。
「自動削除が彼らの侵入による結果である可能性は、排除できない」
「だから確認するの。放送集計の原本、転出規則、医療記録、復旧配置網まで」
「今すべてを開けば、復旧網の処理速度が落ちる」
「人の名前を探すことが、復旧を妨げると言ってるように聞こえる」
黒鉄の動きが止まった。怒るほど彼が正確になることを、玲華は知っていた。
「72時間。読み取り専用の監査を許可する。現場設備を止めることも、原本を外部へ持ち出すことも認めない。坂本の接続はお前が責任を負え」
「監査結果もあなたが封印する?」
「因果関係が確認できれば、公開範囲を決定する」
「それ、第9乗換層の時にあなたが言った言葉よ」
室内の換気音が、やけに大きく聞こえた。黒鉄の視線が署名台の端へ落ちる。そこには停電死者の暫定集計が表示されていた。最初に発表された二・七パーセントは、未登録者と行政転出者を除外し、一・四パーセントへ修正される予定だった。
「あの時公開していれば、封鎖線の外の家族が扉を開けろと押し寄せた」
黒鉄が言った。
「冷却材が隣接区画へ広がれば、一万人が死んだ」
「だから九人の名前まで消したの?」
「名前は覚えている」
黒鉄はためらわず、九人の名を順に挙げた。玲華が復元しようとして処分を受けた名簿と、一文字も違わない。彼の記憶は正確だった。その正確さが、玲華をさらに怒らせた。
「あなたが覚えていれば、それで終わり?」
「違う。だが、俺が忘れなかった事実まで、なかったことにはならない」
「あの人たちに必要だったのは、あなたの罪悪感じゃない。自分の名前よ」
黒鉄は答える代わりに、監査承認の範囲へ医療原本を追加した。謝罪ではなく措置で語る癖は、相変わらずだった。
「数字が下がった」
玲華が言った。
「集計基準が整理された」
「人が生き返ったんじゃなく?」
黒鉄は答えなかった。玲華は修正案の除外名簿を開き、前田結衣の名を探した。予想どおり灰色の転出欄にいる。死亡でも行方不明でもない人間が、被害率を下げるために使われていた。
玲華は修正案への電子署名を拒み、備考欄へ前田結衣と隼人の名を直接入力した。続いて、復元した百十二人全員を添付するための空欄を作る。
「72時間以内に終わらせる」
黒鉄が監査権限へ署名した。
「終わらなければ?」
「その時も、名前は残る」
「復旧を止めるべき根拠が出たら、即座に報告しろ」
黒鉄が言った。
「一人で接続するな。一人で決めるな」
心配しているのが玲華の神経損傷なのか、都市の統制権なのか、玲華には区別できなかった。どちらもなのだろう。
「私に選択権を与える言葉には聞こえない」
「選ぶ者が生きていなければ、選択権もない」
玲華は物理フィルムを持ち、部屋を出た。状態盤では都市安定率が上がり続けている。その下で初めて、数字より長い名簿が開き始めた。
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