第12話 誰の名も残さない
18秒が過ぎても、黒鉄は戻らなかった。
シナプスグローブの磁力出力が落ちていく。扉の下の支柱は中央から曲がった。桐生と保安隊員二人が手で扉を支えたが、重さは下がり続ける。
「外部切断、準備」
桐生が命じた。
玲華は銀眼で内部を見た。不活性ガスが熱像をぼかしている。黒鉄の体温と、道後、もう一人らしい熱源が扉へ向かっていた。距離はまだ十二メートル。
反対側の避難路で信号を捉えた。盗まれた物理キーだ。
断電派の連絡員が混乱に乗じ、台帳保管室の裏から逃げている。今追えば捕らえられる。キーと台帳原本を回収すれば、停電の中心へ近づく道が開く。
玲華は動かなかった。
「桐生、左の蝶番だけ切って。扉全体は落とさないで」
「切断すれば、再び閉じられません」
「中に人がいる」
プラズマ切断機が蝶番を溶かした。扉が片側へ傾き、隙間が少し広がる。玲華の左腕の感覚が、指先から消えていった。
内側から黒鉄が現れた。右肩には意識を失った配給担当者を担いでいる。道後は自分で歩いていたが、手には紙台帳の箱があった。
「箱を捨てて!」
玲華が叫んだ。
道後は箱を下ろさなかった。
「名前が入っている」
「人から出て」
黒鉄が道後の背を押した。三人が扉の下を抜けた直後、支柱が折れた。桐生が隊員を後ろへ押し、傾いた扉が床へ落ちる。
衝撃で玲華の手が抜けた。グローブの表面が裂け、掌に火傷ができた。床へ座り込んだまま、再び人数を数える。
華蓮が言った。
「全員確認。死者なし」
玲華は華蓮から名前一覧を受け取り、人数と照合した。保安隊六人、信徒十四人、債務者二十三人、医療スタッフ三人、子供五人。合計だけでは終わらせない。一人ずつ返事をするか脈拍を確認するたびに、表示を変えた。最後の名前へ線が入って初めて、扉を支えた選択の結果が確定した。
そこでようやく、玲華は息を吐いた。
黒鉄が道後から箱を取り上げた。中にあったのは台帳原本ではなく、手で書き写した失踪者名簿だった。物理キーもない。
「連絡員が裏口から出た」
玲華が言った。
黒鉄は位置図で遠ざかる信号を確認した。
「追跡できたか」
「扉を放していれば」
「なら選択は終わった」
黒鉄は責めなかった。そのことがかえって玲華を不快にした。
道後は箱の紙を一枚ずつ確かめた。酸素不足で顔は青白かったが、手は名前の上でだけ止まった。
桐生が手錠を持って近づく。
「道後玄馬、停電テロおよび設備破壊の容疑で――」
避難路の反対側で、また爆発が響いた。保安隊の視線が揺れた隙に、断電派信徒が消火粉を撒く。視界が白く覆われた。
玲華は粉を突き抜けて手を伸ばしたが、空の防護服の裾に触れただけだった。
粉が収まった時、道後と台帳箱は消えていた。
床には、彼が読んでいた名前の紙が一枚残っていた。
道後は閉鎖排水路を通り、聖所から遠ざかった。
息を吸うたび喉の内側が痛んだ。不活性ガスを吸いすぎている。後に続く信徒二人も、まともに歩けなかった。そのうち一人が台帳箱を抱えている。
「三上は?」
道後が尋ねた。
「捕まりました。感電した石田も」
「生きているか?」
「華蓮先生が外へ出しました」
道後は頷いた。生きている事実と、正しかったという判断は別だった。三上は命令を破り、危険な装置を接続した。だが装置が爆発した場所へ置き去りにはしなかった。
排水路の先の狭い整備室へ着くと、信徒たちが待っていた。成功したかを尋ねる者も、物理キーの所在を尋ねる者もいる。
道後は答える前に名簿を広げた。
「太田勝」
人々が静かになった。
「城戸里奈。藤森圭」
停電で死んだ人々の名前だった。
続いて道後は、聖所の爆発で負傷した者の名を読んだ。保安隊員二人、信徒四人、債務者一人。死者はいない。最後に三上と石田の名を告げた。
若い信徒が耐えきれず口を挟んだ。
「あの二人は信仰を守ろうとして捕まったんです」
「私の命令を破り、患者のそばで装置を接続した」
「それでもシステムが先に撃ったでしょう」
「装置を持ち込んだのは我々だ」
道後の声は大きくならなかった。名前を読む時と同じ音量だった。
「防御網が人を識別できなかった責任も記録する。だからといって、我々の誤りは消せない」
ある者は頭を下げ、別の者は唇を噛んだ。停電が長引くほど、断電派内部でも望むものが分かれていった。人を救い出す者。台帳を公開しようとする者。光が戻ること自体を敗北と考える者。
道後は箱を開いた。複製した台帳には移送者の名前と日付だけがあり、行き先欄は相変わらず空だった。失踪の答えは得られていない。
「物理キーは連絡員がコアへ運びました」
信徒が報告した。
「中継層を開けられます。今度こそ最後まで行くべきです」
道後は整備室の圧力計を見た。都市電力は予想以上の速度で崩れている。計画した停電時間はすでに過ぎていた。さらに引き延ばせば、救おうとした人々まで死ぬ。
「キーを回収する。コアは破壊しない」
「再び点灯すれば、移送も再開します」
「だから台帳を持ってきた」
「紙で止められますか?」
道後はすぐには答えられなかった。
最初の停電で、閉ざされた救助扉がひとりでに開いた瞬間を思い出した。道後はそれを奇跡だと断定したことはない。ただ扉が開き、人々がその隙間から生きて出た。その事実が共同体を作った。
今回は扉を開くため、誰かを殺していた。
「今日救い出す人から救う」
道後は台帳箱を閉じた。
「その先の答えは、まだない」
地図上でコアへ向かう救護通路を指した。勝利への道ではない。より大きな失敗が閉じる前に戻るための道だった。
聖所が空になった後に残ったのは、焼けた装置と濡れた紙だった。
玲華は爆発地点で回収した記憶板を携帯端末へ接続した。坂本が遠隔で破損区間を復旧する。画面には断電派の作戦手順が時系列で現れた。
寄与台帳へ接続。
移送者索引を複製。
債務記録を削除。
救助対象を移動。
コア出力制御の項目はない。発電機の破壊命令もない。停電は台帳の扉と移動通路を開ける手段としてだけ記されていた。
桐生が記録を読んで言った。
「目的が限定されていても、被害は減りません」
「そうね」
玲華は太田の死亡記録を閉じなかった。
黒鉄が記憶板の最終行を指した。
「予定復旧時刻を、すでに26分過ぎている」
断電派も、この時点では主電力を戻す計画だった。だが物理キーを巡る追跡、三上の独断、自動防御網の爆発が続き、復旧手順は崩れた。
坂本がコアの状態を表示する。
「もう断電派が線をつなぎ直しても戻りません。構造バッテリー内部で逆流が始まっています」
「原因は?」
玲華が尋ねた。
「複数区画が別々の時刻に切れ、残留電力がコアへ押し戻された。簡単に言えば、都市が自分の心臓へ電気を吐いている」
「生命維持の限界は?」
美緒が回線へ入った。
「下層換気29分。給水圧力40分。農業温度維持52分。コア中継盤が焼ければ、計算は無意味」
その声には恐怖ではなく、故障の順番だけがあった。
黒鉄が地図を開いた。コアへ向かう公式エレベーターは、断電派が持ち去った物理キーによって施錠されている。残った道は、初期建設期の垂直配管路と保安回廊だけだ。
「下層三区画を分離すれば、逆流を遅らせられる」
黒鉄が言った。
玲華は対象区画の人数を確認した。
「分離すれば換気から止まる」
「29分以内にコアを救えなければ、全区画が止まる」
「別の方法は?」
美緒がしばらく計算した。
「管理者端子からコア中継盤を直接再配置できる。理論上は」
坂本が悪態をついた。
「理論上、という言葉の後に、人間の神経を配線として使う部分が抜けてる」
玲華は首の後ろの熱を感じた。これまでの接続だけで、指先の感覚が鈍い。
「接近できれば可能という意味ね?」
「接近しても、物理キーがなければ中核遮断器を開けない」
黒鉄が言った。
「断電派の連絡員がキーを持ってコアへ向かった。彼らも状況を理解している可能性が高い」
「分かっていて、さらに切るかもしれません」
桐生が言った。
玲華は焼けた記憶板と、空になった聖所の寝台を見た。断電派は都市を滅ぼすために始めたのではない。だが自分たちが作った闇を、もはや制御できていない。
「コアへ行く」
玲華が決めた。
「キーを回収して電力を戻す。断電派の意図とは関係なく、今止めなければ全員が死ぬ」
聖所の非常灯が最後に一度点滅し、消えた。
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