記憶喪失
『アクエリアス・ブラッド』6
・記憶喪失
その日、留衣は孝之に呼び出されて渋井大学付属病院に向かった。仕事だった。患者は記憶喪失で手術は既に成功しており、後は回復を待つのみだった。留衣は病院に着くなり、玄関で待っていた孝之に話し掛けられた。
「やぁ、待っていたよ」
「こんなに闇医者をホイホイ入れて大丈夫なんですか?」
「キャンがいるから今更だね。それに、確実に治す事を売りにしているから猫の手も借りたい気持ちなんだよ」
「私は猫の手ですか」
「ははは。まぁそう怒んなさんな。さぁ行こう」
留衣は孝之に連れられ、院長室に向かった。
「これを見てくれ」
孝之は患者のカルテを留衣に見せた。そこには「記憶喪失」と書かれていた。
「記憶喪失?」
「そうだ」
「それで?」
「君の血を入れてもらいたい」
「私の血を?何故?」
「君の血で治療を強制的に進めて記憶を取り戻してもらいたい」
留衣は眉を顰めた。
「私の血は万能ではありません。記憶喪失は時間経過と共に治る事もありますが、一生戻らない事もあります。それはご存じでしょう?」
「しかし本人とご家族は少しでも可能性があるならそれに賭けたいと仰っててな……」
留衣は溜め息を吐いた。
「分かりました。やってみましょう。ただ、割増ですよ?」
「そこは承知の上だ。さぁ行こう」
二人は患者の病室に向かった。病室には患者とその妻と息子と娘がいた。
「お待たせしました。非公式ですが、医者の阿津田留衣先生をお呼びしました」
「阿津田留衣です」
「妻の中田香苗です。こちらは入院してる夫の英嗣と息子の薫と娘の緑です」
「薫です」
「緑です」
「それで、依頼との事でしたが?」
「はい。この人の記憶を取り戻してほしいんです」
「加藤院長からお話があったとは思いますが、記憶喪失は治るかどうかは分からないものです。時間が解決する事もあれば、何かの切っ掛けで思い出すものです。また、一生、戻らない可能性もあります。それでも私の施術を受けますか?」
英嗣は頷いた。同時に香苗と薫と緑も頷いた。
「分かりました。ただ、私の施術は特殊です」
「特殊と言うと?」
「端的に言うと、寿命が縮まります」
「寿命が縮まる?どういう事ですか?」
「私の施術は傷や病気を早く治すものです。分かりやすく言うと、その分、寿命が縮まるのです」
「どれくらい縮まるんですか?」
「それは分かりません。治るまで施術を行いますので、その分、縮まるという形ですね」
「そうですか……でも、お願いします」
留衣はふと疑問に思った。
「差し支えなければお伺いしたいのですが、何故、そんなに急いで記憶を取り戻したいのですか?」
家族は俯き、香苗は語り出した。
「夫は強盗に襲われたみたいなんです。ですが、肝心のその日の記憶が頭を殴られたショックで無くなったんです。犯人は逮捕されたんですが、夫の事件に関しては記憶喪失で裁判に不利になるとの事で、何としても記憶を取り戻して犯人に罪を償ってもらいたんです。そして、またあの暖かい家庭に戻りたいんです。また、家族団欒の家庭に戻りたいです」
「暖かい家庭、ですか……」
留衣はふと自分の家族の事を思った。自分の家族は暖かい家庭になっているだろうか。妻には大学を休学させてまで自分の子供を産ませ、闇医者の家系に注ぐという事で自分の家族と縁を切り、息子はずっと遊ばせる事無く勉強漬けさせ、生きるのも五十歳前後と約束された絶望を味わわせている。彼らは幸せなのだろうか。そう思うとこの案件を引き受ける事にした。
「事情は分かりました。お引き受けしましょう」
「本当ですか!?」
「但し、最初にも申し上げたように、寿命が縮まります。亡くなるのがいつになるかは分かりません。本当にそれでも宜しいですか?」
「お願いします!」
「分かりました。ではこちらにサインと印鑑をお願いします」
留衣は鞄から同意書を取り出し、テーブルの上に置いた。香苗は同意書にサインと印鑑をし、留衣に返した。
「では契約完了です。施術を行いますのでご家族の方は病室の前で待っていて下さい」
「分かりました」
家族は病室を出て行った。残された留衣と孝之と英嗣は、お互いに顔を見合わせて頷いた。留衣は鞄から注射器を取り出し、自分の血を少し抜き取って英嗣に注射した。
「あの、血液型とか大丈夫なんですか……?」
「私の血は特別製でして。安心して下さい」
「は、はぁ……」
注入を終えると、留衣は立ち上がった。
「加藤院長。中田さんはいつ退院ですか?」
「明日だ」
「分かりました。ご家族の方々をお呼びして下さい」
「分かった」
留衣に言われ、孝之は家族を連れ戻した。
「今、施術が終わりました。明日、隊員との事ですので、普段通りの生活を送って下さい。そして、事件の再現も積極的に行ってください」
「で、でも事件の再現をしたら脳に異常を来すと言われたのですが……」
「すぐに記憶を取り戻したいのであればそれが一番手っ取り早いです。ただ、確かに脳にかなりの負担が掛かるのでそこは自己責任で」
「わ、分かりました……」
「とりあえず一週間、寿命が縮まりました。明日ご自宅にお伺いしてまた施術を行います。その度に寿命が一週間、縮まりますのでご了承下さい」
「はい」
そうして留衣は病院を後にした。帰りの道中、ふと人気ケーキショップの前を車で通った。「たまには買ってってやるか」と思い、ケーキを自分と亜久阿と理央の分の三つを買い、家に帰った。家に帰ると、亜久阿が出迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま。理央は?」
「今さっき塾から帰ってきたよ。全国模試三位の余裕で今は休んでるわ」
「そうか」
留衣はケーキをどう渡そうか悩んで玄関でいつまでも靴を脱がずにいると、亜久阿が不思議そうに聞いた。
「どうしたの?それ」
「あ、あぁ、これか。これはだな……」
「家族サービス」と素直に言えたら良かったのだが、どうも照れ臭くて言えなかった。そこへ理央がやって来た。
「あ、父さん。おかえり」
「あぁ、理央。ただいま」
「どうしたのそれ?ケーキ?」
「あ、、あぁ、そうなんだ……」
「何で急に?珍しいじゃん」
ここで留衣は閃いた。
「全国模試三位だったんだってな。おめでとう。だがこれからも勉強は怠るな。糖分接種は大事だと思ってな。お祝いと今日の勉強の為のエネルギー摂取の為に買ってきたんだ」
「ありがとう!じゃあ晩御飯の後に一緒に食べよう!」
「あぁ。私はちょっと明日の仕事の為に準備をするから部屋に戻るよ」
「分かった」
「亜久阿、ご飯の準備が出来たら呼んでくれ」
「分かった」
そうして留衣は自室に入っていった。
「きっとお父さん、急に家族サービスして照れ臭かったのよ?」
「だろうね」
二人にはバレていたようだった。留衣は自室に入り、注射器で自分の血を抜き取り小分けしていった。「今回は長めの仕事になるかもしれない」。そう思い、椅子に腰掛けてつい転寝してしまった。暫くして、部屋に亜久阿が入ってきて起こしてきた。
「留衣?留衣?」
「……あ……?亜久阿?どうした?」
「夕飯よ?」
「あ、もうそんな時間か……」
「どうしたの?ケーキと言い、起こしても起きないと言い。疲れてるの?」
「さっきちょっと血を抜き過ぎてな……貧血かもしれん」
「そっか。じゃあ丁度良かった。今日は鮪と山芋の納豆和えよ」
「そうか。今行く」
留衣と亜久阿は理央と一緒に夕飯を食べ、それぞれ風呂に入って寝た。翌日、留衣は英嗣の家に向かった。
「お邪魔します」
「先生。お待ちしておりました」
「その後、記憶は戻りましたか?」
「いえ……」
「そうですか。では施術を開始します」
留衣は英嗣の部屋に入り、英嗣に血を注入した。
「ではまた一週間、寿命が縮まりました。記憶が戻り次第、施術は終了しますのでいつでもご連絡下さい」
「分かりました」
それから三ヶ月間、留衣は毎日、英嗣に血を注入した。約二年間、寿命が縮まると、英嗣に異変が起こった。急に倒れたのだ。即、入院し、検査を行ったところ、末期の胃癌だった。喋る事もままならぬ状況と同時に、英嗣の当時の記憶が戻った。しかし家族の事はまだ思い出せていない状態だった。それでも香苗はすぐに警察に通報し、英嗣は事のあらましを説明した。そして裁判で犯人は過去の罪も明るみになり極刑判決。香苗達は賠償金を受け取り、英嗣に報告した。しかしもう寝た切りになっており、言葉も交わせなくなっていた。そんなある日、香苗達がいつものように英嗣の病室に向かうと、寝たきりだった筈の英嗣が起き上がって待っていた。
「お父さん……!?」
「母さん。それに薫、緑。苦労を掛けたな」
「父さん……!」
「お父さん……!」
「母さん。今まで俺を支えてくれてありがとう。薫。これからはお前が母さんや緑を支えてやってくれ。緑、お前のウェディングドレス姿、見たかった」
家族一同は抱き合った。
「俺は幸せだった。今までありがとう」
そう言うと、英嗣はベッドに横になり、そのまま眠るように亡くなった。それを孝之から聞いた留衣は「そうですか」と言って電話を切った。英嗣が本当に家族の記憶を取り戻したのかは分からない。家族を安心させる為に吐いた嘘かもしれない。だが、そこには幸せな家族があった事に変わりは無い。そして理央はその頃、渋井大学医学部医学科に受かったのだった。




