中編
前日眠れなかったおかげか、水曜日の朝はたっぷりの睡眠のがとれて、爽やかに起きられた。
アシュリーはいつも通り制服に着替えて、朝食を取り、そして最低限の身支度を整える。
ふと、アシュリーは鏡に映る自分を見た。ぼさぼさの髪、コケた頬、死相が出ている表情。
「(…月曜日までか…)」
アシュリーは、今日も来るであろうリヒトのことを思い出す。こんな風貌の女にでさえ執心できるのだから、薬の力はすごい。
とはいえ、こんな女に執心するリヒトを、周りがどう見るかは明白である。アシュリーはしばらく考えた後、どこにしまったかもう覚えてすらいない櫛を探した。
教室にはいると、先にノエルが来ていた。ノエルは、おはよう、と言ってからアシュリーを見た。そして、えっ、と声を漏らした。そして、嬉しそうに口元を緩めた。
「あら、今日はえらくきちんとしているじゃない」
「…」
「よかったわね、病気がようやく快方へ向かいそうで」
「…違うから、彼の名誉のためだから」
決して自惚れているわけでも疑似恋愛に浮かれているわけでもないことを訂正しようとしたとき、ものすごい剣幕をしたクラスの女子生徒たちがアシュリーを囲んだ。
「ねえアシュリー、やっぱりあなた、黒魔術を使ったのね?」
「え?」
「リヒトよ!でなきゃあなたに会いになんて来ないわ!」
ギャーギャーと女子生徒たちが不満を漏らす。アシュリーは、う、と返す言葉に詰まる。横で見ていたノエルは、まあ強ち間違いじゃない…、とぽつりと呟く。
すると、扉の外にも女子生徒たちが集まっているのに気がつく。制服のリボンの色から推測するにリヒトの同級生たちが、お怒りの様子でアシュリーの方を睨んでいた。
「お願いします、魔術を解いてください!」
「リヒトはあんなんじゃないんです!大人しくて、控えめで、女子生徒とは最低限しか仲良くしない人なんです!」
「早く元に戻して!」
わーわー!と下級生の女子生徒たちが喚く。そうよそうよ!とアシュリーと同じクラスの女子生徒も騒ぐ。アシュリーは、リヒトの件は魔術ではないと言い切れず、返す言葉がない。
すると、見かねたノエルが立ち上がった。
「ほらあなたたち、上級生のクラスに喧嘩を売りに来るなんて、随分お行儀の良いことね。罰則を受けたくなければすぐに帰りなさい」
ノエルはぴしゃりと下級生に言い放った。姫に言われては下級生たちはもう何も言えず、しゅんとした様子で教室へ戻っていった。ノエルは、あなたたちもよ、と同じクラスの女子生徒たちに釘をさした。女子生徒たちも黙り込み、各々の席に戻った。ノエルはそれを見届けると椅子に座った。
アシュリーはノエルに小声で、ありがとう…、とお礼を告げた。ノエルは、いいえ、と軽く頭を振った。
「別に良いじゃない、ねえ?魔術でもなんでも、ようやくあなたが人から好かれたんだから。家柄は大したことないみたいだけど。まあ、相手の家柄は良すぎても、それはそれで大変なんだけどね」
ロザリーが笑顔でこちらにやってきた。アシュリーは顔を引きつらせて彼女を見上げる。ノエルは笑顔でロザリーを見つめる。
すると、あら、と周りの女子生徒たちがロザリーの方を見る。
「今週の金曜日、エリックは学園の剣技大会に出るんでしょう?」
「去年はかなり良いところまで行っていたから、最上級生の今年はきっと優勝ね」
「国王陛下も今年は観覧にいらっしゃるみたいだし、気合入っちゃうわね、エリック!いいところ見せたいだろうし!」
きゃあきゃあと女子生徒たちははしゃぐ。ロザリーは困惑した様子で態とらしくため息をつく。
「エリックって次期国王だとか言われているでしょう?王家の方々は代々剣技に優れているから、今年は優勝しなきゃって、プレッシャーみたい。いい血筋っていうのも考えものよね」
はあ、とロザリーは肩を落とす。女子生徒たちは、確かに、と相槌を打つ。
「王家の方々って皆剣技がすごいのよね」
「国王陛下なんて、この学園に在学中はずっと剣技大会で優勝してたらしいわよ」
「ということは、最下級生の時から?」
えええ!と周りが騒ぐ。そんな騒ぎを横目に、ロザリーは頬に手を当てて困ったような笑顔をアシュリーに向けた。
「ね?だからエリックったら気合を入れてるけど、プレッシャーもあるみたい。皆期待してるから。大変よねえほんと」
「…ええ、そうね」
アシュリーは感情のこもらない返事をする。ロザリーは、あのね、とアシュリーの方を見る。
「私、婚約者の自慢をしに来たわけじゃないのよ?つまりね何が言いたいかってね、リヒトくらいの家の男性なら変な重圧がなくて良いじゃない、ってことよ。まああなたの素晴らしい家柄とは釣り合わないかもしれないけれど、でも、変な噂のついたあなたになら似つかわしいと思うのよ。私、いいと思う。リヒトって、あなたにお似合いよ」
大真面目に悪びれず、ロザリーはアシュリーに力説する。彼女は昔からこうなのだ。
アシュリーは力なく項垂れる。ノエルが、あら、と時計を見上げた。
「そろそろ先生がいらっしゃるわよ」
「あら大変。それじゃあねアシュリー、応援してるから!」
ロザリーはそうエールを送って、自席についた。ノエルはちらりとアシュリーの方を振り返る。
「…まあ、呪いたくなる気持ちはわかるわ。気持ちだけね」
「…」
ノエルの同情を受けながら、アシュリーは深く項垂れた。
この日は珍しく、リヒトは朝姿を見せず、そのまま昼休みが始まってもアシュリーのところへ来なかった。
ノエルは気を使って(というか面白がって)先にカフェテリアへ行ってしまったので、リヒトが来ないなら一人で昼食を取りに行こうかと席から立ち上がったとき、慌てた様子のリヒトがやってきた。彼の顔を見たときに、アシュリーはどっと安堵するのを感じた。そんな自分自身に、彼女は違和感がする。
「(…ん?)」
「あの、遅くなりました…」
「あ、ううん、全然…」
彼を待っていたのが透けて見えているのが恥ずかしくて、アシュリーは謎にぶっきらぼうになる。アシュリーは早口で、早く行こう、と歩き出す。するとリヒトが、あの、と言った。
「ランチボックスを買ってきたので、中庭で食べませんか?」
「ランチボックス?」
言われてみれば、彼は購買に売っているランチボックスを手に持っていた。
「ええいいけど…なぜ?」
「あの、…クラスメイトがうるさくて…」
「クラスメイト…」
アシュリーは、今朝の下級生たちを思い出して納得する。アシュリーは、ああ…、とつぶやいて苦笑する。
「黒魔術がどうとかでしょ?」
「え?」
リヒトは不思議そうに首を傾げる。そんな彼の反応が予想外で、今度はアシュリーが、えっ?と声を漏らす。
リヒトは目を泳がせて、あの、別件で…、と言葉を濁す。それからすぐ、取り敢えず行きましょう、お腹が空きました、とはにかんだ。そんな彼に、アシュリーは少し不可解に思いながらも頷いた。
リヒトは、人気のない中庭にアシュリーを連れてきた。そこにあるベンチに腰掛けると、リヒトは持っていたランチボックスの一つをアシュリーに渡した。
「ありがとう。お代今返しても良い?」
「ああ、良いんです。僕が無理矢理誘ったので」
「でも、」
「今朝から追い回されて、少し疲れちゃって…。カフェテリアだとまたみんなに見つかっちゃうかと思って、だから中庭に逃げてきました」
リヒトは困ったように笑った。そんな彼をしばらく見つめた後、何かあったの?とアシュリーは尋ねた。リヒトは少し黙った後、苦笑した。
「…金曜日に剣技大会がありますよね?それに出ないかって、クラスメイトや先生たちからしつこく誘われて…。剣技の授業があったときに、先生から褒められたこともあったので、皆僕に、出たほうがいいって…」
「へえ、それってすごいじゃない。出たらいいのに。国王陛下がいらっしゃるらしいから、いい結果を残せば目をつけてもらえて、そこから色々良いことがあるかもよ」
「…」
アシュリーの言葉に、リヒトは表情を曇らせる。アシュリーは、何かまずいことを言ってしまったかと自省する。
リヒトはしばらくの間の後、困ったように笑った。
「…苦手なんです。ああいう騒がしいところに放り込まれるのが。…目立つのも得意じゃないし」
リヒトはそういった後、情けないですよね、と苦しそうに笑う。
「自分でも思います。男のくせに、って。昔からどうして治らないんだって、」
「そんなことないよ」
アシュリーは真っすぐにリヒトを見つめて伝える。リヒトは瞳を揺らして彼女を見つめる。
「そのままでいいよ。そのままの優しいあなたが一番、…良い」
そう言いながら、一番好き、と言いそうになった自分にアシュリーは恐怖で震える。アシュリーはそれを隠すように、だから出なくていいよ、出なくて!!とまくし立てた。
リヒトは少し固まった後、目を伏せて少しずつ頬を赤くした。
「…ありがとう、ございます…」
リヒトは目を泳がせた後、意を決したように両手を握りしめた後、アシュリーの方を見た。
「僕、あなたにそう言ってもらいたかったです」
リヒトは耳まで赤くしてそう言うと、恥ずかしそうにまた目を伏せた。初夏の日差しが木漏れ日として頬に当たる。アシュリーは胸の高鳴りが苦しくて、とうとう目を伏せた。お互いがお互いのことを考えているのに、視線が合わず、次に発する言葉も上手く見つからず、歯がゆい沈黙が流れる。
「げっ、解毒!!」
アシュリーは立ち上がる。驚いたリヒトが、アシュリーを見上げる。アシュリーは意気込むと、また座り直す。
「早くその薬を抜かなくちゃ!毒をなんとかしなきゃ!」
「ど、毒…」
「解毒ってどうするの?!血でも抜く?!」
「わ、わわっ!わあっ!」
片腕を掴んで血管を浮かせようとするアシュリーを、リヒトが慌ててとめる。
「お、お、落ち着いてください…!」
「あ、ごめん…」
少しずつ正気に戻るアシュリー。ふと、リヒトの手を自分がつかんでいることに気が付き、慌てて手を離す。リヒトもそれに気が付いており、恥ずかしそうに後ろ髪をかき上げる。静かな風が2人の髪を揺らす。
「(…だからあ…このもどかしさが耐えられないんだって…!紛い物の恋愛ごっこに耐えきれんのだって…っ!)」
「僕、このままでも良いです」
リヒトがそう呟く。アシュリーは、え?と声を漏らす。リヒトは真剣な顔でアシュリーを見つめる。
「僕、このまま、薬が効いたまま、戻らなくて良いです」
彼の綺麗なピンクゴールドの髪が揺れる。アシュリーは彼から目が離せない。
「こうやって2人で、お昼ご飯を食べて、他愛のない話をして、笑って、…そうやっていたいです、ずっと」
「……」
アシュリーは唇をかみしめる。そして、自分の本心を覆い隠すように、やだなあ、と苦し紛れに笑った。
「薬だから、それ。冷静になって。薬の効果だから。勘違いだから」
あーお腹すいた、とアシュリーはランチボックスの箱を開ける。リヒトはひどく傷ついたような顔をしたあと、無理やり笑って、…僕もお腹すきました、と元気無く返した。ランチボックスの中身は色とりどりのサンドイッチが入っていてとても美味しそうだったのに、なぜか味がしなかった。
放課後、ノエルと軽く話していたら、リヒトがやってきた。リヒトは教室にほとんど人がいないのを見ると、中にはいってきた。そして、ノエルを見ると少し目を丸くして、ぎこちなくお辞儀をした。ノエルもノエルで、らしくなくどこか不慣れな様子でお辞儀をした。
「…2人って知り合いか何か?」
「え?う、ううん別に…」
「え、ええ何も…」
2人がそう白々しく返す。何かが怪しい気もしたが、姫と小さな男爵家の次男に接点が見えず、アシュリーは思い過ごしかと考え直す。
ノエルは少し黙ったあと、アシュリーの手を握って、リヒトの方を見た。
「…この方、今は少し闇落ちしていますけれど、根っからの悪人ではありません。とても良い人です。私が保証します」
ノエルはそう、真面目にリヒトに言った。リヒトは目を少し丸くしてノエルを見つめ返す。
アシュリーは、幼馴染の横顔を見つめる。まだ素直で明るかった頃の自分をよく知る彼女だからこそ、こんなことを本心から言ってしまうのだと苦しくなる。もうそんな少女はどこにもいないというのに。
「…やめてよノエル。私はもう、拗れたままよ。戻れはしない」
「…」
ノエルはアシュリーの方を見つめて眉をひそめる。そして、またリヒトの方を見た。
「…訂正します。捻くれていて可愛げがなくて救いがありません。過去の不誠実な男に囚われて、黒魔術などという、周りからの評判はどっと下がるのに実際の効果はゼロのハイリスクノーリターンな悪行に手を染めたどうしようもない女です」
「…そ、そこまで言う…」
「でも、私はそんな彼女が好きです」
ノエルはそう言い切った。そんな彼女を、アシュリーは少しずつ赤くなる頬で呆然と見つめる。
リヒトはノエルを見つめたあと、ゆっくり微笑んだ。
「僕も、彼女が好きです」
リヒトの返事に、ノエルは満足そうに微笑む。顔を真っ赤にしたアシュリーは慌てて、いやいやいや、と頭を振る。
「あなたのそれは薬だから、薬!」
「…さてと、私はそろそろお暇しますわね」
ノエルはそう言うと立ち上がった。そして、アシュリーとリヒトを見て微笑むと、また明日、と言って教室から出ていった。アシュリーは、頬が赤いまま、ノエルの背中を見つめる。
「(…ノエル、そんなふうに思ってくれてたんだ…)」
「今日、今からお時間ありますか?」
「え?」
アシュリーはリヒトを見た。少し固まったあと、ええもちろん、と返すと、彼の宝石のような瞳がさらに輝いた。
体操着に着替えさせられたアシュリーが、同じく体操着に着替えたリヒトに連れてこられたのは、前に見かけた学園内にある畑だった。
「…畑?」
「先生に許可をいただいたんです。今日お世話をしてもいいって」
リヒトは、水場に向かうとジョウロに水を入れ始めた。アシュリーは、もう一つジョウロを探すと、彼の隣の蛇口で水を入れ始めた。
「あっ、見学だけでいいですよ。汚れちゃいますから 」
「でも、」
「採れたての野菜を頂けるみたいなので、あなたにお裾分けがしたくて」
リヒトはアシュリーを見つめて微笑む。その優しい笑顔に、アシュリーはどんどん心が絆される。
「…でも、一度やってみたい。したことなかったから」
アシュリーがそう言うと、本当ですか?とリヒトは嬉しそうに目を細めた。そんな彼を見て、自分まで嬉しくなっていることにアシュリーは気が付いてむず痒くなる。
アシュリーは、リヒトからの教えや手伝いの中で、畑仕事を生まれて初めてした。想像以上に力が必要で疲れるけれど、それでも土を触り植物に接すると、どこか心が癒された。
「(リヒトのこのおっとりした性格も、普段からこういうことしてるからかな…)」
「もうこの辺にしましょうか」
そう言うと、リヒトは収穫した真っ赤なトマトをアシュリーに見せた。アシュリーはそれを受け取った。
「夕食のとき、食べてみてください。採れたてはまた格別に美味しいんです。ぜひアシュリーにも食べてほしくて」
リヒトは幼い子供のように無邪気に笑う。アシュリーは呆然と彼を見上げて、好きなんだね…、とつぶやく。するとリヒトが、動揺したように、ええっ!と目を丸くする。
「え?いや、畑が」
「あっ、ああそっち…。はい好きです、とっても」
リヒトは照れたように笑う。その笑顔にむず痒くなり、アシュリーは手にあるトマトにそのままかぶりついた。リヒトは、えっ、と驚きの声を漏らした。アシュリーは咀嚼しながら、うん!と目を輝かせた。
「ほんとうだ、美味しい!」
アシュリーはそう感動しながら伝えて、一口、また一口とトマトを食べた。リヒトは少し驚いたような顔をしたあと、ゆっくりうれしそうに微笑んで、ですよね、と返した。
畑仕事を終えて、アシュリーは制服へ着替えに向かった。着替え終わったころに教室へ迎えに来ると言ったリヒトを待つために、アシュリーは着替えたあと教室へ向かった。するとその途中で、剣技大会のための訓練をしていたらしいエリックと出くわした。
「…あ…」
アシュリーは声を漏らす。エリックはアシュリーを見て不機嫌そうな顔をする。
「…こんな遅くまでどうしたんだ。またおかしなことでもしていたのか」
「…違うわ」
アシュリーはエリックから目を逸らして、彼の横を通り過ぎようとした。そんなアシュリーに、おい、とエリックが声をかけた。アシュリーは立ち止まり、ゆっくり彼の方を見た。
「被害者のような顔をしているお前が我慢ならないから言う。迷惑だったんだよ、俺はロザリーを愛しているのに空気を読まないお前から好きだの結婚だの言われて」
エリックはそう冷たく言い放つ。アシュリーは無言で彼を見据える。エリックは眉間にしわを寄せると、アシュリーに指を差し、声を荒げた。
「悪人はお前だ。俺とロザリーの幸福な婚約を、お前が台無しにしたんだ。いいか、何度でも言う。もう俺たちに関わるな。ロザリーはお前を怖がっている。これ以上俺たちに何かするなら、次期国王の俺が黙っていない」
エリックはそう怒鳴りつけると、アシュリーの横を通り過ぎた。アシュリーは身体がうこかなかった。手先が痺れて、思考もうまくまとまらない。
すると、後ろから誰かが走ってくる音がした。動けないでいると、その人物はアシュリーの前に立ち、彼女の顔をのぞきこんだ。それは、息を切らしたリヒトだった。
「アシュリー…」
リヒトは心配そうに見つめてくる。その瞳が美しくて、でも紛い物で、自分には何もないと思い知らされる。アシュリーはリヒトから目をそらすと、無言で走り去った。リヒトが自分を呼び止める声が聞こえたけれど、聞こえないふりをした。
木曜日は朝から雨だった。アシュリーは始業の時間になっても起き上がれず、ずっと部屋のベッドにうずくまっていた。
昨日のエリックの剣幕が、何度もフラッシュバックした。アシュリーはそのたびに肩を震わせて、そしてなにかに怯えるように身体を丸めて、目を固く閉じた。
「(…ロザリーに出会って私が疎ましくなったのなら、さっさとそう言えばよかったのに。お互いの両親の顔色を気にして最後の最後まで言えなかったのはあなたじゃない)」
アシュリーはそんな憎しみを抱える。しかしそれと同時に、エリックのことをずっと想っていたのに、彼の心の変化に気がつけなかった自分の疎さにも嫌気が差す。
「(…あーあ…消えてなくなりたい…)」
アシュリーはぼんやりとそんなことを考える。雨の音を聞きながら、気持ちが晴れない…、と何度も繰り返した。
どれだけベッドの上にいたかわからないけれど、窓から刺した太陽の光でアシュリーは身体を起き上がらせた。窓から外を覗き込むと、雨が止んで雲間から太陽が顔を出していた。
「…虹…」
アシュリーはそう呟くと、寝間着のまま無心で寮から外に出た。そして、虹のあった方向へ走った。それでも、虹はどこにもない。
「…見間違い…」
アシュリーは立ち止まり、がっくりと項垂れた。すると、雲間から差し込んでいた太陽の光がなくなり、辺りは薄暗くなってきた。そしてすぐに、雨が降り出した。冷たい雨が、惨めなアシュリーに容赦なく振り注ぐ。
「(…晴れないよ、何にも、ずーっとこんな調子)」
アシュリーは呆然と雨が地面を打ち付けるのを眺める。泥水がどんどんたまり、水たまりができていく。
「私はどうしたらよかったの…」
アシュリーは自虐的に笑う。もっと周りをよく見ていたらよかったの?自分の気持ちばかり押し付ける性格をもっと早く改めていたらよかったの?
素直で明るい性格だった自分は、裏を返せば周りに鈍感だったのだ。
「…だとしても戻りたいよ…、こんなことになるのならいっそ、昔に…あの頃の私に…」
昔の優しいエリックの笑顔が浮かんだと思えば、昨日の冷たいエリックが浮かぶ。アシュリーは歯を食いしばり、雨に紛れて涙をこぼす。
すると、頭の上に何かが乗った。視線を上げると、向かい側に制服姿のリヒトが立っていた。彼が自分の上着をアシュリーに掛けてくれたようだった。
「…リヒト、」
「風邪をひきます。雨に打たれないところへ行きましょう」
リヒトはそう言うと、アシュリーの手を掴んだ。がしかし、アシュリーは動かない。リヒトは彼女を振り返った。
「…アシュリー、」
「…大丈夫だから、放っておいて」
アシュリーはそう言って微笑んだ。リヒトはそんな彼女を見つめる。彼の髪や服がどんどん濡れていくのを見て、アシュリーは、ほら早く行って、と声をかける。
リヒトはアシュリーの手を握る力を強くした。アシュリーは、はっとして彼を見つめる。
「…大丈夫なんて言わないでください」
リヒトは真剣な眼差しをアシュリーに向ける。アシュリーはそんな彼に胸がつまる。
「そんな嘘、僕に言わないでください」
必死に訴えるリヒトに、アシュリーは嬉しい気持ちと冷静な感情がせめぎ合う。アシュリーは少し黙ったあと、小さく頭を横に振った。
「…薬だから」
アシュリーはリヒトの目を見た。
「惑わされたら駄目だよ」
アシュリーがそう告げると、リヒトは唇を噛み締めた。そして、薬でもいい、と言った。
「薬でもいいです、だから、この効果が切れるまででいいから、僕のこの気持ちを信じてください」
リヒトはそう言うと、アシュリーの手を引いて雨の中走り出した。アシュリーは連れて行かれるがまま走った。そして、涙で滲む目で彼の記憶よりも大きな背中を見つめた。
雨宿りができそうな大きな木の下に二人でやってきた。リヒトは暗い空を見上げながら、じきに弱まりそうですね、と言った。アシュリーは、えっ、と声を漏らした。
「天気がわかるの?」
「雲の動きでなんとなくわかるんです。外れることもありますけど」
リヒトはそう言って小さく笑う。アシュリーは、そうなんだ…、と呟く。リヒトは、あー…、と言いにくそうに言葉濁したあと、あの!と意を決したように、アシュリーのほうは見ないまま声を上げた。
「僕の上着、きちんと羽織ったほうがいいです。その、すっかり雨に濡れてしまったので…」
「え?あっ…」
アシュリーは自分の服の状況を理解して、慌ててリヒトの上着をしっかり羽織った。リヒトは恥ずかしそうに濡れた頭をかいた。
アシュリーは、振り続ける雨をぼんやり見つめて、…心が晴れないんだ、と呟いた。
「…エリックに振られてからずっと。雨空みたいにどんよりしてて、暗くて…」
ごめんね急な自分語り…、とアシュリーは項垂れる。リヒトは、いいえ、と茶化さずに真剣に返した。
「…雨は、恵みの雨ともいいます。畑をしていると、雨はとても大切なものに感じますから」
リヒトはそう言ったあと、これは回答になっていませんね、と苦笑した。アシュリーは、ううん、と頭を横に振る。リヒトは空を見上げる。
「でも、いつかきっと雨はやみますから」
アシュリーはそう言ったリヒトの横顔を見上げる。リヒトは、いつか、と続ける。
「いつか雨が止んで、あなたの心が晴れた時。…エリックのことを忘れられた時、一度でいいから僕の方を、少しだけでも振り向いてくれたら嬉しいです」
リヒトはそう、どこか苦しそうに、切なそうに、しかし笑顔で言った。アシュリーは彼のそんな横顔を見ながら、素直に、うん、と頷いた。そんな彼女に、リヒトは驚いて彼女の方を見た。がしかし、すぐに彼女の今の格好を思い出して視線を空に戻した。
「…あっ」
リヒトは声を上げた。つられてアシュリーが空を見上げると、分厚い雲が動いていき、その隙間から太陽が顔を出した。降り続いていた雨が弱まり、そして直にやんだ。
「リヒトの言うとおりだね」
「はい」
リヒトは嬉しそうに微笑む。アシュリーもつられて笑う。
「…あのクッキーね、エリックに食べさせるつもりだったの」
アシュリーはそう話始めた。リヒトは、はい、と頷いた。
「それでね、自分のことを好きにさせて、それから、」
「…それから?」
「けちょんけちょんに振ってやろうと思っていたの」
アシュリーはそう、恨みを込めた顔で言い放つ。リヒトは予想外だったのか、えっ、と声を漏らした。アシュリーは握りこぶしを作ると、ふんっ、と鼻で息をした。
「一発でもやり返してやりたいって、そう思ったの。おばあさまからも背中を押されたから」
「お、おばあさまもなかなか勇ましい…」
「…でも失敗した。食べさせられなかった。エリックに、ひどいことを言われて怯んじゃったの」
アシュリーは目を伏せる。リヒトは少し黙ったあと、アシュリーは、と言った。
「まだ一発、やり返してやりたいですか?」
リヒトの言葉に、アシュリーは固まる。がしかしすぐに、うん!と頷く。そして、くすくすと笑った。
「でも、もういいの。あなたがそうやって、私に言ってくれたから」
「…アシュリー、」
「上着、明日綺麗にして返すね。迎えに来てくれて、ありがとう」
アシュリーはそうリヒトに微笑んだ。リヒトは少し黙ったあと、はい、と頷いた。
そして、よく晴れた金曜日の朝がやってきた。
借りた上着を返そうと、リヒトの教室へ向かったのだが、剣技大会があるため、教室にはもう誰もいなかった。
アシュリーは武道場へ向かい、生徒たちの波からリヒトを探した。がしかし、見つからない。彷徨っていると、席を取っておいてくれていたノエルが、もう始まるよ、とアシュリーを呼んだ。アシュリーはリヒトを探すのを一旦諦めて、ノエルの隣に座った。
今日剣技大会に出場する生徒たちが、武道場の中央に集められていた。生徒たちは声を上げて盛り上がる。どうせエリックが優勝するだろうし、つまらなさそうだから試合なんて見ずにリヒトを探そうかな、とアシュリーが考え始めた時、参加する生徒たちの中にリヒトの姿があるのに気がついた。
「えっ!!」
アシュリーは素っ頓狂な声を上げた。ノエルは、あら、とリヒトの方を見て声を漏らした。
「あの方、出場されるのね」
「わ…わ…」
開会式で長い話を続ける国王陛下の言葉が、どんどん遠くなる。アシュリーは頭が真っ白になりながら、開会式が終わるのを待った。
出場する生徒たちの中で、試合がない者たちが一旦控室へ戻るのを見届けると、アシュリーは大慌てでリヒトの元へ向かった。剣技用の兵士の格好をしたリヒトが、アシュリー!と手を振った。
「応援しに来てくれたんですか?」
「いやっ、なんで…、あなた、嫌がってたじゃない…!」
アシュリーはリヒトに詰め寄る。リヒトは苦笑いを漏らしたあと、でも、と真剣にアシュリーを見た。
「一発、やり返してやりたいんですよね?」
リヒトはそう尋ねた。アシュリーはそんなリヒトをまっすぐに見つめる。リヒトは眉を下げて自信なさそうに、僕じゃ代わりになれませんか、と苦笑した。アシュリーは、ううん、と頭を横に振る。
「けちょんけちょんにしてやって、私の代わりに!」
アシュリーはリヒトを見つめる。リヒトはアシュリーの瞳を見つめて、はい!と微笑んだ。
あれよあれよとリヒトとエリックは勝ち上がり、とうとう決勝戦となった。
武道場の中央に、リヒトとエリックが立つ。周りの生徒たちのボルテージは最高潮になる。
その時、アシュリーの周りにいた女子生徒たちが、感嘆の声を漏らすのが聞こえた。
「リヒト・オーランドって、最下級生なのに決勝戦まで来ちゃったんだ、すごいね!」
「最下級生が優勝すると、国王陛下以来の快挙らしいわよ!」
すごーい!と女子生徒たちは盛り上がる。アシュリーはその話を盗み聞きしながら、すごい…、と呟く。彼女たちの話を聞いていたらしいノエルは、小さくため息をついた。
「…血は争えない、とでも言いましょうか…」
「え?」
「あら始まるわ。エリックのすかした顔がやられる姿を1秒でも見逃せないでしょう?」
ノエルにそう言われて、アシュリーは慌てて試合の行方を見守る。リヒトとエリックは、明らかな体格差があった。背は高いとはいえまだ華奢なリヒトと、リヒトより背も横幅も大きいエリックとでも、明らかな体格差があり、見た目だけで一方的な試合になる予感がするほどだった。
がしかし現実は、リヒトがエリックに一発の反撃も許さずに勝ってしまったのだ。
決勝戦で、最下級生と最上級生の試合が観客の想像とは反対の結果になったことに、しかもここまであっさり決まってしまったことに、観衆は一瞬理解に及んでいなかった。がしかし、試合の結果を理解すると、大きな歓声が起きた。国王は椅子から立ち上がって、勝者へ大きな拍手を送った。エリックは自分が負けたことに脳が追いついていないのか、尻もちをついたまましばらくへたり込んでいた。
リヒトは、観客席にいるアシュリーを見つけると、優勝した後初めて笑顔を見せた。その笑顔に、どうしようもなくアシュリーは彼に触れたくなった。アシュリーは彼に大きく手を振って、そして笑顔を返した。
試合後から表彰式までの短い間に、アシュリーは選手控室に向かって、リヒトに会いに行った。リヒトはアシュリーに気がつくと、彼女の元へ駆け寄った。アシュリーも彼の元へ駆け寄り、そして、思いのままリヒトに勢いよく抱きついた。
「わ、わっ…!」
リヒトは頬を赤くして、動揺した様子を見せた。緊張からか震える手で、彼はアシュリーの背中に恐る恐る手を添えた。その不器用さが、つたなさが、心から愛しいとアシュリーは思った。真っ赤な頬と自分の頬がほんの少しだけ触れた時、アシュリーはたまらなく彼にキスをしたくなった。そんな自分が余りにも不誠実で、そして不純だったから、アシュリーはすぐに彼から体を離した。そして、先程の不純な欲求などちっともなかったかのように、ありがとう、と笑って彼を見上げた。リヒトは瞳を揺らした後、ゆっくり目を細めた。
「…すっきり、しましたか?」
「それはもう!本当に本当に、ありかとう」
アシュリーはリヒトの瞳を見つめてお礼を言う。リヒトは優しく口元を緩めた。そんな彼を見つめて、アシュリーは少し黙ったあと、ゆっくり口を開いた。
「…明日、お祖母様に、あなたをもとに戻す方法を聞いてくるから」
「…」
アシュリーはリヒトの手を握った。そして、一度目を伏せたあと、彼を見上げた。
「こんなことに巻き込んでごめんなさい。でも、…あなたとこうして出会えて良かった。…あなたにとっては、良くなかっただろうけど…」
アシュリーは苦笑いを漏らす。柄でもない大きな大会に出て優勝させられるなんて、アシュリーに惚れ薬を飲まされなければ彼にとってはありえないことだっただろう。
リヒトは閉口してアシュリーを見つめたあと、目を伏せて、それから真っすぐに彼女を見つめた。
「…実は僕たち、昔に一度だけ会ったことがあるんです」
リヒトは、そんなことを話始めた。アシュリーは予想外のことに、え?と言葉を漏らした。
「…覚えて、いませんか?」
リヒトは不安そうにアシュリーを見つめる。アシュリーは混乱しながらなんとか記憶を掘り起こそうとする。
「(…昔、リヒトと会ったことがある?…覚えていない…)」
「…僕、」
「リヒト・オーランド、表彰式だ。陛下から直々に表彰されるんだ、気合を入れていくんだぞ」
教師がそうリヒトに告げる。リヒトは、は、はい…、と返事をすると、まだアシュリーに何か言いたげな顔をしていたが、諦めて教師の後について歩き出した。
その後、アシュリーは放課後すぐに馬車に乗り込んで実家への帰路を急いだ。
馬車のなかで、アシュリーは記憶を掘り起こす。あの綺麗な瞳、髪、顔…。
ーー僕のなまえは、…
記憶の中にある頼りない声が頭の中に響く。アシュリーは目を閉じて、その記憶の糸をつかもうとする。声を発したのは美しい少女で、8歳だった自分よりもさらに幼いように見えた。彼女は綺麗なドレスを着ているが、それはアシュリーのものだ。あまり見かけないピンクゴールドの髪、青い瞳、そして、一度見たら忘れられないほど整った顔をした少女。
「(…そうだ、別荘。別荘におばあさまと避暑に来ていたとき、見知らぬ女の子が迷い込んできて…)」
アシュリーは腕を組み、さらに考える。
あの日、迷い込んだ少女にアシュリーは自分のドレスを着せて、そしておままごとの相手をさせた。少女は戸惑っていたけれど、次第にアシュリーと共に遊ぶようになった。
「あなた、お父様とお母様は?」
アシュリーは少女に尋ねる。少女はか細い声で、おうちにいる…と返した。アシュリーは、おうち?と首を傾げた。
「じゃああなたのおうちはどこ?」
「……ここからずっと遠く」
「どうやってあなたはここへきたの?」
「…知らないおじさんに連れてこられたの…」
少女は怯えながらそう返す。少女の言葉に、誘拐かしら…、とメイドたちが不安そうな顔をする。
アシュリーは、不穏な空気と、怯えた少女に、自分が何とかしなくては、と意気込む。アシュリーは、大丈夫よ、と少女を抱きしめた。
「お父様とお母様、さぞかし心配しているでしょう。私が必ずあなたをおうちに帰して差し上げるわ」
「…心配、してないよ…」
「え?」
「お父様とお母様が、僕を知らないおじさんに渡したんだ…。僕が泣き虫だから、弱虫だから、だからいらなくて、捨てられちゃったんだ…」
ううう…、と少女は泣き崩れる。しかしすぐに、こんな僕だから捨てられたのに…変わらなくちゃなのに…、としゃくりあげながら涙をこらえようと我慢し始めた。
アシュリーはそんな少女を見つめて、それから両手で彼女の両頬を包んだ。
「いい?3つ数えるから落ち着くのよ?」
「え?」
「1.2.3…」
アシュリーのカウントを聞きながら、少女は少しずつ泣き止む。目に涙をためながらこちらを見つめる少女に、アシュリーは優しく微笑み返す。
「大丈夫よ、そのままでいい。あなたはそのままがいいのよ。変われなかったからお父様とお母様に捨てられた?なら私のところへそのままのあなたでおいでなさい。泣き虫でも弱虫でもいいから」
アシュリーはそう言って、少女の手を握った。少女は大きな瞳に涙をためて、しゃくりあげながらアシュリーを見上げた。
「…アシュリー、…ありがとう。そんなこと言ってくれたの、あなたがはじめて…」
「あら嬉しい」
アシュリーは微笑む。少女は涙を拭いながら、アシュリーの方をぼんやりと見つめていた。
しばらく2人で夢中になって遊んでいたら、彼女の迎えが来た。大仰なほど執事と兵士がこの家にやってきた。祖母は、彼らを引き連れた執事と何やら子供にはわからない話をして、腰を抜かしそうなほど驚いていた。
「…ですので、誘拐ではありません。時折陛下とお会いする機会を作っておるのです。それを何か勘違いしてパニックになり、逃げ出されてしまい、ここへ行き着いたようなのです」
「はあ…、そんなことが…」
「名門ローズ家ならば、このことはもちろん内密にとお約束できますね」
「もちろん。墓場まで持っていきます」
祖母は、そんな話を少女を迎えに来たという執事としていた。話を終えると、執事は人の良さそうな顔で、では参りましょう、と少女に話しかけた。
少女は不安そうにアシュリーを見た。アシュリーも不安そうに祖母を見上げたが、祖母はいつもの優しい顔で、大丈夫よ、と言った。だからアシュリーも少女に、大丈夫よ、と伝えた。
「私たちまた会えるわよ、きっとね」
アシュリーは少女の手を握った。少女はおずおずとアシュリーを見上げると、あのね、ともぞもぞと口を開いた。
「アシュリー、大きくなったら僕と結婚してくれる?」
少女の言葉に、彼女を迎えに来た執事や兵士たちが一様に、えっ!と動揺した。アシュリーは真剣な顔で、駄目よ、と頭を横に振った。
「私にはエリックがいるもの。それは無理よ」
「うっ、じゃ、じゃあ、エリック…?って人とうまくいかなかったら僕と結婚してくれるよね、…ね?」
「それはあり得ないわ。私とエリックは結婚するって決まっているんだもの」
ふふ、とアシュリーは得意げに微笑む。少女はショックからか硬直する。アシュリーは、そんな彼女の両頬を、両手で包んだ。
「大丈夫よ、私たちの結婚式には招待して差し上げるから」
「け、結婚式…」
「だから元気でね。もちろん結婚式より前にも必ずまた会いましょう、
リヒト」
アシュリーは、馬車の揺れとともにはっと目を見開いた。そして、ぼんやりと窓の外を見た。
「…本当に、会っていた…私たち…」
考え込むアシュリーに、馬車の運転手が、もうすぐ着きますよ、と声をかけた。
実家に到着して、アシュリーはすぐに祖母のもとへ向かった。祖母は中庭で薔薇の手入れをしていた。
「…おばあさま」
アシュリーが声をかけると、祖母は笑顔で振り返った。
「あらあらまあまあ、早かったわねえ。待ってたのよ?」
祖母はそう言ってアシュリーを抱きしめた。アシュリーな祖母を抱きしめかえしたあと、あのね、と口を開いた。
「あの、惚れ薬入りのクッキーですけれど、」
「あああれ!どう、元気が出た?たまにはああいう冗談も必要でしょう?」
ふふ、と祖母は笑う。そんな彼女を、アシュリーは見上げる。祖母はアシュリーを見て、あら、と表情を曇らせる。
「…もしかして、やってはいけない冗談だったかしら?」
祖母は不安そうにアシュリーの顔を覗き込む。アシュリーは、いいえ、と頭を振る。アシュリーの瞳にはどんどん涙が溜まる。
「…元気が出ました、とっても」
そう言って微笑んだ時、アシュリーの目から涙がこぼれた。そんなアシュリーを見つめて、祖母は抱きしめた。
「…ごめんなさいね、ばあばが余計なことしちゃったから」
「違うんです、本当に違うんです。…ただ、」
「…ただ?」
「もう、昔の私には戻れないことが、絶対に戻れないことが、悲しくて…」
アシュリーは肩を震わせる。記憶にある、リヒトが求婚したあの日の自分が眩しい。あの頃の自分には決して戻れない、こんなにも捻くれてしまった今となっては。
「(リヒトはきっと、あの日の私を探していてくれたんだ…。もうそんなの存在しないのに…)」
そんな残酷な事実にようやくアシュリーは気がつく。あの純粋で素直な彼がどんな思いでこの一週間過ごしていたか、考えるだけで胸が締め付けられる。過去とは変わり果てた私を見てもなお、もしかしたらもとに戻るかもしれないと、かすかな希望を抱いてくれていたのだろうか。それでも今の自分には、彼に差し出せるものなんて何もない。
祖母に抱きしめられながら、アシュリーは声を押し殺して泣いた。
そして月曜日、アシュリーは身支度を終えると教室に向かった。教室は、剣技大会でのリヒトの話で持ちきりだった。国王陛下が表彰式でリヒトのことをあんなに喜んで褒めていらしたのだから、お家は大きくなくても才能を見込まれて、将来重用されるんじゃない?と色めき立っている。
一方ロザリーはピリピリしていた。そんな彼女に気を使うように、がしかしどこか内心馬鹿にしたように、エリックも頑張ってたわよね、と周りはフォローした。
ロザリーは、アシュリーに気がつくと、あらあ、と願いを込めた表情で話しかけてきた。
「あなたの恋人、優勝おめでとう。最下級生が優勝だなんて本当にすごいわ。陛下なんて、自分の子どもにするみたいに喜んでいらしたし、将来有望ね。汚い手を使ってまで彼を手に入れてよかったわねえ、鼻がさぞかし高いでしょうねえ」
ロザリーがそう嫌味を言った。周りも、ほんとよね、と忌々しそうにアシュリーに言う。
アシュリーは、どこかすっきりとした表情で、彼女たちを見渡した。アシュリーの清々しい様子に、彼女たちは少しひるむ。
「…ええそうね。だから今から、彼にかけた黒魔術を解いてくるの」
「…え?」
「それじゃあ私、リヒトのところへ行くから」
アシュリーはそう言うと、荷物を置いて教室を出た。アシュリーのいなくなった教室は、しばらく呆然としていた。
アシュリーはリヒトの教室に向かった。リヒトの教室には、たくさんの生徒が押し寄せていた。リヒトはアシュリーに気がつくと、気まずそうに目を伏せたあと、笑顔を作って彼女のそばへ来た。
「…アシュリー、ごめんなさい、今騒がしくって。僕の方から君のところへ行こうと思ったんだけど、向かえなくて…」
「いいえ、大丈夫よ」
「あっ、魔女!またリヒトに何かしに来たのね!」
以前の女子生徒たちがアシュリーに敵意を向ける。今日はノエル様もいらっしゃらないし、徹底的に戦うわ!と彼女たちはアシュリーに吠える。
リヒトは動揺したあと、アシュリーの方を見た。
「…こんな騒ぎだから、例の件は、また今度ということに…」
「ええそうよ、リヒトには黒魔術の件で会いに来たの」
アシュリーの言葉に、周りが騒然とする。リヒトは眉をひそめて不安そうにアシュリーを見る。アシュリーはリヒトの目を見て微笑むと、彼の手首を掴んだ。
「ようやく彼にかけた術を解くの。方法がわかったから」
アシュリーはそう言って、リヒトを連れて教室から出た。
「さてと、まずは借りていた制服を返すわ。本当にありがとう」
人気のない中庭で、アシュリーはリヒトに上着を返した。リヒトはそれを両手で受け取りながら、何かを言いたげな、不安そうな顔を浮かべた。
「さてと、ではあなたの惚れ薬の効果をなくします」
アシュリーは、リヒトの両頬を両手でつつみ、3秒数えたら解けるからね、と伝えた。リヒトは目を泳がせ、何度か唇を噛み、それから意を決したように彼女を見つめた。
「あの僕、本当は、」
「…もしもあなたが、過去の私のことを知ってて、その私を探してくていたのだとしたら、…その私はもう存在しない。私はあの日から色々あって、初恋を拗らせすぎて、捻くれて、…魔女になった。きっともう元には戻れない」
アシュリーの言葉に、リヒトは唇を噛みしめる。アシュリーはそれに、と意地悪く微笑む。
「そもそもよ?そもそも、あなたと私じゃあ家格が合わなさすぎるもの。もっと大きな家の嫡男とかなら考えてあげてもよかったけれどね」
「…」
「でも、また私に会いに来てくれてありがとう」
アシュリーは、リヒトの目を見て微笑んだ。リヒトは息をとめて、目を丸くする。アシュリーはゆっくりと3秒数えて、彼から手を離した。そして、にこりと笑った。どうか過去のことは忘れてほしいと願う。真面目な彼が過去に囚われず、まっさらな未来の方を向いて歩いてくれるように。
「はい、解けた!長い間ご迷惑をおかけしました。…でも、勝手に食べたのはあなただからね。やっぱりあなたにも当然非があるわ!」
アシュリーはそうまくしたてたあと、ゆっくり目を細めた。
「それじゃあ、元気でね」
アシュリーはそう言って、リヒトに背中を向けて歩き出した。リヒトはただ黙ってその背中を見つめていた。




