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前編

「すまないアシュリー、俺はロザリーの事を愛してしまったんだ」


5歳の時に出会ってから約13年。ずっと恋い焦がれていたエリックから、アシュリーはそう告げられた。

由緒正しき名家の出であるアシュリーの、国王の弟を父に持つエリックへの恋心を、お互いの両親は歓迎していた。卒業したら2人を結婚させようという風に話は両家間での決定事項だった。

卒業まであと2カ月となり、結婚できる日までもうすぐだと浮き足立っていたアシュリーに、エリックはあまりにも残酷な本音を吐露したのだ。


「…ロザリー?」


唐突で衝撃的な告白に、アシュリーは、エリックの口から出た自分の友人の名前を繰り返すことしかできなかった。

ロザリーは、カー侯爵家の令嬢で、アシュリーとは学園に入学したときに知り合った。同い年だった彼女とアシュリーはすぐに仲良くなった。エリックを交えた3人で遊ぶ機会は多かった。


「…いつから?」


震える唇を動かして、アシュリーはそう尋ねた。エリックは言いにくそうに目を伏せたあと、彼女に出会った日から、と返した。


「(…私の13年の想いが、たった一瞬で負けた…)」


アシュリーは気が遠くなる。時間が全てではない。そう分かってはいても、悔しくやるせなく、そして虚しい思いが頭の中を駆け巡った。吐き気すら催すような嫌悪感に、自分の身体の自制が利かない感覚を抱く。


そして、あれよあれよという間に、アシュリーとエリックの結婚の話はなくなった。その代わりに、エリックはロザリーは卒業後に結婚することとなった。







そんな衝撃的な出来事があったのが一ヶ月前。卒業式を一ヶ月後に控えたある日の教室で、アシュリーは黙々とノートに文字を書き込んでいた。髪は乱れ、形相は酷く暗く、そして以前よりも少し頬がコケた彼女は、うつろな目でペンを動かしていく。

そんな彼女の手を誰かが止めた。アシュリーが顔を上げると、そこにはこの王国の姫君であり、古くからの幼馴染のノエルがいた。


「…ノエル」

「また黒魔術?効きもしないんだからおやめなさいな」


ノエルはため息をつくと、アシュリーの手からノートを取り上げた。アシュリーは恨めしそうにノエルを見上げた。


「ねえ返してよ。術の途中なの」

「今度は何の呪い?」

「エリックが皆の前で派手に転ぶ呪いよ」

「…ねえ聞くけど、未だかつて呪術の効果があったことあるの?」

「…」

「…」


ノエルはアシュリーの前の席に座り、じっと彼女を見つめた。ノエルの綺麗な金髪と青い瞳が窓から差し込む光に当たってきらきらと輝く。美しく気高い彼女を、醜く地に落ちたアシュリーは目を虚ろにして見据える。ノエルは小さく息をついた。


「…恋は病だなんていうけれど、あなたの病状は悪化の一途ね。ねえあなた、自分が周りからなんて言われてるか知ってるの?」

「ええもちろん。゛魔女゛でしょう?」


アシュリーは自虐的に笑う。

先月、エリックから衝撃的な告白をされたが、その話はまたたく間に学園中に広まった。もともとエリックは人気があった上に、姫はいても王子のいない今の王室の状況から、国王の甥っ子であるエリックが次期国王になるかもしれないと噂されていたこともあり、彼と結婚する予定のアシュリーは妬まれていた。

特別美人なわけでも才能があるわけでもなく、ただ昔からの知り合いで、かつ彼に見合う家柄だったという理由で彼と結婚できるアシュリーのことを、周りは気に食わなかったのだろう。

エリックに振られたアシュリーに対して、周囲は水に落ちた犬を徹底的に叩くように扱った。アシュリーの噂は連日話のネタにされ、そして、笑われまくった。そして周りは、美貌を持つロザリーに対しては文句を言わず、まるでアシュリーへの当てつけのように、二人はお似合いだわと褒めたたえた。


一方アシュリーは、長年の恋心(かなう予定だったもの)を断られたことで、日に日におかしくなっていった。もともと明るくて素直な性格だったのがどんどん捻くれて、拗れた。エリックとロザリーの不幸を願うようになり、習ったこともない黒魔術に手を染めて、2人を呪うようになった。


周りも最初は哀れなアシュリーを馬鹿にして笑っていたが、次第におかしくなっていく彼女に対してどんどん笑えなくなり、とうとう、魔女という異名をつけて敬遠するようになった。


「いい加減、もう過去には固執せず、未来を見てその病気を治しましょう。今からカフェテリアでお茶でもする?」


ノエルは、奪ったノートを閉じて、アシュリーの机に戻した。アシュリーは目を伏せて小さく唇を噛む。


「…ノエル、あなたも私から離れたほうがいいわ。悪く言われてしまう」

「…悪く言われている自覚と後ろめたさがあるのなら、行動を今すぐに改めなさい。まだ戻れるのだから」

「改められない。改めたくない。戻りたくもないし、戻れるとも思ってない。このまま幸せな2人を見過ごすことなんかできない。私はもうこんなにも拗れてしまったんだもの」


そう吐いた唇が震える。悔しさで喉が焼け付くように痛い。ノエルは気の毒なものを見るようにアシュリーの方を見つめる。すると、あら、という声が聞こえた。声の方を見ると、ロザリーがいた。


「ノエル様にアシュリー。まだ教室にいらしたの?」


ロザリーはそう言いながら自分の机の中を探った。そしてノートを一冊取り出すと、宿題があるのに忘れちゃって、と言ってこちらに向かって微笑んだ。その時、ロザリーはアシュリーの手元にあるノートを見て眉をひそめた。


「アシュリー、また私とエリックに変な術をかけてるの?もうやめてよ」


ロザリーは呆れたように言って、アシュリーのそばに来た。そして、ノートを見下ろすと薄気味悪そうな顔を浮かべた。


「効かないとわかっていても気味が悪いのよ。勘弁して」


はあ、とロザリーはため息をつく。ロザリーは赤紫の髪を揺らして、不服そうにノエルを見る。


「ノエル様もなんとか言ってください。いつまでもぐちぐちしてないで、って」


小さく頬を膨らますロザリー。アシュリーは彼女の方を見られずに目を伏せる。ノエルは小さく微笑んでロザリーを見上げた、


「…確かに、アシュリーはとっても馬鹿なことをしていると思うわ。でも、彼女の気持ちも少しはわからない?」


ノエルはそう尋ねる。ロザリーは、ええ?と言ってこてんと首をかしげる。そんな年不相応で無邪気な振る舞いに、アシュリーはあの日を思い出して胸がえぐられる。




エリックに衝撃的な告白をされた後、ロザリーがアシュリーに会いに来た。

彼女はもちろんアシュリーの積年の思いについては知っていたし、アドバイスや励ましをくれることだってあった。2人の結婚式には私も呼んでね、とまで言っていた。しかもつい最近まで。


アシュリーは、ロザリーから謝られるものだと思っていた。エリックがロザリーを好きになったのだから、彼女に瑕疵はない。それはわかっていても、自分の気持ちを知っていた彼女がエリックのプロポーズを受けたことが信じられなかった。だとしても、彼女が謝ってきたら許そうと思っていた。未婚の誰かが未婚の誰かを好きになることは、当然のことながら罪ではないのだから。

しかし、やってきたロザリーはけろりとした顔をしていた。


ーー仕方がないわよね、エリックが私を好きだというのだから。それに彼、次期国王になるんでしょう?断る理由がないわ。でも、アシュリーはエリックが好きだったのかしら?なんだか残念だったわね。


そう特に悪びれもせず彼女は言うと、まあでも今後とも仲良くしましょうね、と笑顔で付け足した。

後から聞くと、エリックからロザリーに、アシュリーを抜いた2人で会おうと秘密で誘っていたし、ロザリーからエリックを誘うこともあったらしい。アシュリーの知らないところで、2人はどんどん親密になっていたのだ。




「なぜ?エリックが私を好きになったのよ?それはしょうがないことでしょう?私にどうこうできる問題じゃないわ」


エリックは大きな家の嫡男だから、家族は喜んじゃって引くに引けないし、とロザリーは髪を耳にかける。ノエルは笑顔のままロザリーを見上げる。

アシュリーは震える手を握りしめる。黙って立ち上がると、アシュリーは荷物も持たずに教室を飛び出した。ロザリーはその背中を眺めて、あーあ、とため息をつく。


「…なんか惨め…」


そんなロザリーの声を聞かないようにしながら、アシュリーは廊下を走り去った。



アシュリーは息を切らして廊下を走る。初夏の夕暮れは蒸し暑くて、不快指数が高い。額に汗をかき、癖のある焦げ茶色の髪を揺らし、アシュリーはとにかくここじゃない何処かへ行きたくて走る。


すると、前から歩いてきた教師に、廊下を走っていたことを咎められた。何やら説教を始めた教師だが、ただならぬ様子のアシュリーに気がつくとすぐに閉口し、…以後気をつけるように、と念を押すと彼女を解放した。

アシュリーはそのまま立ち止まり、廊下の窓から外を眺めた。窓の外は雨が降っている。


「(…気持ちが晴れない…)」


エリックに振られてからずっと、気持ちが晴れない。心の全体がもやもやしていて、息苦しい。理由もなく頭が痛くて、感情が乏しくなって、笑顔が消えた。昔の明るくて素直だった自分はどこへ行ってしまったのか。


ーーエリック、大人になったら私と結婚してください!


笑顔の少女が、金髪の少年に抱きつく。その少年は優しく微笑むと、少女の頭を撫でて、うん、と頷く。そんな少年を見上げて、少女は頬を赤くすると、さらに笑顔になって、彼の胸に頬擦りをする。



「(…眩しくて、痛い。あの日の無邪気さが、無知さが、苦しい。今となっては)」


雨の音が廊下に響き渡る。うっとうしい雑音が脳の中を支配して、アシュリーは思考することができなくなる。










アシュリーの荒んだ様子を知っていた両親は、彼女を心配して、週末の短い休みに実家へ帰るよう勧めた。


「…まあもう、仕方がないじゃない」


家のリビングにて、ソファーに腰掛けた母がアシュリーの髪を撫でて言った。娘の髪が整っていないことに気がつくと、母は使用人に櫛を持ってくるように伝えた。そして、母は櫛で娘の髪をせっせと整え始めた。


「辛いだろうけれど、前を向きましょう。あなたなら必ず新しい、良い出会いがある。あなたは明るくて素直で、とってもいい子なんだから」


母は、遠い記憶の幼い娘を思い出しながらやさしく諭す。アシュリーは母に返事ができないまま黙り込む。そんな娘に、父は軽く咳払いをした。


「…そうだ、縁談を探してこよう。まだ卒業前だけれど、こういうのは早いほうが…」

「やめてください」


アシュリーはすぐにそう言った。両親は彼女の覇気に固まった。


「…私、もう何も考えたくない…」


アシュリーはそう言うと、自分の部屋に逃げ込んだ。






部屋のベッドに伏して、アシュリーは呆然としていた。

すると、扉がノックされた。そして、祖母が部屋に入ってきた。


「…おばあさま…」


アシュリーはベッドから起き上がった。こちらへ近づきながら、祖母は、お座りなさいな、と言った。アシュリーはベッドに座った。すると祖母はアシュリーの隣に座った。祖母は冷たくてしわの寄った手でアシュリーの手をにぎった。


「よく帰ってきてくれたわね。とっても会いたかったわ」


祖母は優しく話しかける。アシュリーは喉の奥がきゅっと詰まるのを感じる。


「…昔はよく、2人で街までお出かけしたわねえ。歌劇も見に行った、お買い物も行った、ケーキも食べに行った」

「…」

「覚えている?都会のカフェで、私の昔のボーイフレンドに会ったの。向こうも孫を連れていたわ。4人で仲良くお茶なんかしちゃって。お祖父様には内緒よって。あなた、ちゃんと秘密にしていてくれたわね」


祖母はアシュリーの頬を撫でた。アシュリーは無言で頷いた。


「それから、避暑に別荘へ行ったわね。湖で水遊びをして…、ああそうだ、女の子が迷い込んだこともあったわね。私は腰を抜かしてたけど、あなたいつのまにかその子とおままごとしてた」

「…」

「卒業したら、また2人でお買い物も、別荘で遊んだりもできる。楽しみだわ」

「…私なんかとで?」


アシュリーは震える唇を動かす。祖母は優しい瞳でアシュリーを見つめる。


「私なんかとで、本当に、楽しいかしら…」

「楽しいに決まってる。だから帰ってきて。首を長くしてばあば、あなたを待っているから」


祖母はそう言ってアシュリーの両頬を両手で包む。アシュリーは、胸が苦しくて、息もうまくできなくなる。そんな彼女に、落ち着いて、3秒数えてあげるから、と祖母は優しく声をかける。祖母の優しい声を聞きながら、アシュリーは呼吸を繰り返す。涙が止まらなかったり、悲しかったり苦しかったりすると、気持ちを落ち着かせようと、祖母はアシュリーが小さい頃からよくこうしてくれたのだ。


しばらくの間の後、そうだ、と言うと、祖母はアシュリーから離れて、持っていた鞄から小さな紙袋を取り出した。


「これを、あなたに」


祖母はそう言ってアシュリーの手のひらに紙袋を載せた。アシュリーは祖母と紙袋を交互に見た。


「…これは?」

「我が家に代々伝わる惚れ薬入りのクッキーよ」

「惚れ…」


祖母はアシュリーの口元に立てた人差し指を当てた。


「これは内緒よ。パパにもママにも。…千年に一度、うちの庭に赤い花が咲くの。それをクッキーに混ぜ込むと、それを食べた相手はたちまちあなたを好きになる。…これを、エリックに食べさせてやりなさい」

「…」

「エリックが本当に好きだったから、だから苦しいんでしょう?憎いんでしょう?これを使って惚れさせて、そしてこっぴどく振ってやるのよ。あの薄情な男に、一発くらいやりかえしておやりなさい。あなたにはその権利がある」


祖母はそう言って真っすぐにアシュリーを見つめた。アシュリーは静かに生唾を飲み込んだ。
















「(…持ってきてしまった…)」


休み明けの月曜日の放課後、アシュリーは誰もいない廊下を歩きながら、手に持った紙袋を見つめる。外は雨が降っていて、雨音が響き渡っている。


「…そもそも、効果なんてあるの?」


アシュリーは、訝しげに紙袋を見つめる。


「(…食べさせてみても損はないか…。私のことを好きにさせて、あの男をけちょんけちょんに振ってやれば、気持ちも少しは晴れるかもしれないし…)」


そんなことを考えていた時、見覚えのある男性が、廊下の角を曲がるのが見えた。アシュリーはその背中を追いかけた。背の高い、綺麗な金髪をしたエリックを、アシュリーは少し遠くから見つめる。

あの背中を、アシュリーはいつも追いかけていた。そして、好きだとか、結婚してだとかを、何度も伝えていた。それを彼は笑顔で受け取ってくれたし、俺もだよと返してくれていた。


「(…どうして心変わりしてしまったの…)」


もう考えても仕方がないことを、何度も考えてしまう自分が嫌いだと思う。アシュリーは手に持った紙袋にゆるく力を込める。

すると、何かに気がついたらしいエリックがこちらを振り向いた。そして、アシュリーの姿を確認すると眉をひそめた。


「…アシュリー」


エリックは迷惑そうに言うと、ゆっくりアシュリーの方へ歩いてきた。彼の様子に、そもそもどうやってクッキーを食べさせるのか、とそんな今さらすぎる問題を抱える。


「俺に何か」


エリックは冷たく言う。ここ最近のアシュリーの様子に、彼はずいぶん辟易しているようだった。自分に酷いことしておいて、まるで自分が被害者かのような顔をする彼に腹が立ち、アシュリーは目を伏せた。決心したアシュリーは静かに、クッキーを焼いたの、と言った。エリックは、クッキー?と眉をひそめた。


「クッキー…って、変なものでも入ってそうだな…」

「…そんなことはないわ」

「ふうん…。ということは、ようやく改心したのか?」


エリックはそう尋ねた。アシュリーは、改心?と呟く。エリックは、そうだ、と返す。


「もういい加減、俺への執着と、ロザリーへの僻みをやめたらどうだ?」


アシュリーの目から光が消える。エリックは、アシュリーの手にある紙袋を見て、これか?と尋ねる。


「受け取ってやるよ、君の誠意を。だからもう、金輪際俺たちに悪辣なことをしないでくれ」


エリックはそう言ってアシュリーの手から紙袋を奪った。アシュリーは呆然とエリックを見上げる。


「もちろん、君には悪かったと思ってるよ。でも、いつまでも粘着してくるのは異常だ」


エリックの言葉に、アシュリーの手先が震える。アシュリーは唇をかみしめる。


「…許さなくちゃ駄目?」

「え?」

「私はあなたたちからこんな仕打ちを受けてこんなに苦しんでいるのに、それでも許さなくちゃ悪人になるの?本当の悪人はどっち?!」


アシュリーは、エリックの手から紙袋を奪い返し、そして彼の前から走り去った。
















灰色の空がのぞく窓の前で、アシュリーは立ち止まる。そして、しゃがみ込む。息を切らして、肩を揺らして、アシュリーは涙を飲み込む。


「(…私は悪くない…、悪いのは2人…。なのにどうして…)」


アシュリーは手にある紙袋を見つめる。走って逃げたときにくしゃくしゃになっている。アシュリーは、祖母の笑顔を思い出してまた涙がこみ上げる。

雨の音がうるさいくらいに響いて、耳をふさぎたくなる。アシュリーは眉をひそめて、両ひざに顔を埋め、固く目を閉じる。


「大丈夫、ですか?」


上の方から声がして、アシュリーは顔を上げた。そこには、中腰になってこちらを心配そうに見下ろす見知らぬ男子生徒がいた。制服のリボンの色からして、自分より2学年下の最下級生だった。珍しいピンクゴールド色の髪に、青色の瞳の、見たことがないほど美しい少年だった。


「(…綺麗な男の子だな…)」

「気分が悪いなら、医務室まで連れていきましょうか?」

「あ…、大丈夫…」


アシュリーはゆっくり立ち上がった。そして目を伏せたまま、ご心配をおかけしました、と軽く頭を下げた。


「…それ」


男子生徒はアシュリーの手にある紙袋を指さした。アシュリーは、ああ…、と呟くと、今一度紙袋を見た。惨めにもぐしゃぐしゃで、また胸が痛くなる。アシュリーは袋を開けて、中身を確認する。


「(…割れちゃったのは数枚あるけど、思ったより被害はなかった…)」


そのことに、アシュリーは少しだけほっとする。男子生徒はちらりと中身をのぞき込んで、クッキーですか、と呟く。


「…実は僕、たまたま通りかかって、あなたと彼のやりとりを少し見ていたんです」

「え?」

「それ、さっきの人に渡したのに、食べるのを断られたんですよね」


男子生徒の言葉に、アシュリーは先程のエリックとのやりとりを思い出して胸が痛む。男子生徒は少しだけ眉を下げて、柔らかく笑った。その優しい笑顔に、アシュリーは一瞬心が緩む。


「僕、甘いものが大好きなんです。…あの人の代わりにはなれませんが、ひとつ頂けますか?」

「え?あっ、これは…」


アシュリーは慌てて袋を閉じようとしたけれど、男子生徒はその前に中身を1枚取り出していた。


「あっ、あっ!!」

「頂きます」


アシュリーが、あっ、と、思った瞬間、男子生徒はクッキーを口に入れていた。男子生徒はもぐもぐと咀嚼すると、うん甘い、と呟く。アシュリーは頭が真っ白になりながら、大声をあげた。


「は、は、は、吐いてーー!!!」

「えっ?うっ!!!」


アシュリーは大慌てで男子生徒の背中を殴った。男子生徒はその勢いに、げほげほとむせ込む。


「い、痛いです…」

「の、飲んじゃった?」

「は、はい。…駄目でしたか?」


男子生徒は不安そうな顔をする。アシュリーは、動揺から目が飛び出そうなほどになる。


「だ…駄目だよ…駄目だよ…!!」

「ご、ごめんなさい!…やっぱり僕では代わりになれませんよね…」

「そうじゃなくて、惚れ薬が入ってるの!」

「ほれ…」


男子生徒はきょとんとした顔をする。そして、暫く固まったあと、えっ!!と声を漏らした。


「惚れ薬…って、惚れ薬…です、か?」

「そう!私のことが好きになっちゃうの!」


男子生徒に近づき、大慌てでそう説明するものの、そもそもこのクッキーの効果が不明瞭ではあることをアシュリーは思い出す。


「(…効果がない場合もある…か。おばあさまの冗談かもしれないし…。昔からお茶目な所あるから…)」

「…」


考え込むアシュリーは、男子生徒の視線に気がつく。男子生徒は、ぽやっとした顔で、アシュリーの方を見つめている。アシュリーは、片手を彼の目の前で振った。男子生徒は、はっとして、慌てたように目を泳がせた。彼の白い頬がどんどん朱色に染まっていく。


「(…ん?)」

「惚れ薬…、そ、そうですか、これが…」


男子生徒はじっとアシュリーを見つめたままどんどん顔を赤くする。彼の異変に、アシュリーは、はっと息を呑む。


「(も、もしかして…)」


アシュリーは嫌な予感が走り、ゆっくり後ずさる。男子生徒が、あっ、と声を漏らしたのを聞いた時、アシュリーは咄嗟に逃走した。
















その日の夜、アシュリーは一睡もできなかった。

眠れないまま、無情にも月曜日の夜は火曜日の朝になってしまった。朝食を食べる気にもなれないアシュリーは、適当な身支度だけして女子寮から教室に向かった。


「(…彼のただの勘違いかもしれない…。素直そうな男の子だったし、私の言ったことを本気にして、そんな気になっただけ、の可能性…。第一、惚れ薬なんてそんなもの存在するわけがないもの。そうよ、そうにきまってる)」


悶々と正常性バイアスに縋りながら、アシュリーは廊下を歩く。すると、教室の前がいつもより騒がしいことに気がつく。よく見ると、教室の扉の前にちょこんと昨日の男子生徒が立っていた。


「(あ…あっ!)」

「あっ…」


男子生徒はアシュリーを見つけると目を丸くして、頬を少し赤く染めた。男子生徒の周りを囲んでいた同じクラスの女子生徒たちが、怪訝そうにアシュリーの方を見た。


「…彼、あなたに用なんだって」

「ずっと待っていらしたのよ」


女子生徒たちがそうアシュリーに説明する。アシュリーは、そ、そう…、と生返事をしながら、男子生徒の手首をつかんでその場から逃げ去った。






人気のない廊下まで逃げてきてから、アシュリーは男子生徒に勢いよく頭を下げた。


「ほんっとうにごめんなさい!ああ、私はアシュリー。アシュリー・ローズ。それでね本題に戻るわ、ごめんなさい。こんなことになるとは思ってなくて…。あの、次の土曜日に、祖母に解毒の方法を聞いてくるから、それまで薬のせいだって思って我慢してください…。というかそもそも、勝手に食べたのはあなたよ!」


こんなことに巻き込んでしまって申し訳ない気持ちと、いや勝手に食べた彼が悪い、という気持ちが同時に湧き上がったあとすぐ、そういえば彼は、エリックに手作りクッキーを食べることを拒否された(ように彼には見えた)私を哀れんで、エリックのかわりにとクッキーを食べようとしてくれたことを思い出して、彼に強く言ってしまったことに罪悪感が湧く。


「…ご、ごめんなさい…」


子犬のようにしゅんとした彼は、申し訳なさそうに眉を下げて目を伏せてしまった。見た目の純粋なかわいさと健気な態度に、完全にこちらが悪いように感じて、アシュリーは罪悪感に潰されそうになる。

目の前の男子生徒は、背はぐんと高いけれど、まだ少年だからか体の作りは華奢で、そして顔がお人形のように綺麗に整っているため、そこがどこか頼りなさと儚さを醸し出している。そんな彼の雰囲気に、これ以上言うと彼がガラスのように割れてしまいそうで、アシュリーは口を噤む。


「…こちらこそごめんなさい。そもそも、そんなものを持っていた私が間違ってる…」

「…」


か弱そうな男の子に、ついアシュリーは非を認めてしまった。アシュリーは咳払いをしたあと、とにかく、と言った。


「あなたが私に特別な感情があったとして、それは薬の作用だから。本心じゃないから。そのことをしっかり心に留めて。来週必ずあなたをもとに戻すから、それまでは我慢して、お願い」


アシュリーは男子生徒をまっすぐに見つめてそう伝える。男子生徒は、は、はい…、と返しながらどんどん頬が紅潮していく。そんな彼に、アシュリーは、うっ、と息が詰まる。


「(き、効きすぎ…、恐ろしいわよ1000年に一度の赤い花…っ!)と、とにかく、そういうことだから、ら、来週必ずあなたのもとへ行くから、それまで会わないようにしましょう。それじゃあ」

「ま、まってください!」


男子生徒は、アシュリーの手首をつかんだ。華奢だと思っていた男の子の、思ったよりもしっかりとした手に、アシュリーは心臓が思いもよらず揺れる。

男子生徒は、サファイアのような綺麗な瞳でアシュリーを見つめる。


「…僕、あなたのことを考えると胸が苦しいです。会いたくてたまらなくて、会えないととっても辛いんです。来週まで会えないなんて、そんなの無理です」


男子生徒は真剣にアシュリーに伝える。アシュリーは硬直したまま彼の瞳を見つめ返す。長いまつげの下から覗く綺麗な瞳が、小さな熱を持って自分を見つめている。


「この責任、ちゃんと取ってくれますよね、…ね?」















「(…責任を取ると言ってしまった…)」


アシュリーは重い足取りで教室に戻る。男子生徒の熱い視線に折れて、アシュリーは彼と毎日会うことを約束してしまったのだ。


「(…薬のせいであんなことになったのに、私みたいなのを好きだなんて噂がたったら風評被害よ…。余りにも可哀想すぎる…)」

「あっ、アシュリー!」


教室に入るやいなや、ロザリーがやってきた。周りの女子生徒たちが、こちらを睨んで何やらひそひそと話している。


「(…なに?)」

「あなた、リヒトと知り合いだったの?」

「…リヒト?」

「リヒト・オーランド!知らないの?1年生の男の子よ」


ロザリーが信じられないという顔をする。これまでエリックのことしか見ていなかった自分を思い出して、アシュリーは気持ちが暗くなる。


「(…あの男の子、リヒトって言うんだ…)」

「オーランド男爵家の次男よ。家柄は、まあ、全く大したことないけど、とにかく顔が良くって有名よ。成績は優秀だし、剣技も馬術もすごく得意みたい。本人は控えめな性格だから派手に目立ちはしてないけど、密かに追ってる生徒は数多いるのよ」

「へえ…」


アシュリーは、彼の話を聞くたびに申し訳なさが増す。そんな有名人なら、あの魔女を(薬で)好きになったことなど、光の速さで噂が回りそうである。彼のイメージダウンの片棒を担いだ罪悪感に、アシュリーは埋まりたくなる。

アシュリーは気が気じゃないまま自分の席に着く。するとロザリーが、しつこく追いかけてきた。


「ねえ、なんで知り合いなの?ねえ?」

「……」


ロザリーの質問に、周りが興味津々に聞き耳を立てる。アシュリーは考えた後、昨日…、と口を開いた。


「私が、廊下にうずくまってて、…貧血でね、そこを通りかかった彼が声をかけてくれたの。今朝は心配して見に来てくれたみたい」


我ながら上手い嘘がつけた、と自画自賛した。周りは、優しい〜、とうっとりとした顔を浮かべる。周りと同じような顔をするロザリーに、あなたにはエリックがいるじゃない、とアシュリーが言えば、それはそれよ、と当然のように返された。アシュリーが不服そうな顔をしていると、始業ギリギリにノエルがやってきた。彼女が席に着いた瞬間教師が教室に入ってきたため、生徒たちはそれぞれ自分の席に着いた。













あんなに素晴らしい嘘をついても、リヒトがまたこのクラスに来てしまえば意味をなさなかった。

午前の授業が終わり、昼食を食べに行こうかとノエルに話しかけられたとき、クラスの女子生徒たちの騒ぎ声が聞こえて、視線の先を見ればリヒトがいた。


「(ああ…これ以上どんな嘘をつけば…)」


項垂れるアシュリーの耳に、まさかまた魔女のところにきたの?という怪訝そうな女子生徒たちの声が聞こえる。

それを聞いたノエルが、一度リヒトの方を見たあと、動揺したようにアシュリーの方を見た。


「…アシュリー、あなたまさか、彼と知り合いなの?」


いつになく驚いているノエルに、アシュリーは目を丸くしながら、う、うん…、と頷いた。


「(…あのノエルが驚くくらいの有名人なんだ…)ちょっと、色々あって…」

「色々?」

「…お祖母様直伝の惚れ薬入りクッキーを、彼に食べられちゃったの」


アシュリーは小声でノエルに囁く。ノエルは目を丸くしてアシュリーの方を見る。


「ほっ…」

「…あの僕、アシュリーに用があって…」


リヒトが、自分を囲む女子生徒たちに、意を決したように言う。周りの女子生徒が息を呑んだ後、一斉にこちらを見た。アシュリーはそんな彼女たちと目を合わせたあと、ノエルの方を見た。


「そういうわけで、彼が私に会いに来てくれるってわけ」

「あら、まー。それはそれは」


ノエルはそう言うと立ち上がった。アシュリーは、いつものように2人でカフェテリアに行くのかと思い彼女に続いて立ち上がる。ノエルは扉の方へ歩き出す。


「理由はどうあれ、エリックを忘れる良い機会なんじゃない?」

「…ねえノエル、私の話を聞いていた?」

「ええ聞いていたわ。その上で、よ」


ノエルはそう言って微笑むと、アシュリーを置いてすたすたと歩いていってしまった。あっ、と思って彼女を追いかけようとしたとき、扉の側にいたリヒトがアシュリーの手首を掴んだ。


「あの、お昼ご飯、一緒に、食べていただけませんか?」


リヒトは耳まで赤くしてアシュリーに伝える。断る理由になるはずのノエルの背中はもう見えない。周りの刺々しすぎる視線を感じながら、アシュリーは、も、もちろん…、と頷いた。











昼間のカフェテリアは騒がしい。学園の生徒の大半がここへ集まって昼食を取るからだ。生徒たちは各々食事や友人との会話を楽しんでいる、のがいつもなのだが、今日の生徒たちはとある2人の方に視線が奪われていた。


「(…視線が痛い…)」


選んだランチを持って席に着いたアシュリーは、いつにない違和感を感じ取る。ちらりと視線を移せば、こちらを見ていた生徒たちがさっと視線を外す。アシュリーが視線を戻せばまた生徒たちは視線をこちらに戻す。

アシュリーは、視線の原因であろう目の前の男子生徒、リヒトを見た。


「(…こんな美少年と学園で有名な魔女が2人でランチをとってら、それは怪しいだろうなあ…)」

「お、美味しそうですね、…ね?」


リヒトはぎこちなくアシュリーに笑いかける。アシュリーは、え、ええ、と微笑み返す。するとリヒトは頬をぽっと赤くして、照れくさそうに目を伏せる。その初々しさと健気さに、可愛い生き物が見られた喜びと、それが薬のせいだという罪悪感に、感情がごちゃごちゃになる。


「…ねえリヒト、あなたは下級生だからもしかして、私の例の噂を知らなかったりする?」


アシュリーは小声で話しかける。リヒトは少しきょとんとしたあと、いいえ知ってます、と答えた。


「そういう事なら話が早いわ。あのね、あなたが私と一緒にいる事に何の得もないの。むしろ損よ。一週間だけの偽の感情のために、今後一生付きまとうかもしれない噂を作ることはあまりにもリスキーよ。やめたほうがいい。今日これを最後に私たち、会うのはやめましょう」


アシュリーはそう訴えるが、リヒトは悲しそうに眉をひそめた後、目を伏せた。


「…僕、朝から今まで、あなたに会えないだけで胸が苦しかったです。それなのに、このまま来週まで会えないなんて言われても、とても耐えられません」


リヒトはそう言うと真っすぐにアシュリーを見つめた。訴えるような必死な瞳に、アシュリーは呼吸を忘れる。


「責任取ってくれるって、言いましたよね、…ね?」


大きな瞳がうるうると揺れる。アシュリーはその可愛さに罪悪感が増して息が詰まる。


「言っ、…た…」


苦しくなりながらそう答えると、リヒトは安心したように、はあ、と息を吐いた。そして、はにかみながらほほ笑んだ。

















そして放課後がやってきた。アシュリーはノエルに挨拶をして、廊下を歩いた。すると職員室から出てきたリヒトの姿を見かけた。リヒトはアシュリーに気がつくと、あっ、と嬉しそうな顔をした。小さな花が咲いたような健気なその笑顔に、アシュリーはついときめいてしまう。


「(…私を見て、あんなに嬉しそうにしてくれる人なんて、家族以外にいたかな…)」


そんなことを考えながら、いやあれは薬の効果だと自制する。リヒトはアシュリーのそばに来ると、今帰りですか?と尋ねた。アシュリーは、ええ、と頷く。


「あなたは、先生から呼び出し?」

「ええ、まあ…」


リヒトは気まずそうに目を伏せる。アシュリーは、へえ、と目を丸くする。


「あなた優等生みたいなのに、悪いことできるのね」

「え?…あっ、や、やだな、そういうのじゃないですよ」


リヒトは手を横に振って否定する。アシュリーは、そうなの、と呟く。リヒトは話題を変えたいのか、あー、と上を見上げた。


「そうだ、お時間あったら、2人で話しませんか?」

「え?」

「あの、散歩…でもしながら、というのはどうでしょう…か」


リヒトはおずおずとアシュリーに尋ねる。恥ずかしそうに頬を赤くして、緊張しているのか目を少しだけ泳がせている。アシュリーは少し呆然と彼を見た後、ええ、もちろん…、と返した。









アシュリーはリヒトに連れられて、中庭に向かった。空には夕暮れが広がっている。昨日の雨のせいか、湿っぽい暑さが広がる。


「(…エリックは、いつも余裕そうだったな…)」


自分より背の高い、年下の少年を見上げて、アシュリーはそんなことを思い出す。好きだと言えば笑顔で俺もだよとスマートに返した。結婚してと言えば、もちろん、と返した。抱きつけば、同じ力の強さで抱きしめ返してくれた。今になって思えば、彼は本気にしていなかったのかもしれない。周りが思いの外乗り気で、本当に結婚することになりそうになったとき、好きだと思える相手、ロザリーが現れて…。


「(…リヒトなら、もしも私が好きだと言ったり、抱きついたりしたら、顔を真っ赤にして慌てるんだろうな)」


そんなことを考えて率直に、かわいいな、という感想を抱く。しかしすぐに、いや彼が私を好きなのは薬のせいだから、と思い直す。


「あっちにも畑があったんだ」


リヒトが嬉しそうにそう呟く。彼の視線の先を見れば、学園内で管理している畑が少し遠くに見えた。


「向こうの方のしか知らなかった」


リヒトは、よく育ってるなあ、と畑を眺める。そんな彼の横顔を、アシュリーは見上げる。楽しそうに目を輝かせる彼を見て、アシュリーはつられて口もとが緩む。


「…好きなの?植物」

「はい。僕、土いじりが好きなんです。僕の住んでるところは農業が盛んだから。家にも畑を作ってもらって、自分で育ててるんです。今はお手伝いさんに面倒見てもらっています。僕が育てた野菜、美味しいんですよ」


リヒトはそう、少し得意気に話す。アシュリーは、へえ、と相槌を打つ。甘いものが大好きだと言った彼を思い出し、アシュリーは意外な気持ちになる。


「へえ、意外ね。あなたお菓子が好きらしいから、苦い野菜は苦手なのかと思った」

「ああいえ、むしろ僕、砂糖の甘さが苦手でお菓子はあんまり食べられないので」

「え?」

「え?…あっ…」


リヒトは自分の矛盾に気がついたらしく、気まずそうに目を伏せた。額から出たらしい汗を拭って、あの…、その…、と何やら言葉を探している。


「…優しいんだね」


アシュリーはそんな素直な感想が出た。リヒトは、え?と首を傾げる。アシュリーは彼を見上げて小さく微笑む。


「エリックに断られた可哀想な私を、見ていられなかったんでしょ?…ありがとう」


アシュリーの言葉に、リヒトは言葉をつまらせる。少し黙ったあと、あの、と彼は切り出した。


「その、どうしてその、魔術とか、そっちに行ってしまったんですか?」

「え?」

「エリックことを気の毒だとは思いますけど、その、…かなり迷走していると言うか…」


リヒトは言葉を選びながらそう伝える。アシュリーはそんな彼を見上げて、自虐的に笑う。


「…迷走か…」

「あっ、あの、ごめんなさい、気を悪くされたなら…」

「…初恋を、拗らせすぎたのよね…」

「…初恋を?」


リヒトはよくわからないのかまた小首をかしげる。アシュリーは、うん、と頷いて空を見上げる。


「…馬鹿みたいに長い間、馬鹿みたいに好きだった相手に失恋して、それからの経過が悪すぎるの…自分では制御できないくらいに」


アシュリーはそう言ってから、何を語っているんだと自分に呆れた。なんでもないの、と慌てて取り繕ったとき、ぬかるんだ足元にすぐに反応できずに身体が傾いた。あっ、と思ったアシュリーの手を、すぐにリヒトが引いた。自分の頭が彼の胸で支えられる。華奢だと思っていたその少年の身体は、確かに女の自分よりも大きくて、しっかりとしていた。


「…大丈夫ですか?」


リヒトの優しい声がした。アシュリーははっとして、彼から頭を離すと、うん大丈夫、ありがとう、と早口で答えた。自分の手をつかむ彼の手から離れようとしたけれど、彼はしっかりと掴んだままだった。


「僕には、大丈夫じゃないように見えます」


その優しい声に、言葉に、アシュリーは胸を締め付けられる。アシュリーは何度も深呼吸を繰り返す。


「(…これは薬、薬、薬…)」


心の中で何度も言い聞かせる。アシュリーは、意を決すると、彼の手から逃げた。そして、微笑んだ。


「ううん、本当に大丈夫」


そんな強がりを返す。自分が蒔いた種とは言え、本心ではない優しさをかけられるのはとんでもなく苦しい。しかも悪意がないからたちが悪い。


「…帰りましょうか。明日も学校があるから」


アシュリーはリヒトの方は見ないままそう言って、彼に背中を向けて歩き出した。リヒトは、…はい、と返したあと、送ります、とアシュリーの背中に言った。その優しさを受け取る度量もなく、アシュリーは、大丈夫だから、と言うと彼を振り切って女子寮に向かった。




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