共鳴の飛沫
艦内カフェテリア。
換気が悪く、甘ったるいカカオと、焦げたレトルト麺のにおいが漂っている。だけど、私はそれを嫌いじゃない。誰もが慌ただしく栄養を詰め込むこの場所は、飾り気がなくて、正直で、落ち着く。
テーブルの向こうで、彼は静かに座っていた。
彼――アレス・カイン。
誰も名前を呼ばない。
あれだけの戦果を挙げたのに、誰一人として彼の名を口にしないなんて。
おかしいでしょう? 誰よりも早く、誰よりも正確に、シュレーディンガーを操縦したのに。
でも私は、ちゃんと覚えてる。
カイン訓練生。最初のブリーフィングで、名簿を見たときから。
あの時の直感は間違ってなかった。
私は泡立つプロテインシェイクを彼の前に差し出す。
「栄養、摂ってる? ヒーローの燃料切れは、絵にならないから」
アレスは驚いたようにこちらを見たあと、眉を少しだけ動かした。
「……ヒーローなんて、柄じゃない」
そう呟きながら、プロテインシェイクを受け取ってストローを咥える。
「……甘い。けど、悪くない」
私は思わず笑ってしまった。
「ふふ、それは誉め言葉として受け取っておくわ」
あの笑み――こっちが笑っただけなのに、少しだけ表情を緩めてくれるその顔が、なんだか貴重なもののように感じる。
夜間照明に瞬くだけの流星――掴めなくても、確かに軌道を照らすもの。
私はタブレットを起動し、今日のフライトログを彼の前に表示した。
「ねえ、あなたの入力とシュレーディンガーの応答、統計上では“ほぼ同時”なの。わかる? 普通のパイロットなら0.1秒は遅れるのに」
彼は視線を落とし、タブレットの画面を見ながら、小さくつぶやく。
「……機体が僕の先を走っただけだよ」
まるで、自分はただ機械に乗せられていただけだとでも言うように。
でもそれは、ただの嘘。しかも、言い訳にもならない。
私はきっぱりと首を振った。
「違うわ、共鳴よ。あなたとシュレーディンガーは、“感応”してるの。
誰も理解できなくてもいい。私は、解析してみせるから」
彼は目を伏せたまま、かすかに肩を揺らした。
それが否定か肯定かはわからなかったけれど、逃げているようには見えなかった。
私は、意を決して口を開く。
「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
「……何?」
「あなたって、本当にどこから来たの? 名簿には“軌道都市カルナリア出身”ってあったけど……」
アレスはプロテインのカップを見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして小さな声で呟く。
「カルナリア……だった場所、かな。今はもう、存在しない」
「事故……?」
「――いいや、“未観測”になったんだ。あそこにいた記録は、もうどこにも残ってない。多分、誰の記憶にも」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
存在しない故郷。記録されていない過去。
それは彼の虚ろさ、どこかこの世界に触れていないような“浮遊感”の理由なのかもしれない。
「……なのに、あなたはここにいるのね」
アレスは静かにうなずいた。
「観測される限り、僕は“存在”する。だから、戦ってる。誰かの視界に、まだ引っかかっていたいから」
私は胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。
彼の名前を、彼の過去を、誰よりも知ることができた――
それは、言葉にならないほどの喜びだった。
誰も知らない、誰も見ようとしない彼を、私だけがちゃんと「知っている」という実感。
「……じゃあ、これからも私が観測してあげる。何があっても、あなたが“そこにいる”って証明する」
私の言葉に、アレスは初めて、ほんのわずかに笑った。
その笑みは一瞬で消えてしまったけれど、確かに“そこに”あった。
カップ同士が軽く触れて、小さな音を立てた。
泡が弾けた音と、たった一人だけに届いた未来の鼓動。
私は、それをずっと、手放したくなかった。




