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孤立の余韻

あのとき――僕は、動けなかった。


シュレーディンガーが発進して、敵艦隊の中へ飛び込んだとき、僕は射出口の影で機体にしがみついたまま、ただ震えていた。

出撃準備は整っていた。意識もあった。だけど身体が――指先すら、言うことを聞かなかった。


怖かった。戦うのが。

僕は意地だけでここに来た。

軍人なんて柄じゃないって、親父にも、学校の教師にも言われて、それでも「自分を変えたい」って理由だけで、この教導艦に乗った。

だけど、いざというときに何もできなかった。

そんな僕の代わりに、アレス・カインが全てを引き受けた。


彼は、迷いなく飛んでいった。

怒鳴りもせず、鼓舞もしない。ただ、静かに機体を進めて――敵を、未来を、すべてを切り裂いた。


僕は、彼を尊敬している。

本気で、心から。


だけど、ブリーフィングルームに戻ってきたアレスを迎えたのは、称賛じゃなかった。


彼が椅子の背に制服を掛け、無言で壁際へと歩いていったとき、室内には奇妙な沈黙が流れていた。


その沈黙の中で、他の訓練生たちがざわめき始める。


「また“未来が見えた”んだろ。正直、気味が悪いよな」

「なんかさ、人間って感じがしねえんだよな、あいつ」

「無表情で敵機斬ってんの見た? 怖すぎるって……」


僕はその言葉の内容よりも、別のことにひっかかった。

――誰も、彼の名前を呼んでいない。


「アレス」とも、「カイン」とも、ましてや「シュレーディンガーのパイロット」とも言ってない。

存在を指しているはずなのに、まるで“その輪郭を言語に乗せること”を、無意識に避けているみたいだった。


そういえば……僕自身も、さっきまで名前が思い出せなかった。

口に出すまで、“誰が”あの機体に乗っていたのか、ぼやけていた。


その違和感に、ひとつの仮説が浮かんだ。


「存在希薄化症候群(Existential Dissipation Syndrome)」――。


量子戦争初期、前線で異常な戦果を上げたエースの一部に見られた、未解明の心理・認知干渉症状。

戦闘時の極度の情報ストレス、あるいは高次観測干渉への暴露により、当人の存在が周囲から“認識されづらくなる”。

周囲は名前を忘れ、顔を思い出せず、会話に出すときも妙にぼやけた言葉しか出てこない。

最悪の場合、書類からも記録からも消えていく――まるで最初から、そこに“いなかった”ように。


ばかげてる。けど、今日の彼を見ていて、それがただの都市伝説じゃない気がしてきた。


ホログラムに映る戦果報告。

敵艦を裂いた軌道は、夕立の雲を貫く稲妻のようだった。

誰にも踏み込めない、触れられない場所で――彼は、ただ淡々と“結果”だけを積み重ねた。


それが、あの戦闘で僕らを救ったというのに。


祝賀のざわめきも、賞賛の言葉も、彼の周囲には届かない。

まるで舷窓に貼りついた霜のように、触れた瞬間、すべてが蒸散して消えていく。

その中心で、アレス・カインは今日も――ただ静かに、そこに立っていた。

誰にも、触れられないまま。

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