煉理の火翼12
フェネクス教育院には、円卓が据えられた談話室があった。
ここは孤児達に教育を行う教室であり、またフォルケ神官の研究仲間が集うサロンでもあるという。
談話室に通された私を待っていたのは、フォルケ神官と同様に懐かしい、仲間の笑顔だった。
「やあ、アッシュ、久しぶり」
「お久しぶりです、アーサーさん」
何て事のない挨拶に、アーサー氏は、うん、と頷いた。
それからもう一度、久しぶり、と伝えてくる。
彼女が感情を制御できたのは、そこまでだった。
「会いたかったよ、アッシュ!」
わずかに体を震わせたかと思ったら、アーサー氏の体が私に飛びこんで来た。
「本当に、本当に……! 久しぶりだね、アッシュ!」
「ええ、お変わりなく……と言うには、少し長すぎましたね」
抱きとめた少女の体は、領都で別れた頃と同じく男装を身にまとっている。
だが、経過した時間が、服装では隠しきれない成長をその身にもたらしていた。
背はそれほど伸びていないが、顔立ちに女性的な柔らかさが増している。
肩パットや芯地の入れ方で隠しているが、肩や腰回りも同じだろう。抱き合う形では、隠された女性らしさが良くわかる。
喉にはスカーフを巻いて、喉仏を見せないようしている。
「綺麗になりましたね、アーサーさん」
五感を刺激する隠された女性らしさに困りながら微笑むと、アーサー氏も慌てて後ろに跳ねる。
「ご、ごめん、嬉しくって、つい」
頬を赤らめた表情が余計に可愛らしく感じて、マイカ嬢への後ろめたさを疼かせる。
「私もお会いできて嬉しいですよ。ただ、お気をつけくださいね。お互いもう、子供と言うには大きくなりましたから」
多分もう、相部屋で二人きりは危ないと思います。
「それは残念な気もするけど……でも、そっか。こんな格好してても、アッシュにそう思われるくらい、大人になった?」
照れ臭そうに横髪をかきあげる仕草は、色気さえ漂っている。
「ええ、正装した姿を見るのが怖いくらいです」
「恐いは、ちょっとひどい言い方だね」
途端に頬をふくらませて、アーサー氏は不満を表明して、また笑う。
「ああ、すごい。本当にアッシュとこうして話せているんだね。聞きたいことも、言いたいことも、いくらでもあるよ」
「私もですよ。マイカさんも、お会いするのを楽しみにしていたはずなんですが……」
王都からの手紙が届く度、マイカ嬢もアーサー氏の思い出話を繰り返していた。
今回、突然の王都行きでアーサー氏と会える機会ができて、彼女も喜ぶと思ったのだが、その辺りは全て私に任されてしまった。
「ああ、聞いているよ。アッシュは気にしないで。マイカとは、後で話す機会もあるから」
「そうですか? なら、私は構わないのですが……」
二人の仲を案じていると、アーサー氏は寂しそうな顔で私の肩を叩く。
「マイカには悪いけど、ボクは、アッシュと二人きりの方が嬉しいんだ。ちょっとの間だけ、アッシュのこと、独り占めさせてもらうよ」
そう言って、アーサー氏は私を椅子に座らせ、後ろから私の顔を覗きこむ。
「ふふ、この角度からアッシュを見るのは久しぶりだ。うん、落ち着く。すごく落ち着くよ」
「懐かしい、軍子会の寮を思い出します」
「あの頃みたいに、今日も色々と教えてもらうからね。まずは、領地改革推進室! マイカとアッシュが責任者なんだって?」
「ええ、そうです。附属の研究所にはヘルメスさんとレイナさんもいますよ」
知っている名前が一つ出る度、アーサー氏は懐かしさに顔をほころばせる。
知らない名前が一つ出る度、アーサー氏は好奇心に顔を輝かせる。
知っている人の、知らない姿に、アーサー氏は嬉しそうだった。
知らない人が、どんな人物か理解すると、アーサー氏は楽しそうだった。
「ああ、良いなぁ……。ボクも、一緒に……」
そして、その話の中に自分がいないことが、ひどく、悔しそうだった。
****
フェネクス教育院の庭で、大歓声が上がる。
ご近所迷惑この上ないが、ご近所の皆さんも大歓声に参加しているので問題は起きそうにない。
盛り上がる声の中身は、「おー」とか「わー」とか「すごい」、「やばい」が九割八分を占めている。全員の語彙が枯渇している。
彼等が熱い視線を送っているのは、腱動力飛行機だ。
王都行きが決まった際、色々と役に立つだろうとクイド商会に輸送を頼んだ物資の一つである。
忙しい身であるアーサー氏が教育院を後にする際、ぜひ孤児の皆に見せて欲しいとお願いされたので、一機を使い潰す覚悟で展覧飛行を催した。
どうして使い潰す前提かというと、興奮した子供達がもみくちゃにするのがわかりきっているからだ。
一応、今のところは教えた通り、慎重に飛行機を飛ばしている。順番待ちも守られている。
さて、あと何分持つでしょうか。
苦笑しながら眺める私の横には、二十代前半の男女が二人、並んで立っている。
より詳しく表現すると、立っているのは男性だけで、もう一人の女性は興奮の極地で騒いでいる。
「うおおおお! すごい! やばい! うわああああ!」
このように、九割八分の中の一人である。
彼女が年齢よりずっと幼く見えるのは、童顔によるものばかりではあるまい。大きく目を見開いてはしゃぐさまは、子供達をそっくり拡大コピーしたようだ。
なお彼女については、子供達に先駆けて飛行機を飛ばした、大人げない人物であることも記しておく。
「トリス、興奮するのはわかるが、そろそろ落ち着かないか。ほんの少しでも良い」
立っている方の男性が、振り回される腕を回避しながら苦言を呈する。
九割八分に含まれない、数少ない例外である。
「だってあれ! ルスス、あれ! すごい!」
「ああ、すごい。私も大変感動している。だが落ち着け。声は我慢してやるから、体は黙っていてくれないか」
「やばい! めっちゃやばいってあああああ!」
男性は、石のように重い溜息を吐き出して、徒労に終わった己への慰めとした。
それから、落ち着いている私を見て、いくらか心の平穏を見出したかのように微笑む。
「申し訳ない、フェネクス卿。トリスは、まあ、このような奴なのだ。この率直すぎる好奇心が、彼女の知識量を支えているのだから、一概に困ったとは言えないのだが」
「ええ、トリスさんは大変優秀な方だと思います。私も何度も助けられていますから。もちろん、ルススさんにも」
ひたすらはしゃいでいる女性が、トリス女史。そのフォローをしている男性が、ルスス氏という。
この二人は、フォルケ神官の研究者仲間で、この教育院で行われるサロンの常連、ついでに手紙越しではあるが、私の協力者をしてくれている。
「フェネクス卿からお褒めの言葉を頂戴するとは、光栄なことだ。こうして、大変興味深いものも見せてもらっているし、感謝にたえない」
「ルススさんからお教え頂いた薬草知識の有用性を考えれば、これくらいいくらでもお見せしますよ」
「それはお互い様だよ」
ルスス氏は、医学系の研究者として、神官見習いをしている人物だ。
麻酔も消毒用薬品もない今世の医療技術は、その大半が内服薬をどう用いるかに限られている。
ルスス氏は、その薬への知識もさることながら、外科手術にも探究心を向けている。今世ではほとんどいない、稀有な人材だ。
稀有すぎて、人体の構造を調べるための解剖を行ったことを問題視されて、パトロンからの支援を打ち切られるほどである。
このままでは研究者人生が終わりを迎え、地方の農村辺りの教会に飛ばされてしまう。せっかく、人体の中身の構造まで調べたのに。
そんな失意のルスス氏に、田舎から舞い戻ったという珍しい履歴を持つ中年神官が、声をかけたのだ。
「人の体の構造を調べるために、死体を切り開いたんだって? 同じことをしたがってた変なガキを知ってるんだが、興味あるか?」
フォルケ神官の仲介を受けて、ルスス氏は半信半疑ながらも、同志と思しき遠方の変なガキに手紙を書いた。
言うまでもないが、変なガキとは私のことである。
色々と語弊があるので一応訂正しておくが、領都で人体解剖は済ませていたので、「同じことをしたがっていた」ではなく、「同じことをした」が正しい。
その変なガキこと私は、喜んで返事を認めた。
「領都の神殿にある医学書の解剖図は間違いだらけです! 欠陥品も良いところです! 王都の神殿の解剖図はいかがです? あ、消毒に使えるアルコールや石鹸を送っておきますね」
「こっちも同じだ! なんてことだ! このままでは外科手術なんて夢のまた夢ではないか! あとアルコールと石鹸なんて高価なものをありがとう! これで身の回りを清潔にして診察ができる!」
一瞬で、というか、一通で意気投合である。
以来、二人はお互いの解剖結果を、独自の解剖図に書き起こして交換し合う仲だ。
おかげで、現在統合された二人の解剖図はかなり正確だと自負している。
ルスス氏の研究費も、サキュラ辺境伯やフォルケ神官の研究費から融通してしばらく支えていたら、とある王族が気前よくパトロンになってくれたため、無事解決している。
「それで、フェネクス卿……その、トリスとのやり取りの結果、麻酔が手に入るかもしれないと、言っていただろう?」
飛行機を見ても落ち着いて感心していたルスス氏が、急にそわそわした様子を見せる。
ちらちらとこちらをうかがう視線の動きは、まんまお菓子を欲しがる子供のようだ。
「ええ、硫黄の存在を教えて頂いたので、そこから硫酸を作りました」
この硫酸に、アルコールの一種、エタノールを混ぜると、ジエチルエーテルと呼ばれるものになる。
今世でようやく手に入れた、正真正銘の麻酔薬だ。
麻酔としては効果が弱い部類になるのだが、中毒性がなく、一時的な副作用しか現れないため、麻酔の最初の一歩としては都合が良いだろう。
アヘンのような麻薬系の方が、麻酔効果は高く、手軽に使えるのだが、副作用である中毒のことを考えると流石に使用が躊躇われる。分量の計算も難しい。
「おお! 流石だ、フェネクス卿! 君と知己を得られたことは、私の生涯で最高の喜びだ!」
私の手をしっかと握りしめ、ルスス氏が熱い眼差しを私に送って来る。
「試作した少量ですが、持って来てありますから、後程お渡ししますね」
「ありがたい! 後は実験の場だが……そうだな、近々治療の予定があるから、そこで使う機会ができれば。うむ、フェネクス卿がその時まだ王都にいれば、手伝いを……あ、いや、この時期に王都にいるのだから、むしろ彼は参加者か?」
一人ではしゃぎ始めたルスス氏の声を聞きつけたのか、トリス女史が引き絞られた弓矢のように飛んで来る。
「なんか硫酸とか麻酔とか聞こえた! アッシュ君、できたの!?」
「ええ、試作ですが、できましたよ」
「本当に!? アッシュ君すごい! ていうかアッシュ君やばい、一番やばい! どんなんどんなん、見せてよー!」
「持って来てありますから、トリスさんにもお渡ししますよ」
「やった! アッシュ君、愛してる~!」
いつでも感情に素直なトリス女史は、遠慮なく私を抱き締めて来る。
地味に、年上の女性からの物理的接触は貴重な経験だ。
「あ、こら! トリス、やめないか、迷惑になる!」
奇行に走ったトリス女史を、我に返ったルスス氏が襟首掴んで引きはがす。
惜しい、と思ってはいけないと自戒する。
「うぐっ! ルスス、首がっ!」
「馬鹿者! フェネクス卿にもう少し気を遣え! 彼はすでに騎士位を得た人物なのだ」
「え~? でも、アッシュ君はアッシュ君じゃん? ねえ?」
まあ、中身が何も変わっていないことは保証します。
「確かに、フェネクス卿は昔と変わらず、丁寧で気さくな人物だ。私も、そこは素直に好意を抱いている」
「だよね。話しやすくて、話がわかって、しかもできる子だよぉ」
「だがな、トリス。これほどの人材で、しかも知り合った頃の彼とは違い、すっかりいい年なのだ。当然、彼の結婚相手について、サキュラ辺境伯を始めとして考えている者は多かろう」
「お? アッシュ君、結婚するの?」
「そうストレートに聞くな馬鹿者!」
不躾な研究仲間の発言に、ルスス氏の拳骨が唸る。
解剖学を修めた彼の拳は、的確に痛撃を与える角度で頭蓋を襲う。
「あいったぁ!? 痛い、超痛いよ、ルスス! たんこぶできた!」
「お前の無礼さを考えれば当然の痛みだ! 全く、貴族社会を理解しろとは言わんが、理解しないなら口をつぐんで――」
「あ、麻酔を使えばこういうのも痛くないんだよね? 使ってみて良い?」
叱り諭す間もなく、次から次へと話題の花を飛び移る気まぐれなトリス女史に、ルスス氏は困り果てた溜息を吐く。
その姿は、このやり取りに慣れきっている者のそれであった。
トリス女史は、この通り面白そうだと思ったものにどんどん飛びついていく、非常にアグレッシブな博物学者である。
元々は、花が好きで、見たことがない花を見てみたい、という乙女チックな動機が、彼女の探求の第一歩だったらしい。
私とルスス氏は、これをトリス女史の虚偽申告だと見ている。
この辺りの真相究明は置いておくとして、トリス女史は花から始まり、植物全般、それに集まる虫や鳥、獣まで興味を広げていった。
その結果を、彼女は実に簡潔に表現した。
「色んなものがあって、色んなことをしているんだなってわかったよ」
非常に正確な表現だと評しておく。大雑把すぎて間違いようがない辺りに、彼女のセンスがうかがえる。
ただし、トリス女史のとぼけた言動に騙されてはいけない。彼女の認識は一見大雑把であったが、それは同時に、大局的に俯瞰していることでもある。
ある時、手紙越しで魔物について話題にした時、この博物学者はさらりと言った。
「でも、色々見た後だと、魔物ってやっぱりおかしいよね。花とか木とか鳥とか獣とか、そういうのと全然違うの。あんなことしてる生き物、他には人間しかいないよ」
よもや、魔物と人間との間に共通点を見出すとは思わなかった。
どこが似ているのか尋ねたら、他の生き物と全然違うところ、と返って来る。
「違うとこ多すぎてなんだけど、一つ挙げると目的が違う感じ? 生きるために生きてるのが普通の生き物で、生きるために生きてるけどたまに死ぬのがわかってて死ににいくのが、あたし達人間とかそんなん?」
トリス語録は感覚的過ぎてわかりにくいが、何となくわかってしまうのが困りものだ。
彼女の真意を蛇に例えると、私は尻尾を掴んでいる。一応は捕獲しているわけだ。
でも、頭は全然違うところでニョロニョロいってて、本当ならそっちを掴まないといけないのだ。噛みついてくるのは頭だし。
つまり完全には捕獲できていない。大体いつもこんな感じになる。
そんな不思議な彼女だが、その知識量は本物だ。
ルスス氏が文献で見た薬草について相談すると、どの地方のどの辺にある、と彼女の脳内大図鑑からすらすらと答えてくれる。
非常に有能で、協力的で、助かるのだと、ルスス氏はジレンマを抱えながら、彼女を褒めた。
硫黄の発見も、「こういう性質のもの知らないですか」とダメ元で相談したら、彼女がさらっと答えたのだ。「あれじゃね?」ってくらいのノリで。
曖昧な検索ワードにも対応する生きた大辞書、生きた大図鑑である。
トリス女史、マジ有能。
「あ、そうだ。アッシュ君、王都の神殿も見に行くんでしょ?」
「ええ、王都の本も見に行きます」
私の王都におけるメインイベントです。
「いつ来るかわかったら教えてよ、案内したげるからね」
「それは助かります。せっかくの機会ですので、領都にはない文献をできる限りチェックしたいと思っていまして」
「だと思ったよ。閲覧可能な蔵書の大体の位置はわかってるから、任せてよ」
胸を叩くトリス女史に、ルスス氏も乗って来る。
「その時は私もご一緒しよう。分野外の本でも、ある程度の内容を見るくらいは役に立つだろう。それに、フェネクス卿と一緒なら、今まで見逃していたものも発見できるかもしれない」
「ありがとうございます。フォルケ神官にも、手伝いをお願いしましょうか」
アーサー氏は、無理だろうな。ちょっとだけでも一緒に来て欲しいのだが、彼女には立場がある。
でも、お願いするだけはしてみよう。
「では、予定が決まり次第ご連絡を――」
そこで、子供達の甲高い悲鳴が上がった。
どうやらやってしまったらしい。飛行機を壊したのだ。
私が苦笑しながら近寄ると、原因となった子供達は涙目で震えている。
「どれ、見せてください?」
受け取って確かめてみると、どうやら翼の片側が壊れたようだ。
骨組みが一部折れ、布も破けている。
このくらいなら、私でも直せる。プロペラ部分が壊れたら、ちょっと私の手には負えなかったので、運が良かった。
「ご覧の通り、これはとても壊れやすいのです。次は気をつけると約束して頂けるなら、今回は特別に直してあげましょう」
私の発言に、子供達は途端に表情を輝かせて、元気よく約束してくれた。
中には、直し方を見たいと言い出した先見的な子もいる。絶対にまた壊すからね。
目端の利く子の将来が楽しみなので、唐突ながら、教育院で工作の授業を開くことにする。
ここで印象を良くしておけば、彼等彼女等が大きくなった時、辺境伯領に来てくれるかもしれない。
ここは手間をかけるべき時です。
なお、工作の授業には目をきらきらさせたトリス女史と、その保護者のルスス氏も参加していた。
・訂正のご報告
訂正前に「この硫酸に、木炭を乾留して得られるアルコールの一種、エタノールを混ぜると、ジエチルエーテルと呼ばれるものになる。」と表記していた部分、「エタノール」と「メタノール」を間違えて記載しておりました。
木炭より得られるのはメタノールであり、ジメチルエーテルになるもので、誤りでした。
誤字報告にてご指摘頂き、判明いたしました。対応がかなり遅れましたこと、感謝と共にお詫びいたします。




