アイ
目深にハットを被ったチャコールグレーのスリーピース。プレーンなシャツに明るいイエローのネクタイ。彼の洒落たセンスの良さが見て取れる。
「貴方の目には唸るしかありませんね……」
双眸は、白衣の背を見つめる。
「わざわざ呼び出しとは何事かと思いましたが……」
振り返ることなく、テオは仕事に集中している。
白衣姿の彼は『科学者』。しかし、今しているそれはそれではない。
「部屋から出られないのはわかりますが、見ないとわからないこともあるんじゃないですか?」
「僕に意見か。偉そうに、何様だ」
「俺は俺です。それ以外の何者でもありませんよ」
「黙れ下半身男」
「うわ、ひどいなぁ。俺は愛に生きているだけですよ」
「くたばれ」
この悪態にも関わらず、顔にはふっと笑みがこぼれた。
「その下らない愛とやらのせいでパン祭りだ。どうしてくれる」
しかし、これは堪えた。「うっ」と言葉に詰まる。
「馬鹿の一つ覚えみたいにあっちへパン、こっちへパン。訳のわからん文句垂れ流して、風評被害もいいとこだ。あいつの影響力なめてんのか」
「…………」
「何を言っても『ノヴァっちが言ってた。間違いない』で譲らん。なんだお前、大正義か。くそったれ」
「………すいません」
こればかりは謝罪するしかなかった。
信頼が仇となった。カサノヴァからすればなんとも複雑な心境だ。
「確かに、そんなことは言いました。……以前、『愛とは何か』と尋ねられましてね」
「…………」
初耳だった。そして、想定外だった。
「ジルは愛されてます。俺も心から愛していますし、多くがそうです。口に出す者、態度に示す者、見守る者、支える者、行動は違えど、心を同じくする者は大勢いるでしょう」
「…………」
「しかし、ジルは『愛』が何かわからない」
『ノヴァっち。『アイ』ってなーん?』
小さく幼い彼女の言葉に、目を瞠った。
カサノヴァは、足元で大きく見上げるその姿に「一かけらのパンみたいなものかな」と答えた。
『飢えて飢えて、もう明日も見えない時に。目の前に一かけらのパンがあったとする』
『ありあまる空腹に、そんなものでは足りない。たった一かけらに満たされることはない。それを手にして、今日や明日を生きられるとは限らない。むしろ、手にしたことで余計に飢えが増すかもしれない』
『それでも、人は手を伸ばさずにはいられない。ほんの僅かでも、待っている先が変わらなくても、求めずにはいられない。本能的に欲してしまう。なくては生きていけない。『愛』とは、そんなものだと思うよ』
「――――」
その刻を、思い出す。
しゃがみこんで、ようやく合う目線。両手に掴んだ、小さな肩。
自分の言葉。じっと見つめる顔。今でもしっかりと覚えている。
難しかったかもしれない。けれど、いつかわかってくれたらいい。そんな想いで伝えた。
成長した彼女は、覚えていてくれた。それは嬉しい。喜ばしい。しかし、お得意の独自解釈で大きく外れてしまったようだ。
「直近の検査結果を見ましたが……幼すぎますね」
「幼児レベルだ。保護者には目を離すな、手を離すなとキツク伝えてある。赴くままにあっちへこっちへ。理性がきかない本能剥き出しのケモノだ。まぁ、血筋もあるらしいが」
「心のケアがいかに難解か、実感しました」
「ケアの問題じゃない。あいつは心がない。『モノ』だからな」
「…………」
普段、カサノヴァはどれだけ辛辣な言葉を浴びせられても笑って済ます。
しかし、その『普段』が消えていた。
「そんな言い方はないんじゃないですか」
「事実を事実として言っただけだ。何の問題がある」
本質として、この二人は相容れない。結びつきは「利害関係」だ。
それは、この組織全体に言えること。信念も思想もそれぞれまるで違うが、目指す方向が一致している。それが結果として「まとまり」になっている。
「ジルは人間です」
「馬鹿か。あんな人間がどこにいる。あいつは造られたんだ。そのふざけた常春頭、沈めてこい」
言い合っていては埒が明かない。こればかりはお互い譲るつもりはないし、平行線を辿るだけ。
ここでカサノヴァが大人を見せ、ふぅと息を吐いた。
「ノエルが少々心配です。ただでさえ抱え込みがちなのに、今回は重すぎます。何より、ジルが絡むとなると……」
「僕の人選に文句があると?」
「まさか」
それもそのはず。この『カサノヴァ』という男に才を見抜いたのが、他でもないテオだ。
テオが作り上げたこの組織に、彼の名はない。カサノヴァはいわばフリーランスで『協力者』の立場だ。だからこそ、彼は独自のルートで情報を仕入れることができる。
『情報』部門を仕切るノエルとは互いに信頼関係で結ばれており、彼の依頼は聞く。有益だと思えば、声がなくともノエルの耳にいれる。
しかし、カサノヴァは『テオの犬』としての側面を強く持つ。
「俺やノエルが抱いた『奇妙さ』と、その貴方の『懸案』は同じなんでしょうか?」
「…………」
「何とも言えない顔で考え込んでいましたよ。あの子のことです、どれほど先まで読んでいるかはわかりませんが……」
そして、目の前に広がるそれを見た。
「この読みばかりは、貴方の替えがきかない」
「馬鹿が。全てにおいて僕の替えなどあるわけないだろうが」
げんなりするような文句でも、笑うのが彼。
「………お変わりなく、何よりです」
『科学者』として一流の肩書きを持つテオだが、その他においても一流だ。先を見通すこの目は、多大な成果を発揮する。
「とりあえず、依頼は了承しました」
しかし――と、さらにツバを深く傾けた。
「こればかりは、外れてほしいと願いますよ」




