姫
「ちっ」
怜悧な能面が苛立ちを奏でた。
「お疲れ様でございました」
出迎えた雅は、慎ましく凛と柔らかに夫の労をねぎらった。
その姿は、相思相愛の理想の夫婦像。子供たちからも「仲睦まじい」と太鼓判を押される。
「御上を利用しようという魂胆が見え見え。無能なら無能なりにとっとと失脚するか暗殺でもされれば良いものを。……いっそ、こちらから呪い殺してしまおうか……」
毒づく悪態とは真逆の高潔な束帯姿。菊に染まる黄色の袍は、高位の禁色。本家の『白』に次ぐ特別な色。
「今頃、兄上も揃って祝宴のはずが……っ」
唯我独尊の尊が唯一自身の上に置くのが、兄・大和。多忙を極める彼と愉しく酒を酌み交わすその日を首を長くして待っていただけに、それを奪われた本人の機嫌はここ最近凄まじくよろしくない。ただでさえ冷酷無慈悲な性格が、さらに凍てついている。
「……ん?」
普段の屋敷にない音が耳に届いた。
「騒がしいな。……庭か?何事だ」
「姫様がお越しになっておりまして」
「何ィ!?」
「子供たちと遊んで下さっております」
「それを早く言え!」
乱雑な歩みは雅を置き去りに。
進むにつれて、それはどんどん大きくなってくる。
「……父上。おかえりなさいませ」
足を止めた尊に、立花は頭を下げた。その静謐な美貌は母親譲り。
子供は三人。長子の立花に、長男次男。まだまともに喋ることのできない末の忠臣はキャッキャと笑いながら姉の膝の上。
「よっしゃ、ドスコイ。もういっちょ来い」
うっすらと夕闇に染まる世界。二人の子供たちもどうやらそれを眺めていたようだ。
広い庭で、四股を踏む二つの影。一人は、長男の仁義。それよりもずっと背が高い、もう一人は――
「姫様!」
「ん?あ、みっちゃん。おかえりー」
美しい、鮮やかな振袖姿。袖をたすき掛けで束ね、本来は引きずるほど長い裾を膝の上までまくり上げている。そして、力士顔負けの見事な構えだ。
「ち、父上!おかえりなさいませ!」
厳しい教育を受けている仁義は、畏怖の対象である父を前にすぐさま姿勢を正した。
傲岸不遜を絵に描いたよう。その姿は無言で威圧を放ち、「頭が高い」とばかりに相手を気圧す。息子がこうなるのも無理はない。
家族はもちろん、誰もが立てるこの男を「みっちゃん」呼ばわり。このことから、彼女の特別な位がわかる。
「姫様、相撲など……」
「うん。だからな、土俵には上がらない。まわしもつけない。二つの『ない』だ。約束はちゃんと守るぞ」
「………は?」
真っ直ぐ腕を前に伸ばし、ピッと立てた人差し指と中指で「二」を示す。
追いついた雅が、呆然と立ち尽くす三歩後ろでくすくすと笑っている。
「清明様の案だそうです」
「!!……あの方は何をお考えなんだ……っ!」
「姫様の願いを叶えてさしあげたいと思っておられるのでしょう。わたくしも賛成です」
「!?しかしだな!姫様はおなごだぞ!?」
「昔からこのようにして遊ばれていたと。相撲に木登り、川遊びにかけっこ。軽装を好むお転婆な気質が本来のお姿だと。それを、我らも待ち望んでいたのではなかったですか?」
「いや、それはそうだが!しかし、姫様にもしものことがあっては……っ」
「大和義兄上から、乗馬のご指導も受けておられるようですよ?」
「………え」
妻の心得に、夫の顔色が一変した。
「大変御上手だそうで。今度、遠乗りにでかけるとお話してくださいました」
「!?」
尊は「そうなのですか!?」と慌てたようならしからぬ対応。そこに込められた「ズルイ!羨ましい!私も行きたい!」という心の声を、雅はしっかり聞き取っていた。
「うん。あーやんと、ツナとツユと」
「……あぁ。義姉上とですか……」
さっきまでの興奮が「なら、別にいいか」に変わった。表情に出ないので「能面」と言われるが、実はこの男。掴めばかなりわかりやすい。
尊が子供を三人設けたのは、自身がそうだったから。断固として譲らぬ、結婚前からの決定事項だった。
三人兄弟の末。二番目の兄夫婦には「綱」「栗花落」という十代半ばになる二人の子がおり、年頃は一番彼女と近い。
「あと、ユウも」
「!?」
切れ長の双眸が飛び跳ねて起きた。目尻の長い睫毛が揺れる。
「あーやんが、いっつも一番筋があるってユウを褒める。やっちゃんが乗馬の達人だからな。血だな、血」
「……そ、そうなのです。兄上は昔から本当に乗馬がお上手で、弓馬礼法を修めておられるのです」
「ヤブサメな。めちゃカッコイイもんな!走りながらバーンて。パパみたい」
「そ、そうなのです!なんと凛々しいお姿か!叡智に溢れ、機智に富み、芸道にも精通しておられる人格者。風流人でもあられ、兄上の豊かなお心で描写される歌はなんとも美しく……」
「文武両道だな。本当にすごい。じゃないと、橋渡しはできないもんな。頭が良くて性格が良くて、人徳がある証拠だな」
「さすが姫様!おわかりになりますか!」
「なるなる。めっちゃなる」
「えぇ、そうなのです。そうなのです。兄上は本当に素晴らしいお方で……」
(………照れてる)
人々を恐怖のどん底に叩き落とす氷の面が、崩れている。
立花も。幼い忠臣でさえも。その異様な光景に硬直してしまっている。
(それにしても……)
雅は感嘆した。見事な人心掌握術だ。相手は権謀術数に長けた獄卒だというのに。
これを全く意図せず、天然でやってのけるのだから。彼女が表舞台に出れば、すぐに何もかもが思い通りだろう。
「遠乗りですか……」
仁義の羨望の声に「なら、一緒にどうだ」と隣からお誘い。
「い、いいのですか!?」
「みんな一緒の方が楽しくていいだろ。ヨシも男なら、馬くらい乗れないとな。せっかくの機会だ、兄上たちに教えてもらえ」
そして、「そうだ」と空の向きを変えた。
「リッカもどうだ?」
「……わたくしも、ですか?」
「うん。あーやんもツユもいるんだから、『おなごはダメ』なんてことはない。オミはそうだな……おんぶ紐でもしたらいけるか?みーやん、大丈夫かな?」
「さすがに、忠臣は難しいと思います」
通じたのか、のけものにされた一歳児は急につんざくように泣き始めた。
「あーら。そんなに行きたかったの?でも、さすがに無理よ」
雅は、娘の膝から息子を掬いあげた。普段はこれで落ちつくのだが、今回は手足をじたばたと動かし、暴れて抗議している。
「本当に、うちの子は姫様が大好きねぇ?それとも、父上譲りで兄上が好きなのかしら?」
微笑みながら。上下に揺らして抱きあやす。
「……母上」
見上げる視線。遠くからも、同じ懇願の色が向けられている。
「いいんじゃないかしら。ねぇ、旦那様?」
「!?」
「うちの子は全員下です。立花や仁義にとっては貴重な兄上と姉上たちです。貴方様も、その大切さは身に沁みておわかりでしょう?」
「それはそうだが……」
静寂に、治まる気配のない叫びが響き渡る。
「そ、それよりも姫様。今日はいかがなさいましたか」
(……逃げた)
その瞬間、雅は勝利を確信した。
「私、身長伸びて今までの着物ダメになっちゃったから。だから、みーやんにお直しお願いしようと思って」
裁縫が得意な彼女には、誰よりも世話になっている。せっかくの上等品もその素行で被害に遭うことが多く、その度に「助けて」と緊急搬送。
相撲をしても一切崩れない着付けも、実は雅の技。彼女の洗練された高度な美的感覚は自身の随所にも散りばめられており、見立ても抜群。夫や子供を一級品に仕立て上げるのも彼女の仕事だ。――これが、尊のお眼鏡にかなった一因でもある。
これぞ、良妻賢母の鑑。夫を支え、子を育て、家を守る。そして、この複雑な一族の責務を果たす。そんな何役もを、完璧にこなす。
「いいのがあったらリッカにあげるけど」
「え!?」
普段は穏やかな大人しい顔が、弾けた。
「なんか、新しいのたくさんあるんだって。私、そんないっぱい着ないし。帯とかも綺麗なのいっぱいだから、よかったらもらってくれ。リッカはみーやん似でベッピンさんだし、着物も喜ぶ」
同じ『美人』でも、立花と彼女は真逆。彼女は、日常の普段着で晴れ着のような豪華な華々しさを身に纏う。色味も赤や橙など暖色系の明るく濃いものが多く、柄も派手。それが『特別でない』のが彼女なのだ。
一方、母親似の立花は上品な寒色使いが多く、落ちついた繊細な淡さが似合う。
「でも、リッカってユウに似てるよな。とゆーか、なっちゃん?」
「……え」
「ユウはアレでも立派な男だからな。顔が、じゃなくて。『凛としてる』って言うんだっけ」
「……お、恐れ多いことでございます」
粉雪の頬が、紅く滲んで伏せた。
「あ、そうか。みーやんとなっちゃんが似てるのか」
ポンと手を叩いた気付きに、夫婦の色が変わった。
「さすがみっちゃん。やっちゃん大好きなだけあるな。奥さんまでそっくりなのか」
理想と言われるこの二人が「理想」と掲げているのが、長兄夫妻。今はもう、互いに手と手を取り合うあの微笑ましい温かな光景を見ることはできないが……
「あと、今日はみっちゃんに会いに来た」
浸っていたそれが、ハッと呼び戻された。
「……私ですか?」
「みっちゃんの後はたっちゃん。ゴズメズの許可は必要だからな」
天まで届く自尊心の塊が、彼女を前に膝をつく。
「……どういった御用件でしょう?」
先程、門前払いで追い返したばかり。同一人物とは思えない。
「雄玄を、連れて行く」




