5
その日、店長は酒臭かった。
地下室の扉を乱暴に開けると、何かをぶつぶつ呟きながら私に寄りかかってきた。
「ったく……どいつもこいつも……」
そう言ったかと思うと、壁にもたれ、そのまま床へ横になった。
数秒後には大きないびきが響き始める。
私は少し離れた場所から、その寝顔を見つめていた。
こんなに無防備な店長を見るのは初めてだった。
そのとき、不意に南さんの話を思い出す。
『昔、幽霊が人の中に入る映画を見たことがあるの。怖かったけど、ちょっと面白かったな』
私は自分の身体を見下ろした。
透明になって壁をすり抜けられる私なら……。
「できちゃうかも」
胸が高鳴る。
私は自分の身体が透明になった姿をイメージする。
身体が透け始めた私はそっと店長へ近づき、眠っている身体に手を伸ばした。
指先が店長の胸へ触れた、その瞬間だった。
私は吸い込まれるような感覚に包まれた。
視界がぐるりと回る。
次の瞬間。
「……あれ?」
聞こえた声は、私のものではなかった。
低く、かすれた男性の声。
目の前にある手は、大きくて、ごつごつしている。
恐る恐る指を動かす。
動いた。
腕を上げる。
それも思いどおりに動く。
「わぁ……」
私は立ち上がった。
重たい身体。
大きな足。
一歩踏み出すたび、地下室の床がきしむ。
まるで、この身体が最初から自分のものだったかのように自由に動かせた。
「すごい……!」
思わず笑ってしまう。
店長の口が笑う。
声を出してみる。
「ははっ、俺は店長だぞ。お前に名前をつけてやろう」
やっぱり店長の声だった。
胸の奥から、今まで味わったことのない感情が湧き上がる。
自由だ。
壁の向こうへ行けるだけじゃない。
誰かの身体を借りれば、触れることも、歩くことも、話すこともできる。
世界が急に広がった気がした。
自分だけど自分じゃない、そんな不思議な感覚に胸を躍らせていた、そのときだった。
『なんだ……?』
頭の中で声が聞こえた。
『俺の体が勝手に動いて……!』
頭の中に、店長の声が直接響く。
私は息をのんだ。
店長は眠っているはずなのに。
声だけが、私の頭の中へ流れ込んでくる。
『やめろ……!なんだ、お前は!』
「ひっ……!」
私は反射的に店長の身体から飛び出した。
ふわりと身体が軽くなり、次の瞬間には体が元に戻っていた。
私は、急いでワンピースを着て、何事もなかったように床に座り込んだ。
心臓が壊れそうなくらい速く鼓動している。
(私がやったこと、気づかれた?)そんな不安が脳裏をよぎる。
意識を失ったままの店長は部屋の隅で倒れている。
しばらくして店長が目を覚まし、不思議そうな顔で天井を見つめた。
私は何も知らないふりをして、うつむいた。
「さっきのあれは…夢か…。悪い夢だな…まったく…」
店長はそれだけ言うと、私をじっと見つめた。
一瞬、全部知られてしまったのかと思った。
けれど店長は首をかしげるだけで、何も言わない。
やがて扉を閉め、地下室を出ていった。
階段を上る足音が完全に聞こえなくなってから、私はようやく息を吐く。
店長は悪い夢なんか見ていない。
さっきのは全て現実。
私の力は、ただ透明になれるだけじゃない。
誰かの身体を借りることができる。
だけど、その人の意識は消えるわけじゃない。
身体の奥で、ちゃんと私の行動を見てるんだ。




