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 ある日、地下室の扉が開き、見たこともない人が入ってきた。

 女の人だった。


 金色の長い髪は光を集めるように輝き、きらびやかな赤いドレスは地下室には似合わないほど美しかった。ふわりと甘い香水の匂いが漂い、私は思わず見とれてしまう。


「はじめまして」


 女の人はしゃがみ込み、私と目線を合わせて微笑んだ。


「私の名前は山口南(やまぐちみなみ)。ここの上にあるお店で働いてるの」


 山口南…、その言葉を聞いただけで胸が少しだけ熱くなった。

 それから南さんは、暇を見つけては地下室へ来るようになった。


 文字の読み方。

 字の書き方。

 簡単な計算。

 南さんが教えてくれたこと、私は夢中になって覚えた。


 知らないことを知るのは楽しかった。

 世界が少しずつ広がっていくような気がした。

 それだけじゃない。


「男はね、甘えてくる女に弱いから、知っていることでも知らないフリをすればいいのよ」


 南さんは笑いながら、大人の男を夢中にさせる話し方や、表情の作り方まで教えてくれた。

 私にはまだ意味のわからないことばかりだったけれど、南さんは「いつか役に立つから」と言って笑っていた。


 ある日、私はずっと胸の中にしまっていた願いを口にした。


「南さん」


「ん?」


「私、自分の名前がわからないの。だから、私に……名前、つけてくれない?」


 南さんは少しだけ驚いた顔をしたあと、困ったように笑った。


「名前?」


 私は黙ってうなずく。

 南さんは少し考え、私の頭を優しく撫でた。


「私は、ないほうがいいと思うな」


「どうして?」


「名前がないほうが、ミステリアスで魅力的だから」


 その言葉は、私にはよくわからなかった。


「人はね、わからないものほど知りたくなるの。名前がないあなたは、それだけで特別なのよ」


 南さんはそう言って微笑んだ。

 結局、その日も私は名前をもらえなかった。

 それでも不思議と悲しくはなかった。


 南さんが私を呼ぶときは、「お前」でも「おい」でも「てめぇ」でもなく、「あなた」。まっすぐ私を見て話しかけてくれたから、それで十分だった。




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