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私には名前がない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
誰かに本当の名前で呼ばれた記憶が、一度もないからだ。
物心がついた頃には、私は風俗店の地下室で暮らしていた。窓のない薄暗い部屋。湿ったコンクリートの壁には黒い染みが広がり、天井の裸電球は時々、疲れたように明滅する。
ここが世界のすべてだった。
外にはどんな景色があるのかも知らない。空がどんな色をしているのか、風がどんな匂いなのかもわからない。
親が誰なのかも知らない。
私を産んだ人がいることだけは、なんとなく理解していた。でも、その人の顔も声も、何ひとつ思い出せない。
地下室へやって来る人は、一人だけだった。
風俗店の店長。
年齢も、本名も知らない。私に食事を運び、服を置いていき、具合が悪ければ薬もくれた。だから親代わりと言えば親代わりなのかもしれない。
でも、優しい人ではなかった。
「おい、お前」
それが私を呼ぶ声だった。
「飯だ」
ご飯が乗ったアルミの皿が床に置かれる。
「おい、お前、ここ汚れてるぞ。掃除しろ」
指をさされた場所を黙って掃除する。
私は店長から一度も名前で呼ばれたことがなかった。
「お前」「おい」「てめぇ」。
そのどれかが、私の名前の代わりだった。
最初は不思議にも思わなかった。
だけど、天井越しに聞こえてくる笑い声や話し声を聞いているうちに気づいた。
みんなには名前がある。
名前を呼ばれるたび、その人は嬉しそうに返事をする。
じゃあ、私は?
私は誰なんだろう。




