第五十六話 出汁の染みた冬瓜と、無口な父の涙。家族の絆を結び直す、凄腕板前のおもてなし
あの前代未聞の修羅場から一ヶ月。舞台は尾上家の実家へと移ります。
立派な板前へと成長した兄・実が、両親のために振る舞う手料理。
出汁の香りが漂う中、不器用な家族が再び一つになる、感動の第五十六話です!
後半には、皆様が気になっていた「お兄ちゃんのその後」についての朗報も……!? ぜひ最後までお楽しみください!
あの修羅場から、およそ一ヶ月が過ぎた。
季節は処暑を過ぎ、まだ暑いものの時折風が心地よく吹き抜ける週末、僕たちは尾上家の実家、つまり僕の家にに集まっていた。
昨晩から両親も名古屋からやってきている。
奥の台所からは、トントントンと小気味良い包丁の音と、鰹と昆布の極上の出汁の香りが漂ってきている。
「いやあ、助かるわぁ。今日はお母さん、座ってるだけでいいなんてねえ」
母の麻子は、ダイニングテーブルでお茶を啜りながら上機嫌だった。
母はいろいろな事情も理解してくれている、僕たちの最強の味方だ。
「曉子ちゃん、今日も本当に綺麗ねえ。悟にはもったいないわ」
「ふふっ、ありがとうございます、お母様。でも私の方こそ、悟さんにはいつも助けられてばかりで」
曉子さんが少し頬を染めて微笑むと、母は「あらあら」と嬉しそうに目を細めた。
和やかな女性陣に対し、リビングのソファに座る僕と父の間には、少しだけ硬い空気が流れていた。
無口で頑固な父は、腕を組んだまま、時折チラチラと台所の方へ視線を送っている。
父さんに、母さんが僕と曉子さんとの結婚のことを話をしたら、直ぐに会いに行くと言って聞かなかったそうだ。
不器用な父さんだけど、僕たちの事を祝福してくれている。
それを聞いて、僕は本当に嬉しかった。
なので父さんが落ち着きがない理由は僕や曉子さんの事ではない。
何年も音信不通だった兄さんが突然現れて、しかも今はプロの板前として実家の台所に立っているのだ。戸惑うのも無理はない。
「……お待たせしました」
やがて、パリッとした糊の効いた真っ白な白衣姿の兄・実が、大きなお盆に料理を乗せて現れた。
目にも鮮やかな真鯛と縞鯵のお造り。出汁の香りがふわりと立ち上る、穴子と冬瓜の炊き合わせ。そして、美しく飾り切りされた季節の野菜の天ぷら。
「すごい……! さすがお兄様、まるでお店みたいです」
曉子さんが目を輝かせると、兄さんは
「いや、店の厨房と勝手が違って少し手間取っちまった」
と照れくさそうに頭を掻いた。
料理がすべて並べ終わると、実はエプロンを外し、父と母の正面に立って、深く、深く頭を下げた。
「父さん、母さん。……何年も、自分勝手な理由で家を飛び出して、心配ばかりかけて、本当に申し訳なかった」
静かなリビングに、実の低く通る声が響いた。
「俺、高校を辞めた後……人間が信じられなくなって、どうしようもなかった時に、料理に救われたんだ。ごまかしの利かない、実力だけの世界で、必死に腕を磨いてきた。……ようやく、今の店でまともに料理を任せてもらえるようになったから、今日はこれを作りに来たんだ」
実は顔を上げ、両親を真っ直ぐに見つめた。
「心配かけてごめん。でも、俺はもう大丈夫だ。自分の足で、ちゃんと生きてる」
母は既に目頭を押さえて泣き出していた。
父は黙ったまま、おもむろに箸を手に取った。そして、兄さんが引いた出汁をたっぷりと吸った冬瓜を一口かじり、ゆっくりと咀嚼した。
ピンと張り詰めた時間が流れる。
「……美味い。美味いよ、実」
ぽつりとこぼした父の言葉に、実の肩がビクッと跳ねた。
「父さん……」
「本当にいい仕事だな、実。……お前がどれだけ厳しい世界で、逃げずに頑張ってきたか、この味が全部教えてくれる」
父の目にも、光るものがあった。
「よく、帰ってきたな。実」
「……っ、父さん!」
実は両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせて泣き崩れた。
僕も堪えきれず、隣に座る曉子さんとそっと手を握り合った。曉子さんの大きな瞳からも、ポロポロと温かい涙がこぼれ落ちていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食事が終わり、両親が和やかに曉子さんと歓談している隙を見て、僕は縁側でタバコを吹かしている兄の隣に腰を下ろした。
「兄さん、板前がタバコなんて吸ってもいいの?よく、味音痴になるからダメって聞くけど」
兄さんはふっ、と笑った。
「ああ、お前の言う通り本当はタバコなんてダメだ。でも、今日は久しぶりなんだ」
兄さんも、胸のつかえがとれて、少しリラックスしたくなったのだろう。これくらいは兄さんの店の板長も大目に見てくれるといいんだけどな。
「あ、改めてだけどさ、今日は本当にありがとう。最高に美味かったよ」
「ああ。……悟のおかげだ。お前が背中を押してくれなかったら、俺は一生父さんたちと向き合えなかったかもしれない」
兄さんは紫煙を空に吐き出しながら、どこかスッキリとした顔で笑った。
「なあ兄さん。……その、本当に吹っ切れたのか?」
僕は少しだけためらいながら、一ヶ月前のあの「修羅場」について尋ねた。
すると実は、「ははっ」と声を上げて笑った。
「当たり前だろ! お前と曉子さんの様子を見てたら、俺が入る隙なんざ一ミリもねえって嫌でも分かったよ。俺の初恋は最高だったって、胸にしまっとくさ。……それに」
兄さんは、少しだけバツが悪そうに鼻の頭を掻いた。
「初恋って、兄さんにもいい人はいなかったの?」
「まあ、唐変木な中高生だったし、板前修業中に彼女なんて作る暇なかったさ。……でもな、実はさ。最近、ちょっと厄介な常連客がいてな」
「常連客?」
「ああ。この一ヶ月、休みの日にわざわざウチの店までお忍びで来る、口の悪い女がいてさ。カウンターに座るなり『アタシの舌を満足させてみなさいよ』なんて偉そうに言うんだよ」
僕はピンときて、思わずニヤリとしてしまった。
「それって……」
「まあ、こっちもプロだからな。ムキになって最高の魚を出してやったら、『……美味いじゃない。生意気な顔してるくせに』ってドヤ顔で言いながら、出汁の一滴まで綺麗に平らげやがって」
兄さんの言葉の端々には、不満を装いながらも、どこか隠しきれない嬉しさが滲み出ている。自分の仕事を真っ向から評価し、綺麗に食べてくれる相手への、職人としての深い敬意と好意だ。
「それで? その人とはそれっきり?」
僕は分かっていたけど悪戯っぽく兄さんに聞いてみた。
「バカ言え。生意気言われたままじゃ腹の虫が治まらねえから、俺も仕事終わりにあいつの店に顔出して、高い酒を『ツケで』飲んで文句言い返してやってるよ。……まあ、あいつと話してると、なんか変に落ち着くんだけどな。口は悪いが、真っ直ぐな女だから」
「ふふっ、お兄様ったら」
いつの間にか、後ろに曉子さんが立っていた。彼女は僕たちの会話を聞いていたのか、悪戯っぽく微笑んだ。
「クレアさん、最近お店でもすごく楽しそうなんですよ。時々、休憩室で『あの生意気な板前、今度はどんな料理出すつもりかしら』なんて、嬉しそうに呟いてますし」
「なっ……! あいつ、店でそんなこと言ってんのかよ!」
兄さんは耳の裏まで真っ赤にして、慌ててタバコを灰皿に押し付けた。
「と、とにかく! 俺は俺で楽しくやってるから、お前らは俺の心配なんかしないで、とっとと幸せになりやがれってことだ!」
照れ隠しで怒鳴る兄さんの背中を見て、僕と曉子さんは顔を見合わせて吹き出した。
「ありがとうございます、お兄様」
曉子さんが柔らかくお辞儀をする。
「……あのさ、曉子さん。これからは『お兄様』じゃなくて、普通に『お兄さん』でいいよ。家族になるんだからさ」
「はいっ。お義兄さん!」
晩夏の風が、縁側の風鈴をチリンと鳴らした。
大人に絶望し、バラバラになっていた家族の時間が、今、しっかりと一本の太い絆で結び直された。
僕たちはついに、二人で歩む未来への、最後の大きなハードルを越えたのだ。
最後までお読みいただきありがとうございました!
お父さんの「よく帰ってきたな」で涙腺が崩壊しました……。お兄ちゃん、ごまかしの利かない世界で本当に立派になって(泣)。
そして後半! まさかのクレアさんとのフラグ成立キターー!!
口の悪い女と真っ直ぐな板前、最高にお似合いのカップル誕生の予感にニヤニヤが止まりません。
クレアさんも休憩室で嬉しそうにしてるなんて可愛すぎますね!
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