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第五十四話 大門社長が連れてきた『本物』の板前。絶望していた俺の魂を救ってくれたのは、弟の婚約者でした

 今回は視点が変わり、神楽坂の高級割烹で包丁を握る一人の板前の物語から始まります。


 過去のトラウマから心を閉ざし、嘘偽りのない料理の世界だけで生きてきた男。


 しかし、あの大門社長に腕を認められたことで、彼の運命の歯車は大きく回り始めます。


 大門社長に連れられて訪れた『堕天使』で彼を待っていた、残酷すぎる運命のイタズラとは……!? 息を呑む第五十四話です!

 刃がまな板に触れる、トッ、トッ、という小気味良い音が、ピンと張り詰めた厨房に響き渡る。


 神楽坂の石畳の路地裏にひっそりと暖簾を掲げる高級割烹『水月(すいげつ)』。


 その板場に立つ尾上 実(おのうえ みのる)は、一切の迷いがない手つきで、見事な真鯛に包丁を入れていた。


 白く透き通るような身が、寸分の狂いもなく均等な厚さに切り出されていく。


 断面の美しさは、そのまま舌触りの滑らかさに直結する。


 指先に全神経を集中させ、魚の温度、脂の乗り、筋の入り方を読み取りながら、瞬時に最適な刃の入れ方を判断する。


 嘘や偽りのない世界。


 それが、尾上がこの厳しい板前の世界に身を投じた、唯一にして最大の理由だった。


 魚は、新鮮であれば美味いし、鮮度が落ちれば生臭くなる。


 出汁は、昆布と鰹節を適切な温度と時間で引けば極上の旨味を出し、少しでも手を抜けば雑味が出る。


 そこには、何の偏見も、忖度も、理不尽な言い掛かりも存在しない。


 やったこと、手をかけたことだけが、そのまま「味」という確固たる結果になって返ってくる。


 この狭く厳しい厨房だけが、彼にとって唯一、呼吸ができる居場所だった。


 十数年前。まだ高校生だった彼は、理不尽な大人たちの手によって、自らの尊厳を無残に踏み躙られた。


 部室で起きた財布の盗難事件。真っ先に犯人として疑われたのは、少し目つきが悪く、教師に媚びへつらうことのなかった実だった。


『お前以外に誰がいる。普段の態度を見ればわかる』


『正直に言えば許してやる。お前みたいな目をした奴は、どうせロクな大人にならないんだ』


 何度否定しても、誰も信じてくれなかった。最初から結論ありきで追い詰められ、まるで汚物を見るような目を向けられ続けた。


 信じていた世界が崩れ去る音を聞いた。人間が恐ろしくなり、大人という生き物が心の底から気持ち悪くなった。


 このまま家にいれば、両親や、三歳下の真面目な弟・悟にまで迷惑がかかる。自暴自棄になった実は、ほどなく高校を中退し、半ば逃げるようにして家を飛び出した。


 あてもなく彷徨い、行き着いたのが、とある小料理屋の裏口だった。


 腹を空かせてうずくまっていた彼に、無口な板長が黙って差し出してくれたのは、アラ汁と塩むすび。


 その、臓腑に染み渡るような嘘偽りのない美味さに、尾上は声を上げて泣いた。


 それ以来、彼は学歴も過去の傷も問われない「料理」という実力主義の世界で、ひたすらに腕だけを磨き続けてきたのだ。


「……尾上。二番の個室、大門社長だ。今日はお前が直接ご挨拶に行ってこい」

 板長の渋い声で、尾上はハッと我に返った。


「はい。すぐに行きます」


 尾上は包丁を丁寧に拭い、居住まいを正した。


 大門社長といえば、電子部品商社業界の重鎮であり、一代で会社を築き上げた豪腕のワンマン経営者だ。


 この『水月』の常連でもあるが、非常に気難しく、料理の味だけでなく職人の「姿勢」にまで厳しい目を向けることで知られている。


 実は緊張を腹の底に沈め、美しい蒔絵の施された椀物を盆に乗せ、二番の個室の襖を静かに開けた。


「失礼いたします。本日の椀物は、アイナメの葛打ちと、蓴菜(じゅんさい)清汁(すましじる)仕立てでございます」


 深く頭を下げ、大門社長の前に椀を置く。蓋を開けると、柚子の爽やかな香りと共に、黄金色に澄み切った極上の出汁が立ち上った。


 大門は黙って椀を手に取り、一口、出汁を啜った。


 ピタリと動きが止まる。個室の空気が一瞬、張り詰めた。


「……ほう」


 大門は短く息を吐き、椀を置いた。そして、鋭い鷹のような目で尾上を真っ直ぐに見据えた。


「親方の味じゃないな。お前が引いた出汁か?」


「はい、左様でございます」


「……見事だ。昆布の甘みが際立っているが、決して魚の邪魔をしていない。これだけの出汁を引くには、相当な根気がいるはずだ」


 大門は満足げに頷くと、手元の猪口に日本酒を注いだ。


「最近はどうも、小綺麗な理屈を並べ立てる若者ばかりで辟易していたんだがな。……どうやら、この店にはまだ『本物』が残っていたらしい」


「恐れ入ります」


「お前、名はなんと言う?」


「尾上、と申します」


 大門は、尾上の顔から視線を下げ、膝の上に添えられた彼の手元を見た。


 過酷な水仕事で荒れ果て、油跳ねの火傷の痕が無数に残る、無骨で太い指。


 それは、決して見栄えのいいものではなかったが、料理という仕事から一切逃げずに立ち向かってきた証でもあった。


「いい手をしているな。尾上君」


 大門の言葉に、尾上は僅かに目を見開いた。


「不器用だが、決して手を抜かず、誠実に生きてきた男の手だ。私はそういう、泥臭くて真っ直ぐな人間が一番好きでね。……お前、今日はこの後あがりか?」


「あ、はい。このお座敷が引けましたら、本日はあがりとなりますが」


「そうか。ならば着替えて、店の前で待っていろ」


「えっ?」


「いい仕事には、いい酒で報いるのが私の流儀だ。……とびきり『いい気』が流れている店に連れて行ってやる。板長には私から話を通しておこう」


 反論を許さない、有無を言わさぬ大門の迫力に、尾上はただ「は、はい」と深く頭を下げることしかできなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 一時間後。大門の運転手付きの黒塗りセダンは、静かな神楽坂を抜け、夜の新宿へと滑り込んでいた。


 窓の外には、欲望と喧騒が入り混じるギラギラとしたネオンサインが流れていく。


 尾上は、普段着の洗いざらしのシャツとチノパンという自分の格好が、この街にひどく不釣り合いに思えて落ち着かなかった。


「緊張することはない。あそこは、お前のような職人をこそ、正当に評価してくれる店だ」


 大門が上機嫌でそう言うと、車は靖国通りを曲がり、煌びやかなビルの前で停車した。


 エレベーターで上がり、重厚な扉が開く。


『堕天使』。


 その非日常的な空間の美しさと、ふわりと漂う高級な香水の匂いに、尾上は思わず息を呑んだ。


 黒服の男性——葉山店長がうやうやしく頭を下げる。


「いらっしゃいませ、大門様。お待ちしておりました」


 案内されたVIP用のボックス席。座り心地の良すぎるソファに身を縮めている尾上の前に、二人の女性が静かに腰を下ろした。


「いらっしゃいませ。大門様。今夜も素敵ですね」


「社長、お待ちしてましたよ。……あら、今日は珍しいお連れ様ですね」


 場を一瞬で華やかにする姐御肌の女性クレアと、そして——。


 尾上は、もう一人の女性から目が離せなくなってしまった。


 透き通るような白い肌。凛とした、それでいて全てを包み込むような深い慈愛を湛えた瞳。


 彼女が微笑んだ瞬間、尾上の周囲の喧騒がスッと遠のき、世界に彼女だけしか存在していないような錯覚に陥った。


(……なんだ、この人は。綺麗とか、そういう次元じゃない……)


「尾上くん、こちらが『りおん』ちゃんだ。私が知る限り、銀座や六本木を含めても最高のホステスだよ」


「も、申し訳ありません、俺なんかがこんな場違いなところに……」


 尾上は慌てて恐縮し、テーブルの下に自分の手を隠そうとした。


 美しい彼女の前に、自分の傷だらけで無骨な手を晒すのが、ひどく恥ずかしく、申し訳ないことのように思えたのだ。過去のトラウマからくる「自分のような人間は、綺麗な世界にはふさわしくない」という劣等感が顔を出す。


 しかし、りおんはおしぼりを取り出すと、尾上の隠そうとした手を、両手でそっと優しく包み込んだ。


「……っ」


 尾上の肩がビクッと跳ねる。


 だが、りおんは決して顔をしかめることも、戸惑うこともなかった。


 彼女の冷たく滑らかな指先が、尾上の火傷の痕を、包丁で切った古い傷跡を、愛おしむように撫でる。


「……とても、素敵なお手ですね」


 りおんは、尾上の目を真っ直ぐに見つめて、ふわりと微笑んだ。


「これは、決してごまかしが利かない世界で、ご自身の腕一つで戦ってこられた証です。不器用でも、真っ直ぐに、嘘をつかずに生きてきた職人さんの手ですわ。……私、こういうお手、本当に尊敬します」


 ドクン、と。


 尾上の胸の奥で、何かが決定的に弾ける音がした。


 大人に裏切られ、社会に絶望し、自分自身をずっと卑下し続けてきた。


 板長以外は、誰も自分の本当の姿なんて見てくれないと思っていた。


 だが、今目の前にいるこの天女のような女性は、自分の醜い傷跡を見て、そこに刻まれた「嘘偽りのない生き様」を瞬時に理解し、全肯定してくれたのだ。


「あ……」


 声が出なかった。目頭が急激に熱くなり、尾上は慌てて顔を伏せた。


 これまでの孤独で苦しかった十数年間の修行の日々が、彼女のその一言で、全て報われたような気がした。


「ほら見ろ。私の言った通りだろう、尾上君」

 

 大門社長が愉快そうにガハハと笑う。


「……はい。社長の仰る通りです。俺は……」


 尾上は顔を上げ、りおんを真っ直ぐに見つめ返した。その目には、かつての自暴自棄だった少年の影は微塵もなく、一人の男としての強い熱が宿っていた。


(この人だ。俺の人生を救ってくれるのは、この人しかいない……!)


 一目惚れなどというチャチな言葉では到底表現しきれない、魂の震え。


 尾上は、生まれて初めて「この女性に相応しい男になりたい」と強烈に願った。


 そんな彼の様子を、隣に座っていたクレアは、グラスを手にしたまま静かに観察していた。


「……ねえ、アンタ。お名前、尾上さんって言うの?」


「あ、はい。尾上です」


 姉小路は少しだけ目を細め、尾上の顔立ちをじっと見つめた。


 不器用そうで、真っ直ぐで、どこで見たような目。そして、「尾上」という名字。


(……ちょっと待ちなさいよ。この顔立ちと雰囲気、どこかで……)


 姉小路の脳裏に、かつて中学校の屋上で並んで語り合った、一人の少年の顔がフラッシュバックする。


『僕、そういう人を身近に見てきたからよくわかるよ。……兄さんだよ』


(——まさか。嘘でしょ?)


 姉小路は、目の前で「自分の弟の婚約者」に魂を奪われてしまっている哀れな男を見て、一人静かに息を呑んだ。


 新宿のネオンが窓の外で毒々しく瞬く中、尾上家の時計の針が、十数年の時を経て再び大きく動き出そうとしていた。

 最後までお読みいただきありがとうございました!

ちょっと待ってーー!!(大混乱) 大門社長、なんて数奇な運命を連れてきちゃったんですか!!


 傷だらけの手をりおんちゃんに肯定されて救われるシーン、単体で見たらめちゃくちゃ美しくて泣けるのに、「それ弟(悟)の奥さんになる人!!」という残酷すぎる事実のせいで感情がぐちゃぐちゃです!


 そして一瞬で全てを察したクレア(姉小路)の有能さよ……! 次回、修羅場という言葉では片付かない波乱が起きる予感しかありません!


「お兄ちゃん切なすぎる!」「クレアなんとかしてー!」と感情が爆発しそうになった方は、ぜひページ下部から【ブックマーク登録】や【★(星)でのご評価】、【応援コメント】をお願いいたします!


  皆様の熱いツッコミと応援が執筆の最大の原動力です。次回もお楽しみに!


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