第四十一話 彼女のお父さんの引っ越しを手伝ったら、いきなり『結婚はいつだ』と聞かれました。悲しい記憶を塗り替えるための、僕の答えは――
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
いよいよ、暁子のお父さんと真正面から向き合う時間がやってきました。
学者の命とも言える蔵書の山を前に、言葉ではなく行動で誠意を示そうとする悟。
しかし、お父さんからの問いかけは、悟の予想を遥かに超える直球でした。
辛かったこれまでの日々が、最高の未来への約束に変わる瞬間。ハンカチのご用意をお忘れなく!
曉子さんのお父さんは、木製のトレーにカップ&ソーサーのセットを三つ、それから銀製と思しきコーヒーサーバーを乗せてキッチンからやってきた。
トレーの上で、少しカタカタと微かに食器の触れ合う音がする。
「今日の豆はグアテマラなんだ。尾上くん、君はコーヒーには少し詳しいかね?」
「いえ、正直あまり存じ上げません。普段は缶コーヒーか、オフィスのマシンで済ませてしまうことが多くて」
「そうか。このグアテマラは、スッキリとした酸味を楽しめるんだ。酸味の強いコーヒーは嫌いかな?」
「深煎りしすぎた苦味の強いものよりは、酸味がある方が好きですね」
「なるほど。それなら、このグアテマラは気に入ると思うぞ」
そう言いながら、お父さんは銀製のサーバーからウェッジウッドの美しいカップに、丁寧にコーヒーを注ぎ込んでくれた。芳醇な香りが、インクと古い紙の匂いが染み付いた部屋にふわりと広がる。
その時、一瞬ではあるが奇妙な間が空いた。お父さんの、学者特有の鋭くも穏やかな視線が、僕の顔をじっと観察しているのを感じる。
「あの……コーヒーまでご馳走になってしまいまして、すみません」
「なあに、これは私の道楽だ。君たちをそれにお付き合いさせてしまっているに過ぎんよ」
「ねえ、お父さん。折角買ってきたのだから、アトムまんじゅうも召し上がって」
少し張り詰めた空気を察したのか、曉子さんが明るい声で促した。
「そうしよう。これは本当に美味なんだ。お持たせで申し訳ないが、尾上君もひとつどうかな?」
「ええ、もちろんいただきます」
梅雨時の分厚い雲の切れ間から、時折突き刺すような強い日差しが差し込む午後のリビング。
上品な酸味のコーヒーと、素朴な甘さのアトムまんじゅうを味わいながら、僕はこれからの会話の行方に少しだけ身構えていた。
「それで、どうするんだ、尾上君」
――それで、とは何を意味しているのだろうか。
僕はコンマ何秒かの間に、幾通りもの仮説を頭の中で組み立てた。
お母さんとの確執の事か? それとも、これからの曉子さんの仕事の事か? あるいは、僕自身のキャリアの事だろうか?
徒労だった。分からないものは分からない。知ったかぶりをするより、素直に聞くのがよいだろう。
「す、すみません。『それで』とは……」
「ああ、すまんね。私の悪い癖だ。自分の言いたいことを言うときは、つい主語を端折ってしまうんだ」
「そういう意味では……僕の方こそ、いろいろと思い当たる節が多すぎるもので、どれについてお答えすべきかと逡巡していました」
「ははは。君は少し気を遣いすぎる質だね。グアテマラを飲んで、もう少しリラックスしなさい」
「はい」
僕は促されるまま、グアテマラをもう一口含んだ。
爽やかな酸味が口の中に拡がり、少しの心地よい苦みが次いでやってくる。本当に美味しいコーヒーだ。
「これはとても美味しいコーヒーですね。どこでお求めになったのですか?」
「峰南町に、宮坂珈琲店という自家焙煎をやっている喫茶店があってね。そこでマスターにお願いして焙煎してもらったものを、さっきコーヒーミルで挽いたんだよ」
「香りがとてもいいわ。お父さん」
「私が家を出る前は、お前はブラックのグアテマラなんて飲んだことはなかったのにな」
曉子さんのお父さんは、ふと、失われた歳月を愛おしむような、少し寂しそうな表情をした。そして、カップをソーサーに静かに置くと、僕の目を真っ直ぐに見て言った。
「それで、『どうする』の意味だがね」
お父さんは、少しはにかんだような、それでいて有無を言わさぬ真剣な表情で言った。
「君たちの結婚は、いつにするんだい?」
あまりにも唐突すぎる直球の質問に、僕の思考は完全に停止した。
隣に座っていた曉子さんが「お、お父さんっ!?」と顔を真っ赤にして慌てふためく声が、ひどく遠くに聞こえた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの一瞬、僕がどうやって我に返り、お父さんにどんな言葉を紡いだのか。正直に言うと、極度の緊張のあまり半分くらい記憶が飛んでいる。
ただ、その後の引っ越し作業は、僕の誠意と覚悟を「体」で示す絶好の機会になった。
「お父さん、この『フランス文学史①』の箱、かなり重いですね。僕が運びますよ」
「尾上君、すまんね。ボードレールやプルーストの全集が入っているから、腰を痛めないように気を付けてくれ」
「大丈夫です。任せてください」
スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げて、僕はひたすらに段ボールと格闘した。
学者の命とも言える大量の蔵書。それを決して傷つけないように、隙間に緩衝材を詰め、丁寧に、しかし手際よく箱詰めしていく。
額に汗を滲ませて埃まみれになっている僕を見て、曉子さんが冷たいおしぼりを渡してくれたり、お父さんが「少し休憩しよう」と何度も声をかけてくれたりした。
言葉で飾るよりも、こうして一緒に汗を流し、彼女の家族の大切なものを共に守る行動こそが、何よりの証明になる気がしたのだ。
「二人とも、本当に助かったよ。これで明日の引っ越し業者に間に合う。正直、私一人ではどうしようかと思っていたんだ」
「この書籍の量ですからね。単に箱に詰めるだけでは、運んだ先で箱を開けたときにどこに何があるか分からなくなって大変でしょうし。微力ですが、お手伝い出来てよかったです」
全ての作業が終わる頃には、既に午後八時を回っており、窓の外には夜の帳がとっくに降りていた。
お父さんの荷物は、廊下や書斎にうず高く、かつ整然と積まれて明日の搬出を待つばかりになっている。
「夕食はどうするんだい? 私はいつも夕食は取らない主義だが、君たちのために何か店屋物でも取ろうかね」
「いえ、お父さんが召し上がらないのであればお構いなく。たくさん動いてお腹も空きましたし、これから食事がてら、曉子さんをご自宅まできちんとお送りします」
「そうか。それでは頼むよ、尾上君。君になら、安心して任せられる」
お父さんのその言葉には、数時間前とは違う、確かな信頼の響きが混じっていた。
「はい、お父さん。お任せください」
「曉子とは、明日あの家で逢えるな」
お父さんが優しく微笑みかけると、曉子さんも嬉しそうに頷いた。
「私、明日は向こうの部屋の片づけ、一緒に手伝うよ」
「それは助かるが、君は君の時間をもうちょっと大事にしなさい。それほど急いで片づける必要なんてないんだから」
暁子さんのお父さんは、あっ、と軽く唸って言った。
「そうそう、大切な事を言いそびれるところだった。このマンションは、君たちが住むと良い。もちろん、気に入ったら、の話だが」
「滅相もないです!」
「もちろん家賃は取るぞ(笑)」
「あはは、もしお世話になるならもちろんですよ」
そんな温かいやり取りをした後、僕と曉子さんはお父さんのマンションを辞去し、高田馬場駅へと向かってゆっくりと歩き出した。
夜になってもまだ蒸し暑く、歩いているとワイシャツの下に少し汗ばんでくる。
学生たちの賑やかな笑い声や、居酒屋のネオンの明かりが交差する街中を、僕たちは少し距離を開けて歩いていた。お互いの手が触れそうな距離で、二人とも何となく無口だった。
気まずいわけじゃない。今日のあまりにも濃密な出来事の余韻を、それぞれが心の内で噛み締めているのだ。
それでも、駅の改札が見えてきた頃、おもむろに曉子さんが口を開いた。
「お父さん、『結婚はいつにするんだ』って……凄かったですね」
彼女の頬は、夜の街灯の下でも分かるくらい少し朱に染まっていた。
「うん、本当にびっくりしたよ。お父さんとは今日初めて会ったばかりだし、この二ヶ月間、本当にいろいろなことがあったから……あんな風に一気に話が進むとは思ってもいなかった」
「私もびっくりしました。でも……嬉しかったわ。悟さんが、あんな風にハッキリと答えてくださって。ちゃんと私のこと、考えてくださっていることが分かったから」
あの時。
思考が停止した数秒の後、僕は姿勢を正し、お父さんの目を真っ直ぐに見つめ返してこう答えたのだ。
『来年の六月に、最高の結婚式をさせてください。曉子さんやお父さん、お母さん、皆さんが心から笑顔で楽しんでくれるような、そんな結婚式を挙げたいです』と。
「どうして……来年の六月なの?」
立ち止まった曉子さんが、上目遣いに、つぶらな瞳で僕を見上げていた。街の喧騒が、急に遠ざかった気がした。
「ジューンブライド、っていうのもある。でも、一番の理由は……僕が自分の不甲斐なさのせいで、曉子さんに急に会えなくなったのが『六月』だったからだ」
「悟さん……」
「僕にとって、そしてきっと曉子さんにとっても、今年の六月は辛くて、苦しい一ヶ月だったと思う。だから僕は、来年の六月に結婚することで、この悲しい記憶を完全に上書きしたいんだ。いつか未来で振り返った時に、『六月には、一番最高の出来事があったんだ』って……曉子さんに、六月という季節を心から愛してほしいと思っているから」
「……っ」
曉子さんの大きな瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は両手で口元を覆い、首を横に振った。
「悟さん、ありがとう。でも……私は、悟さんにこんなに良くしてもらってばかりで、どんなことをお返しできるのかしら」
泣きそうな顔で、震える声で曉子さんはそう言った。
「お返しが欲しいなんて、僕は思っているわけじゃないさ」
僕は一歩だけ彼女に近づき、そっとその肩を引き寄せた。
「曉子さんに、これからの人生を一生笑って過ごしてもらいたい。ただそれだけが、僕のたった一つの望みなんだよ」
最後までお読みいただきありがとうございました!
いやぁ……悟、めちゃくちゃカッコいいですね!!
「六月の悲しい記憶を完全に上書きしたい」なんて、これ以上ない最高のプロポーズの言葉じゃないですか(泣)。
お父さんの「結婚はいつにするんだい?」というアシスト(?)も最高でしたし、アトムまんじゅうとグアテマラの組み合わせも試してみたくなりました。
辛い日々を乗り越え、最高の約束を交わした二人!
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