第三十三話 繋がった連絡先と、四谷の夜。天敵・都賀常務と対峙する『食えない』父親
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悟たちの知らないところで、運命の歯車が大きく回り始めます。
伝言を受け取った暁子の父・宜史は、弟である吉永部長を呼び出しますが、向かった先にはなんと天敵である都賀常務の姿が。
仏文学の権威である兄と、投資銀行出身の冷徹な常務。一見穏やかな会話の裏で、弟を救うための静かな火花が散り始めます。
「あ、吉永先生? 紅羽書店の春日でございますが」
「春日君か。もしかするとギョーム・アポリネールの詩集の原書が仕入れできたのかね?」
「ああ、それは違います」
「なんだ、ぬか喜びしたじゃないか。それで何の用向きかな?」
紅羽書店の春日が悟と結衣香が訪れてきたことを伝えようと、暁子の父、吉永 宜史に電話を掛けたのはその日の午後7時ごろだった。
「ええ、今日、お嬢様とお付き合いをしている、という男性がウチに来まして」
「暁子の?」
「はい。そのようです」
「で、どんなことを言っていたんだい?」
「お嬢様が、元の奥様に軟禁されているとかで……」
「なんだって? 本当かね?」
「真偽は私にはわかりません。とにかく一度ご一報をいただきたいとのことでした」
「わかった。その彼の連絡先を教えてくれないか? ええと、メモ帳はどこだったかな」
「先生、慌てなくともこの春日いつまででもお待ちしますよ」
「あああ、あった。では頼む」
「尾上悟さん、とおっしゃっていました。電話番号は070-85xx-47xxです」
「復唱するぞ。070-85xx-47xxで合っているか?」
「はい、相違ありません」
「そ、それで……」
「何ですか、先生」
「どんな男だった」
「尾上悟さん?」
「そ、そうだ」
「名刺をもらいましたが、関東テクノス、という半導体素材の営業マンだそうです」
吉永 宜史は、すぐにピンときた。
(ははあ、衛の取引先のヤツだな)
「わかった。ありがとう。では続けてギョーム・アリポネールの件は頼んだぞ」
電話は一方的に切れてしまった。
「せわしないことこの上ないなあ。先生は」
春日はそう独り言ちて、片付けが終わった店内を見まわし、そして入口のシャッターを内側から閉めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「どうしたんだ、兄さん」
常務の都賀から出された難題を解決するために残業していた岩田電産の購買部長、吉永 衛は兄、宜史から掛かってきた1年ぶりくらいの電話に少々驚いていた。
「ああ、ちょっと衛に聞きたいことがあってな」
「兄さん済まないけどちょっと今忙しいんだ。後で構わないか?」
「ああ、すまなかった。最近調子はどうなんだ?」
衛は周囲を気にして口元を右手で隠し、小声で答えた。
「ああ、新しく来たやり手の役員のお陰で社内はこの半年間上へ下へ大混乱だ」
「そうか。そこら辺の愚痴も聞いてやるから、仕事が終わったら一杯やらんか?」
「うーん、あと1時間くれるかな?」
「わかった。場所はどうする? お前の会社のそばまで行っても構わんぞ?」
「それはありがたい。じゃあ四谷駅の改札でいいかな」
「よし、それじゃあ後でな」
電話は一方的に切れた。
「兄さんもせわしないな」
そうつぶやくと、またPCの画面をにらんで仕事を再開させた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「兄さん、待たせたね。ごめんごめん」
「大会社の部長様だ、忙しくて大変だな」
「兄さんだって日本でのフランス文学の権威じゃないか。俺なんて単なる上司の使い捨ての駒だよ」
「まあそう腐るな。早いところ一杯やりながら聞こうじゃないか」
兄弟仲は決して悪いわけではないが、宜史夫妻が離婚したことや、互いに多忙な身であるため一緒に食事をとることも近年では稀になっていた。
四谷駅前の四谷見附の交差点を渡り、外堀通りを少し市ヶ谷方面に歩いてしんみち通という路地に入ると、衛の行きつけの小料理屋、「埜上」はあった。
「女将、二人なんだが大丈夫か?」
「あらあらお久しぶりね。まあご覧の通りの大盛況なの」
齢六十手前、といった感じの美人女将は、やれやれという感じで自虐的に言った。
店の中には先客はカウンターに座っている一人だけであったからだ。
「どこでも好きなところにお座りくださいな。吉永さん」
女将が衛の名前を呼ぶと、カウンターの男が顔を上げた。
衛はその男の顔を見て凍り付いた。
「じ、常務」
衛を追い詰めている張本人がそこにいたのだった。
「こんなところで奇遇ですね、吉永購買部長」
男は、岩田電産常務取締役、都賀康介である。
都賀は外資系の投資銀行出身で、岩田電産社長の潮見が自ら引き抜いた財務のプロである。
潮見は都賀を後々は自分の後継者に、という思惑もあるが、台湾や韓国にすっかり押されてしまった半導体のビジネスの反撃に出るには、まずしっかりした社の財政基盤を築くために無駄を排除し、収益性を高めるためのすべての手段を講じるよう命じていた。
それがサプライヤー納入金額一律15%引き下げ要求につながっている。
悟の会社、関東テクノスはこの荒唐無稽な要求を、将来的なコスト見通しの元に別提案していわば難を逃れたが、策のないサプライヤーはそれこそ乾いた雑巾を絞るように価格引き下げに応じていた。
購買部長としての吉永はこれらサプライヤーからの怨嗟を受け、忙殺されていたのだ。
都賀は関東テクノスから手痛く一杯食らわされたが、今のところ潮見からの覚えはめでたいようでいまだに意気軒高と無茶苦茶なプロジェクトを遂行している。
「常務が埜上にいらっしゃるなんて、少しびっくりしています」
「それはこちらも同じだよ。女将とはもう長い付き合いでね。ところでお連れの方はどなたかな?」
吉永 衛は都賀の冷酷で尊大な人間性を考えてどう答えるべきか一瞬逡巡したが事実を答えた。
「私の兄なんです。フランス文学の研究者をしていまして」
水を向けられた吉永 宜史は、
「衛のご上司でらっしゃいますか。衛の兄の宜史と言います」
と言葉を継いだ。
「フランス文学ですか」
「ええ。あまり実業には役に立たないとよく言われますがね」
「まあ立ち話もなんですから、お座りになられては。もちろん、お二人の邪魔だては致しませんよ」
「いえいえ、衛の上司の方にお会いできたのも何かの縁でしょう。差し支えなければご同席させていただいても?」
宜史の答えは都賀にとっては想定外の反応だったようで、少し大きく目を見開いたが、落ち着き払って言った。
「そうですね、吉永部長のお兄様があの有名な吉永宜史教授とは。ご同席いただけるなんて私も光栄のみぎりですよ」
衛には二人とも本意でそう言っているようには見えなかった。
少なくとも都賀は間違いになく本意ではないだろう。
兄はどうだろうか。
都賀が自分の愚痴の対象であることは宜史にもわかっただろう。
くせ者として名を馳せている宜史の事、何か狙いがあってのことだと思わざるを得なかった。
カウンターに三人、都賀、なぜかその隣に宜史、衛の順で並んだ。
(兄さんが余計なことを言わなければいいが……)
そう心配しているのをよそに、宜史と都賀は楽しそうに話し始めた。
「都賀常務は私のことをご存じのようですが、フランス文学を専攻されていたのでしょうか?」
「いえ、私は経営学科でね。投資ポートフォリオ分析なんてものをやっていましたからフランス文学は完全に趣味の世界です」
「ほほう、それではどんな作家の本をよく読まれるのでしょう?」
「私は遠藤周作のファンでしてね。遠藤がカトリック文学を極めるためにリヨンに留学していたという話からフランス文学には興味をもっていましてね」
二人がそんな会話を繰り広げることなど想像だにしていなかったので面食らっていた。
二人は20分も話しただろうか。
仏文学には全く明るくない衛は二人の会話には相槌をうつくらいしか参加するすべがなかったのだが、すっかり打ち解けたように見えた宜史は都賀にいきなり切り出した。
「ところで常務。このところこの衛があまり顔色が優れんのですが、会社で何かあったのでしょうか」
「兄さん、そんな事なぜ常務に聞くんだ?」
あまりに唐突で衛は慌てた。自分が苦境に立たされていることは衛にはこれから話そうと思っていたのだ。内容も知らない宜史がなぜそんなことを?
「まあまあ、吉永部長、大丈夫だよ。吉永先生、弊社は今大きな変革時期でしてね」
宜史は難しそうな顔をしながら聞いている。
「全社で財務体質を次の5年間で世界と闘える体力にもっていかねばなりません。ですので吉永部長にはご自分の職責で貢献できる分野の改善をお願いしているわけです」
「そうですか。常務、こいつはこう見えて骨があるやつでしてね。ちょっとやそっとで弱音を吐くような男ではないんですよ。それが久しぶりに会ってみると、まるで生気もないしどうしたのかと」
二人の危なっかしい会話を聞いて気が気でない衛であった。
ご愛読ありがとうございます。
今回はお仕事小説としての魅力がギュッと詰まった、渋くて熱い回でした。吉永部長が裏でどれほど苦悩していたかが描かれ、だからこそ兄である宜史が都賀常務に切り込むシーンにはハラハラさせられました。
張り詰めた空気の中、宜史が次にどんな言葉を繰り出すのか、次回の展開から目が離せません!
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