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諸勢力

東方監察府。

雪雲に覆われた巨大な政庁は、既に麻生廣頼の軍勢によって制圧されていた。

廊下には武装兵が立ち並び、旧来の役人たちは監視下に置かれている。

かつて官僚たちの往来で満ちていた府庁は、今や剣戟と怒号の気配に支配されていた。

広間の上座。

麻生廣頼は、静かに地図を見下ろしていた。

年齢の割に老けて見える男だった。

鋭い目。

削げた頬。

だが、その眼光だけは異様に強い。

「……旧市民警察を占拠した部隊ですがぁ……」

間延びした声が響く。

寺下晴臣だった。

痩せた身体を揺らしながら、巻紙を読む。

「鎮圧されましたぁ……。生き残りは散り散りかとぉ……」

「姉賀久繁も討たれたそうです」

続けたのは姉賀久能。

冷静な男だった。

常に感情を抑え、状況を俯瞰している。

「端原が動いた以上、彼らは既に明確に我々を“反乱勢力”と見なしています」

その瞬間。

酒盃を握っていた男が、乱暴に机へ叩きつけた。

姉賀久綱。

長髪を乱し、酒と薬の匂いを漂わせている。

「……久繁を殺したのは端原だな」

笑っている。

だが目は笑っていない。

「壮真の野郎……気取った顔しやがって」

久綱は薬を噛み砕きながら吐き捨てた。

「そのうち内臓引きずり出して吊るしてやるよ」

隣で姉賀久臣が僅かに眉を寄せた。

だが何も言わない。

彼は穏健派だった。

だが強く押されると逆らえない。

それを自分でも理解していた。

「各地への盟約はどうなっている」

廣頼が問う。

晴臣が答えた。

「内神、習師辺、飛渡、素原……それぞれへ使者は送ってますぅ……」

「麻霧もだな」

廣俊が口を挟む。

年は若いが父に似て、目だけが妙に冷めていた。

「連中、まだ旗色を明確にしてない」

「当然だ」

廣頼は即答した。

「武垣も麻霧も、昔からそういう連中だ」

その時。

障子が開く。

入ってきた男を見ても、誰も咎めなかった。

霊殿瓜顕。

廣頼の腹心。

いや――半ば対等の立場だった。

「中央は割れてる」

席にも着かず、瓜顕は言った。

「首相は討伐を主張。だが大館の一部は実効支配を追認したがってる」

久能が視線を向ける。

「理由は」

「面倒だからだ」

瓜顕は鼻で笑った。

「今、中央には兵が無い。下手に討伐して泥沼になるより、東方を切り離して黙認したい奴も居る」

「葉村派は?」

「強硬」

「堂坂は」

「静観」

「幸端は」

「損得勘定中だ」

あまりにも露骨な物言いだった。

だが誰も咎めない。

廣頼だけが、小さく笑った。

「つまり時間が要る」

「そういうことだ」

瓜顕は頷く。

廣俊が地図を指した。

「武垣は?」

「従わんだろう」

廣頼は迷わず言った。

「麻生廣和を殺した時点で、あいつらは中央と繋ぐ腹だ」

「なら先に潰しますか?」

廣俊が尋ねる。

だが廣頼は首を振った。

「まだだ」

そして、声を落とす。

「まずは周囲を固める」

「それから――中央へ行く」

空気が変わった。

久臣が顔を上げる。

久能だけが、静かに廣頼を見ていた。

廣頼は続ける。

「穏健派は邪魔だ」

「寺地篤彦も、東府宗勝も」

「……処分する」

その瞬間だった。

廊下の向こう。

微かな物音。

久能の視線が動く。

瓜顕も同時に気配を察した。

障子が勢いよく開かれる。

だが。

そこには誰もいなかった。

ただ、遠ざかる足音だけが雪廊下へ消えていく。


政鶴文景は、息を切らしながら走っていた。

隣では大宮元宣が青ざめている。

「聞いたな……!」

「ああ……!」

二人は裏廊下を抜け、小部屋へ飛び込んだ。

そこには寺地篤彦がいた。

拘束下とはいえ、まだ形式上は穏健派の代表格である。

四六時中監視下に置かれ、緊張と焦燥で塗り固められた顔には、

今や疲労の気配が濃い。

「何事だ」

文景は荒い息のまま言った。

「廣頼は……中央へ攻め込む気です」

「その前に、我々を消す」

篤彦の顔色が恐怖に塗り変わる。

「……何だと」

文景は頷いた。

「もう時間がありません」

篤彦はしばらく沈黙した。

細い指が膝の上で組まれる。

迷っている顔だった。

平穏であること。秩序を守ること。

それが彼の信条だった。

だが今、その秩序そのものが崩れようとしている。

「……何とかせねばならん」

掠れた声だった。

しかし、その目には僅かに決意が宿り始めていた。



端原の本邸へ、首が運び込まれたのは夜半だった。

雪の残る庭を、兵たちが無言で進む。

邸内は血の臭いで蒸れていた。

広間に並べられた首を前に、誰一人として口を開かなかった。


姉賀久繁。

その側近たち。


端原壮真は、しばらく無言でそれらを見下ろしていた。

やがて静かに言う。


「……確認した」


下条寔が何事かを手記に書き留める。

筆を擦る音だけが広間に響いた。

翔吾は腕を組みながら鼻を鳴らした。


「派手にやったな」

「派手にせねば示しがつかない」


修身が答える。

敬達は、首の並ぶ様を見て低く呟いた。

「……久繁が死んでも」

豪政がぽつりと言う。

「廣頼は止まらないよな」


修身が静かに答えた。


「その通りです」

「むしろここからが本番だ」


敬達は、首の並ぶ様を見ながら低く呟く。


「これで終わりではない」

「東方そのものが割れ始めている」


「これで終わりではない」

「むしろ始まりだ」

その言葉に、誰も反論しなかった。


壮真は席へ戻る。

「東方監察府の情勢を」

下条が巻紙を開く。

「麻生廣頼は府庁を完全掌握。寺地篤彦、東府宗勝ら穏健派は拘束状態です」

「加えて」


速詰が地図へ磁石を置いた。

「武垣は未だ静観」

「麻霧も旗を鮮明にしておりません」

政文が腕を組む。

「どちらも様子見か」

「当然だ」

和政が静かに言った。

「今、軽々しく動けば、勝った側に潰される」

「武垣有彦はそういう男だ」

敬達が頷く。

「だが放置すれば廣頼は中央へ出る」

「東方だけでは済まん」

壮真は視線を巡らせた。


「政文」

「はい」

「麻霧へ向かえ。―時久も同行させる。

東方反乱鎮圧に向けての共同戦線という名目で、

派兵を要請するのだ」


時久が顔を上げた。

壮真は続ける。


「長池暠を補佐に付ける。麻霧の内情に通じている」

長池暠は静かに一礼した。

「了解」


怜が、横目に暠を見つめる。

暠の視線は壮真を見据えており、怜の方は見向きもしない。

怜は、下唇を弱々しく噛みしめながら、ついに目を逸らした。



「麻霧は利で動く」

和政が言う。


「自分の正義のみに従ってはならない。損得を誤るな」

政文は当然分かっているとばかりに短く舌を鳴らし、短く頷いた。

敬達が低い声で口を開く。


「……問題は東方監察府だ」

「穏健派を失えば、廣頼は完全に“東方の代表”を名乗る」

「それを許せば、中央も割れる」


下条が新たな書状を差し出した。


「寺地篤彦、東府宗勝より救援要請」


広間の空気が変わる。

壮真は即断した。

「救い出す」

翔吾が口角を吊り上げる。

「ようやく面白くなってきたな」

「遊びではない」

修身が睨む。

「分かってるよ」


豪政が顔を上げた。

その目には、張り詰めたような光があった。

「私が向かいます」

谷春と修身がこちらを見る。

「危険だぞ」

「分かってる」

谷春の短い諫言に、豪政は即答した。

「でも、あの人たちを見捨てたら、東方は本当に終わる」


その言葉に、壮真は一瞬だけ息子を見た。

幼さはもう無い。

だが真っ直ぐさだけは、変わっていなかった。危険なほどに。


壮真は静かに頷く。

「谷春、豪政。東府へ入れ」


谷春が即座に応じた。


「問題ありません」




数日後。


東方監察府と麻生山麓の境界付近。

吹雪の中、豪政たちは山道を進んでいた。

やがて前方の焚火の傍に、大柄な男の姿が見えた。


毛皮製の防護服姿。

豪放な笑い声。尾賀瀬諸澄だった。


背後には息子の稙澄も居る。

諸澄は豪政たちを見るなり笑った。


「よう、端原の坊ちゃん。話は聞いてるぜ」


豪政は警戒したまま問う。


「……あんたが尾賀瀬諸澄か」

「そうだ」


諸澄は焚火へ薪を放り込みながら言う。

「東府までの抜け道ァ任せろ」

「ただし」

不意に豪政を見る。

「お前さん、算術はできるか?」

「算術?」

「百人が二刻で山道を抜ける」

「だが途中で三割が荷を落とした」

「進軍速度はどうなる?」


豪政は眉をひそめた。

「……荷が減るなら、多少は速くなるんじゃないのか」


諸澄の目が細くなる。


「何故そう思う」

「人間、重いものを抱えていたら遅くなるだろ。それに山道なら、詰まる原因が減る」


諸澄はしばらく豪政を見ていた。

「フハハッ!!」

やがて豪快に笑う。

「なるほどなァ!!」


豪政は少しむっとした。

「何だよ」

「いや、勘だけで答えた割に筋が通ってる」


谷春が小声で言う。

「たまたまだろ」

豪政は振り返る。

「うるさい」


諸澄は笑いながら壮真から預かった書状を懐へ戻した。

「使えますぜ、この坊ちゃん」

そして地図を広げる。


「潜入は“捕虜を装う”。二志地域で捕縛した虜囚としておまえ達を門兵に引き渡す。

あとは東府穏健派と繋がってる者が府内で接触してくるだろう。そこで協力して脱出の策を案ずれば良い。我々は数日の間、東府近辺に滞在している。脱出の後、麻生までは我々が護衛に当たろう」


谷春が頷いた。


「かなり危険だな。すべての算段が綱渡りだ。あんたらが裏切ったり、俺たちの誰かの正体が見破られたら、しまいじゃないか」

「だから面白ぇんだろ」


諸澄は笑う。

だがその目だけは、少しも笑っていなかった。



端原本拠。

夜も更けた軍議の後、久彦と修身は、下条を呼び止めていた。

陣幕の外では、冬風が旗を鳴らしている。

卓上の燭台だけが静かに揺れていた。


修身が腕を組む。

「一つ聞きたい」

「壮真様は、どうやって尾賀瀬諸澄を動かしたんだ」


久彦も頷いた。

「諸澄は元々、中立寄りだったはずだ。金でも地位でもないなら、何を使った」

執事は少しだけ笑った。

「実にあのお方らしいやり方ですよ」

そう言って、文机の上へ一通の控えを書き置く。


修身が覗き込む。

そこには、驚くほど簡素な文しかなかった。


――尾賀瀬用水の流れは、実に見事であった。

――山間を縫い、冬にも絶えず水を運ぶ様は、まこと羨むべき土地の恵みである。

――いつか、悠々と眺めて歩きたいものだ。


久彦が眉をひそめる。

「……これだけか?」

「これだけです」

下条は淡々と答えた。


修身が呆れたように鼻で笑う。

「景色を褒めただけじゃないか」

だが、その笑いはすぐ消えた。修身はゆっくり文面を見つめ直す。


「……いや、待て。尾賀瀬諸澄は、そんな生易しい相手じゃない」

燭火が揺れる。

修身は低い声で続けた。


「二志と内神を跨いで商路を押さえ、帰化系の名家まで束ねてる男だ。息子や同輩と組んで、監察官代を消した時も、証拠一つ残さなかった。東府ですら尻尾を掴めなかった相手だぞ」


久彦も静かに頷く。

「地方の名士というより、小国の主だな。そんな奴が、どうしてこれだけで端原へ傾く」

下条は静かに卓へ指を置いた。


「尾賀瀬は、内神地域と麻生山嶺の境目にあります。そして尾賀瀬用水は、麻生側の山水を引いている」


久彦の表情が僅かに変わった。

下条は続ける。

「つまり――麻生が本気で敵に回れば、尾賀瀬の水は止まる。諸澄の支配する地域一帯が、干上がる」


修身が低く唸る。

「……脅し文句には見えんぞ」


「だからですよ」

執事は静かに笑った。

「壮真様は、一言も脅していない」

「ただ“美しい流れだった”と書いただけです」

「それだけで諸澄は理解した」

冬の風が、陣幕を揺らした。

下条は遠く東方を見やるように目を細める。

「水の流れを知る者は、水を失う怖さも知っている

だから諸澄は、壮真様が“止める側にも出来る”と悟ったんです」

久彦が小さく息を吐いた。

「……怖い人だな」

「ええ。敵に回すと、本当に怖いですよ。あのお方は」


その頃。

武垣では、有彦が雪庭を眺めていた。

息子、有頼が言う。

「端原へ付くべきでは」

「早計だ」

有彦は即答した。


「廣頼が勝つ可能性もある」

「だが端原も、既に東方の大義を握り始めている」


側近の大宮恒宏が低く言う。

「広館の噂も流れております」

有彦は目を細めた。


「……まだ見る。―どちらが“秩序”を握るかをな」




数日後。

東方監察府。

雪混じりの風が、巨大な石壁に沿って唸っていた。

灰色の空の下、縄を掛けられた数人の男たちが、武装兵に囲まれながら正門へ引き立てられていく。

皆、泥と雪に汚れた粗末な外套を纏わされ、見るからに捕虜の風体だった。


端原豪政。

端原谷春。

犬当年。

上大年数也。


数也の一人は青白い顔で震えている。

山道を越えてきた疲労だけではない。

監察府そのものが放つ重苦しい空気に呑まれていた。

門兵たちが槍を向ける。

「止まれ」

門兵の一人が前へ出た。

胸元の役員証に「武綱氏頼」と書かれている。

「用件を」

氏頼は顎で促した。


「二志の賊徒です」

諸澄が冷静に答える。丁重に利手を肩にあて、恭順の姿勢を見せる。


「山中で捕縛しました。廣頼様への引き渡しを」


門兵は豪政たちをじろじろ眺めた。


「随分若いな」

「賊って面か?」


豪政はわざと俯いたまま黙っていた。

その時だった。


石段の上から足音。

―姉賀久能。

細身の身体に濃色の外衣を纏い、冷え切った眼差しでこちらを見下ろしている。


空気が変わった。

門兵たちも姿勢を正している。

久能はゆっくり近づいてくる。


豪政は縄の下で拳を握った。


視線を上げるな。

息を乱すな。


谷春に言われた言葉を反芻する。

その谷春も、久能に気圧され、目尻が僅かに痙攣していた。

さすがの諸澄も黙り込み、様子を窺っている。

久能の目が止まった。


「……見ない顔だな」


氏頼が即座に応じる。


「最近は各地で人手不足です」

「久繁様も亡くなられた今、なおさら」


久能の目が細くなる。


「その話を誰から聞いた」

「府内は噂が早い」


氏頼は淡々としていた。


「隠しきれる話でもないでしょう」


沈黙。


雪だけが静かに降っている。

やがて後方から声が飛んだ。


「通せ」


霊殿瓜顕だった。

長身の男が、面倒そうにこちらを見る。


瓜顕は豪政たちを一瞥する。


「使えるなら使う。死ぬならその時だ」


久能はなお何か引っかかるような顔をしていたが、やがて道を開けた。


「……入れ」


重い門が開く。


豪政たちは監察府へ足を踏み入れた。

中庭を進みながら、数也が小声で言った。

「ぼ、僕、絶対顔に出てましたよね……」

当年がぼそりと返す。

「かなり出てた」

「やめて下さいよ……」

谷春は前を向いたまま言う。

「今からもっと酷い目に遭う。震えるなら後にしろ」

数也は半泣きで黙った。


豪政は周囲を見回していた。


高い楼。

巡回兵。

監視塔。


想像以上だった。


「……こんな所、どうやって逃げるんだ」


思わず漏らす。

その声に、氏頼が振り返りもせず答えた。


「まだ逃げる段階ではない―まず、生き残れ」


豪政は眉を寄せた。

その言い方が妙に引っかかった。


深夜。地下監獄の薄い一室。


蝋燭の火が揺れる中、寺地篤彦と東府宗勝が姿を現した。

二人ともやつれていた。


特に篤彦は頬が痩せ、長く拘束されていた事が一目で分かる。


「……端原か」


掠れた声だった。

谷春が一礼する。

「壮真様の命で参りました」

篤彦は豪政を見る。

「その顔……壮真殿の」

「息子です」

豪政は静かに答えた。

篤彦は僅かに目を見開いた。

「そうか……」


宗勝が周囲を警戒しながら言う。

「脱出路は、これから整える算段です―府内にもまだ協力者は居る。

決行は明後日の明方を考えております」

だが谷春は即座に首を振った。

「遅い」

宗勝が眉をひそめる。

「焦れば全員死ぬ。慎重に――」

「もう慎重に構えていられる段階ではありません」

谷春の声は低かった。


「こちらは既に動き始めている」

「監視側も、長くは誤魔化せません」

篤彦が顔を上げる。

その時だった。

廊下から足音。全員が息を止める。

障子の向こうから聞こえたのは、氏頼の声だった。


「監視の交代だ」

谷春が障子を開ける。

氏頼は周囲を確認すると、小さく言った。


「……話は後だ。今は俺を疑っていろ」


そのまま去っていく。

豪政は小声で言った。

「どっちなんだ、あの人」

当年が肩を竦める。

「さあな―でも、完全な敵なら、多分さっきの門で終わってる」



湿った監獄の土壁に灯火が揺れる。

地上では反乱軍の巡察が絶えず行き交い、足音が天井越しに鈍く響いていた。

谷春は周囲を確かめてから、小さく息を吐いた。

「時間がない。まず麻生廣俊を抑え、監禁する。

廣俊が消えている間に、久綱と久能を切り離す」

宗勝が不安げに頭を掻く。

「接触できるのか」

「はい」

谷春は頷いた。

「今、廣俊は西回廊の警邏を実質的に任されてる。諸澄の話を信じれば、最近、“穏健派の密使が監察府へ潜り込んでいる”って噂を流しているそうだ」


当年が目を細める。

「食いつかせる為の餌か」

「廣俊は功を焦ってる」

谷春は淡々と言った。

「廣頼の側近連中の中で、やつだけまだ決定的な戦果がない。だから“端原側の密使を捕えた”となれば、すぐ来る」


豪政が眉をひそめる。

「そんな単純か?」

「単純だ」

谷春は即答した。

「反乱の首魁、麻生廣頼のご子息

―きっと、疑い深いが自分だけは見抜けると思ってるタイプの奴だ」


当年は、宗勝が用意した地図へ視線を落とす。

「誘い出す場所は?」

「それなら、西回廊の警邏詰所が良いと思う」

宗勝が指で位置を示す。

「普段から廣俊自身が取り調べに使ってる場所だ。逆に言えば、彼はこの空間を警戒しない」

谷春が静かに頷いた。

「なるほど。自分の縄張りなら油断する」



数刻後。

西回廊では、谷春と当年が麻生廣俊を待っていた。

雪気を含んだ風が吹き込み、廊下の灯が不安定に揺れる。


二人の足元には、縛られた男が転がされていた。


監視役の役員だった。


口には布を噛まされ、怯え切った目だけが揺れている。

谷春がその襟を掴み、低く言った。


「廣俊殿には、お前が“穏健派の密使を裏門から通した”と証言する」

「余計な事を喋れば舌を抜く。分かったな」


男は震えながら何度も頷いた。

当年が小さく息を吐く。


「……こんなの、あいつが素直に信じるか?」

「信じなくても来る」


谷春は淡々としていた。

「廣俊は最近、廣頼から府内の警邏を任されて気が立ってる。“端原の密使”なんて功名話を捨てられる性格じゃない」


その時。

重い足音が近づいた。

麻生廣俊が現れる。後ろには護衛が二人。

廣俊は最初から険しい顔をしていた。


床へ転がされた役人を見る。


「……密使だと?」

「はい」

当年が自然な調子で答える。

「こいつが裏門で接触した所を押さえました」

「穏健派の使者は、西回廊の詰所へ――」

「嘘だな」


廣俊が遮った。

空気が変わる。

谷春が僅かに目を細めた。

廣俊は鼻で笑う。

「久能様から聞いてるぞ。最近、端原側が監察府へ探りを入れてるとな」

役員の髪を乱暴に掴み上げた。


「こいつも仕込みだろ」

役人は本気で怯えていた。それが逆に廣俊の猜疑心を煽る。

「芝居が下手過ぎる」

廣俊の手が刀へかかった。


「何を企んでる?」

当年は平静を崩さない。

「疑うならご自身で確認を。現場に案内します」

「その先で首でも掻き切る気か?」

護衛たちも殺気立った。

廣俊が一歩近づく。


豪政は陰から様子を見ていたが、思わず舌打ちした。

(駄目だ。久能に吹き込まれ過ぎてる)


谷春が静かに位置を変える。

だが動けば斬り合いになる。

その瞬間だった。


廊下の奥から声が響く。

「廣俊殿」

武綱氏頼だった。

廣俊が振り返る。


その表情から、警戒が僅かに薄れる。

氏頼は普段通りの疲れた顔で歩み寄った。

「騒ぎを聞いて来ました。何事ですか」

廣俊は鼻を鳴らす。

「ちょうどいい。こいつら妙だ」

氏頼は役人を一瞥し、それから当年へ視線を向けた。

「……裏門の件か?」

「はい」


谷春が短く答える。

氏頼は少し考える素振りを見せ、低く言った。

「俺も別筋から同じ話を聞いている。穏健派が動いてるのは本当です」

廣俊が眉をひそめる。

「本当か?」

「ええ」

氏頼は自然に頷いた。

「今ここで騒げば逃がしてしまいます。確認だけでも先にした方がいい」


その口調には不自然な力みがなかった。

廣俊も、氏頼までは疑っていない。

むしろ最近の混乱の中では、数少ない“話の通じる相手”と思っていた。

廣俊はなお迷っていたが、やがて舌打ちする。


「……護衛も入る」

「ご随意に」

氏頼は肩を竦めた。

薄暗い詰所へ入った瞬間。

戸が閉まる。

護衛の一人を谷春が壁へ叩きつけ、当年がもう一人の喉へ肘を入れた。

廣俊は即座に刀を抜こうとしたが、その腕を後ろから氏頼自身が押さえ込む。


「なっ――武綱ッ!!」

廣俊が怒鳴る。


氏頼は低く言った。

「静かにしろ」


廣俊は激しく暴れた。

想像以上の力だった。

谷春が容赦なく膝裏を蹴り、当年が肩口へ打撃を叩き込む。

それでもなお睨みつけてくる。


「裏切ったか……!!」


氏頼は答えない。


そのまま廣俊の首筋へ肘を落とした。

鈍い音。

廣俊の身体から力が抜ける。


崩れ落ちた廣俊を見て、物陰から様子を窺っていた数也が息を呑んだ。

「し、死んだんですか……?」


「違う」

氏頼が即座に答える。

しゃがみ込み、廣俊の呼吸を確かめた。


「気絶してるだけだ」

「今殺せば廣頼派が一気に固まる。まだその時じゃない」


鎖を掛けながら、氏頼は苦く笑った。


「……これで俺も後戻りは出来んがな」

豪政はようやく壁から背を離した。


「最初からそうしてくれれば楽だったのに」

「簡単に言うな」


氏頼は小さく息を吐く。


「どちらに付くか決められる奴ばかりじゃない」


数也が小さく俯いた。

その言葉は、どこか自分にも刺さったらしい。


やがて谷春が口を開く。


「次は久綱だ」


氏頼の顔から笑みが消えた。

「……あいつは廣俊より面倒だ」



他の役員に目撃されないうちにと急かす氏頼に背中を押され、

一向は監獄に避難した。

豪政は壁にもたれたまま、氏頼を見ていた。


まだ完全には信用していない。

それは氏頼も分かっている顔だった。

氏頼は視線を受け止めたまま言う。


「……俺は今まで、どちらにも付き切れなかった。廣頼に逆らえば殺される。だが久能たちのやり方を見続けるのも限界だ」


低い声だった。


「だから綱渡りをしていた。だが、もう無理だ」


灯火が氏頼の横顔を照らす。

疲れ切った顔だった。


「ここで決める。端原に従う」


静かな沈黙が落ちる。

その時、奥から掠れた声がした。


「……ようやく腹を括ったか」


寺地篤彦だった。やつれた顔を上げている。

東府宗勝も隣で目を細めた。

氏頼は二人へ向き直り、深く頭を下げた。


「遅れました―申し訳ありません」


篤彦はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

「生きてこちらへ来たなら十分だ」



地下水路近くの空き部屋。

氏頼は低い声で豪政へ説明していた。


「姉賀久綱は酒と薬、それから“自分を持ち上げる相手”に弱い」

「逆に真面目な奴は嫌う。理屈を言う奴もな」


豪政は露骨に嫌そうな顔をした。

「……つまり適当に合わせろって事ですか」

「そういう事だ」

谷春が横から淡々と言う。


「お前が一番向いてる」

「何でだよ」

「顔に敵意が出にくい」

豪政は納得いかない顔をした。

だが数也が恐る恐る頷く。


「た、確かに豪政様って、変に人懐っこく見える時あります」

「それ褒めてるのか?」


当年が吹き出した。


「多分な」


氏頼は真顔のままだった。

「久綱は、自分を否定しない相手を好む。だが一瞬でも間違えると勘づく。あいつは臆病だからな」


豪政は静かに息を吐く。


「……了解」


その夜。

久綱の酒宴は異様な熱気に包まれていた。

香炉から濃い薬香が流れ、女たちの笑い声と楽の音が混ざり合う。

久綱は上座で酒を煽っていた。

目は充血し、頬は赤黒い。

豪政は下座に控え、粗末な杯を持ちながら話を合わせていた。

最初、久綱は露骨に疑っていた。


「見ねぇ顔だな」

「二志の流れ者です」

豪政は自然に肩を竦める。

「紛争が増えて飯も食えなくなったんで」


久綱はしばらく睨んでいたが、やがて笑った。

「端原にでも潰されたか?」

豪政も苦笑する。

「俺みたいなのは、どこ行っても使い潰されますよ」

その言葉に、久綱は妙に機嫌を良くした。


酒が進む。豪政は無理に話さなかった。

むしろ久綱自身に喋らせる。

何度か久綱から酒を勧められた。無理に断らず、数滴口をつけて後は

袖の内側か、股の隙間に流し捨てた。

酒量に比例して、久綱の声は次第に大きくなった。


端原壮真への憎悪。

中央への劣等感。

廣頼への盲信。

「気取ってやがるんだよ、壮真は民の為だの秩序だの……

結局、自分が正しいと思ってる奴が一番嫌いだ」


豪政は静かに聞いていた。

胸の奥が少しずつ冷えていく。

だが顔には出さない。


「……それで、廣頼様が勝ったら、どうなるんです」


久綱は酒を煽り、大きく笑った。

「全部ぶっ壊す。逆らう奴ァ吊るす

―首相も武垣も、壮真もだ」


その笑い声を聞きながら、豪政はさりげなく酒を継ぎ足した。

氏頼から渡されていた薬だった。

即死ではない。

酩酊と錯乱を強める。

久綱は気づかず飲み干す。


やがて様子が変わった。

呼吸が荒くなり、目が血走る。

「……おい」


立ち上がろうとして机へぶつかる。

豪政は静かに距離を取った。

久綱は怒鳴った。

「てめぇ……何しやがった!!」

久綱はふらつきながら体勢を整えようとする。

刀を抜こうとするが鞘が上手く払えないようだ。


苛立ちでさらに錯乱していく。

豪政は低く言った。


「暴れるな。余計苦しむ」

「殺す気かァ!!」


久綱は絶叫しながら突っ込んできた。

豪政は半歩だけ身を逸らす。


足元には、先ほど久綱自身が蹴散らした酒器の破片。

久綱の身体が崩れた卓へ激突する。

割れた破片が喉へ深く食い込んだ。

久綱は目を見開く。

それでもなお、手を伸ばしてきた。

「お……てめえ……端原……」

喉から血泡が溢れる。

怒りだけで立ち上がろうとして、さらに傷を広げる。

豪政は動かなかった。


久綱は最後まで壮真への呪詛を吐こうとし、やがて自ら血に沈んだ。

静寂が密室に立ち込める。

豪政はしばらく立ち尽くしていた。



同じ頃、穏健派の大宮元宣は、下級役員に変装し、薄暗い廊下を急いでいた。


姉賀久能とすれ違う。

その一瞬、久能の目が止まった。


「……お前」

元宣の背に汗が流れる。

だが即座に咳き込み、声を変えた。


「薬庫への使いです」


久能は数秒、じっと見つめる。

やがて無言で去った。

元宣は小さく息を吐く。


だが。

背後に気配が生まれる。

霊殿瓜顕だった。

瓜顕は何も言わない。

ただ静かに懐中の短刀を抜く。

一閃。元宣は崩れ落ちた。

瓜顕は血を払い、何事も無かったように闇の中へ消えていった。


監獄の中。

湿った石壁に囲まれた狭い空間で、豪政たちは円を作るように集まっていた。

灯火は小さい。火を強くすれば、地上の巡察に気取られる。

篤彦は壁へ背を預けたまま、静かに目を閉じていた。

宗勝は腕を組み、床へ広げられた粗い見取り図を睨んでいる。


谷春が口を開いた。

「……明日の夜だな」

「ああ」

宗勝が低く答える。


「監察府南門で、端原側の内応が火を上げる。混乱に乗じて地下水路から抜ける」


数也が不安げに息を呑む。

「本当に水路なんて通れるんですか……」

「通れます」

そう言ったのは文景だった。


彼は小さな木札を取り出す。

監察府の古い通行錠だった。

「大宮元宣が経路を押さえている。薬庫裏の搬出口から地下水路へ入れるよう、見張りを入れ替えているはずだ」


豪政が眉を上げる。

「……随分危ない橋だな」

「彼は元々、観察府の出入りに慣れています」

文景は静かに答えた。

「変装や潜伏が非常に上手い。役員より斥候のこうが向いていると時々思うくらいです」

篤彦が薄く目を開ける。

「だからこそ任せた」

短い言葉だった。

だが、その声音には信頼が滲んでいた。


宗勝が地図を指でなぞる。

「水路は北へ流れている。途中で三つに分岐するが、左へ入るな。崩落している」

谷春が頷く。

「出口は?」

「監察府外縁の排水門だ ―ただし格子がある」


豪政が口を開く。

「壊すのか?」

「元宣が事前に緩めているはず」

宗勝はそこで一瞬言葉を切った。


「……予定ではな」

静かな沈黙が落ちた。


皆、理解していた。

潜入も、内応も、脱出路も。

一つ狂えば終わる。

数也が乾いた唇を舐める。

「い、いずれにせよ……明日、決行なんですよね」

「ああ」

谷春が即答した。


「もう時間がない」


その時だった。

――どん。

遠くで、鈍い音が響いた。

全員の視線が上がる。

続けて、怒号。

地上を走る足音。

今までとは明らかに違う騒がしさだった。


豪政の目が細まる。

「……何だ」

宗勝が立ち上がる。

「巡察の数が増えてる」

さらに。

鉄扉の向こうを、武装した兵たちが駆け抜けていく音。


怒鳴り声。

「北区画を封鎖しろ!」

「逃がすな!」

数也の顔が青ざめた。

「ま、まさか……」

谷春が舌打ちする。

「露見したな」


豪政も即座に立ち上がった。

「元宣が裏切ったのか」

「あるいは別口だ」

篤彦が低く言う。


だが、その表情は既に切り替わっていた。

迷いはない。

監獄の外で見張っていた氏頼が駆け寄り、素早く牢を解錠する。

「予定変更だ。今すぐ出る」


文景が息を呑む。

「水路まで辿り着けるんですか」


「辿り着くしかない」

谷春が短刀を抜く。

豪政も刀の柄へ手を掛けた。

地上では、さらに鐘の音が鳴り始めていた。

監察府全体へ異変が伝わっている。


「急げ」

氏頼の低い声が響く。

「封鎖される前に抜けるぞ」

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