表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

脱出

地下水路へ続く裏通路は、腐った水の臭いに満ちていた。

先頭を進む武綱氏頼が、低い声で告げる。

「灯を下げろ」


「右手に見張り詰所がある」

豪政が即座に松明を伏せる。

背後では、寺地篤彦と東府宗勝を囲うように谷春たちが歩いていた。

数也は既に息が荒い。

「はぁ……っ、は……」

「静かに」

谷春が短く制した。


その時。

通路の先に、人影が現れた。

全員が止まる。

人影の無骨な輪郭は、異様な静けさと狂気を孕んでいた。


霊殿瓜顕だった。


瓜顕は無言のまま、視線だけを氏頼へ向ける。

氏頼が低く呟く。

「……最悪だな」

次の瞬間。


瓜顕の短刀が閃いた。

谷春が前へ出る。

鈍い金属音に続き、細かな火花が散った。

豪政も横から斬り込む。


だが瓜顕は下がらない。

狭い通路を逆に利用し、最小限の動きで二人の刃を捌いていく。


「こいつ……!」


豪政が舌打ちする。

谷春は冷静だった。


「時間を使うな。突破する」


その言葉と同時に、氏頼が壁際の鉄扉を蹴り開けた。


「こっちだ!」


宗勝たちを先に押し込む。

瓜顕が追おうとした瞬間。

頭上から轟音が響いた。木材と土砂が崩れ落ちる。


寺下晴臣の妨害だった。

あらかじめ部下を潜ませ、通路を崩させたのである。

「通すな!!」

怒号が地下へ反響する。

豪政が咄嗟に篤彦を庇う。

崩落で通路が分断された。

瓜顕は瓦礫の向こうに消える。

氏頼が短く吐く。

「……晴臣か」


氏頼が歯噛みした。

「気付かれていた」

「いや」

豪政がかぶりを振る。

「完全には読まれていない。読まれていたなら、もう包囲されてる」

当年が笑った。

「違いねぇ」

彼らは崩れかけた横坑を抜け、監察府外縁へ出る。

外は吹雪だった。

凍える夜気の中、馬車庫跡に巨大な籠電車が停まっている。


木製の車体。山岳用の小型軌条車。

車体の後方から、大声が飛んだ。


「遅ぇぞ!!」

尾賀瀬諸澄だった。

毛皮を羽織り、豪快に笑っている。

操縦席には稙澄。



「監察府の連中ァ、追跡路を封鎖し始めてる!」

「乗れ!!」


豪政たちは次々に飛び乗った。

稙澄が操縦桿を倒す。

籠電車が唸りを上げ、雪山の軌道を走り始めた。


その頃、監察府では、

寺下晴臣が、兵たちと共に裏車庫を検分していた。

彼は不自然に残された荷車を見て立ち止まる。


「……何だこれは」

部下が答える。

「放棄された資材かと」


晴臣は目を細めた。

そして車輪の下を覗き込む。


「違う。動力炉だ」


次の瞬間。

彼は即座に後退した。


「離れろ!!」


だが遅い。

轟音と火花。

細工された圧縮炉が暴発した。

車庫全体が炎に包まれる。

晴臣は辛うじて身を庇ったが、追撃部隊の編成は完全に遅れた。


「……小癪な」


煤に汚れた顔で、晴臣が吐き捨てる。



雪原を疾走する籠電車の中。

数也が崩れるように座り込んでいた。

脇腹から血が滲んでいる。崩落時の負傷だった。

宗勝が顔をしかめる。

「駄目だ、このままじゃ保たない」


さらに稙澄が叫ぶ。

「前方軌条、崩れてる!このまま全員は乗せられない!」


諸澄が即座に状況を読む。

「換え車両を使う。だが軽量化が必要だ」


沈黙。

数也が顔を上げた。


「……俺、降ります」


豪政が睨む。


「馬鹿言うな」


「このままじゃ皆死ぬ」


数也は震えながら笑った。


「俺、足手まといです」


谷春は何も言わない。

ただ状況を計算していた。


豪政は苛立ったように髪を掻く。


そして数也の胸倉を掴む。


「よく聞け」


「ここで死ぬな」


彼は数也を雪岩の陰へ押し込む。

「追っ手が来たら息を殺せ。

中央側の端原与党を頼れ。名前を出せば動く奴がいる」

数也の目が揺れる。

「……でも」


「戦況が落ち着いたら迎えに行く」


豪政はぶっきらぼうに言った。


「だから生き残れ」

数也は唇を噛み、頷いた。

その直後。遠くで角笛が鳴る。


姉賀久能の隊だった。

さらに、白い雪原の向こうに、瓜顕の影が見える。

久臣もいる。

谷春が即座に叫ぶ。


「出せ!!」


稙澄が動力を最大まで上げる。

籠電車が再び雪山を滑り出した。

砲弾が飛ぶ。

諸澄が巨大な体で篤彦を庇う。


「頭ァ下げろ!!」

さらに山道では、伊河頼季や廁数為ら在地の賊徒まで襲い掛かってきた。

だが豪政が先頭へ飛び出す。

「邪魔だァ!!」


豪快な斬撃で賊徒を吹き飛ばす。

谷春は逆に冷静だった。

最短距離を読み、敵の包囲が閉じる前に進路を切り開いていく。

そうして。


そうして。

幾度も追撃を振り切り、

幾度も道を変え、


ようやく彼らは端原領近くの山林へ辿り着いた。

夜明け前。

疲労困憊の一行は、雪林へ身を潜める。


枝を踏む音が聞こえた。

豪政が即座に刀を抜く。


谷春も身構える。

「誰だ」

静かな声。

「その警戒、結構」

雪陰から現れたのは、湾内八海だった。

その後ろには安念修身。

修身は彼らを見るなり、小さく息を吐いた。

「……本当に帰ってきたか」


豪政が笑う。

「死ぬかと思った」


八海が静かに頷く。

「壮真様の命で巡回しておりました。

保護致します。もう大丈夫です」


その言葉に、初めて宗勝たちの緊張が緩んだ。


林の向こうから、小柄な影が駆けてくる。


怜だった。

「豪政!!」

その後ろには奈央弥もいる。

豪政は一瞬だけ呆けた顔をした後、照れ隠しのように鼻を鳴らした。


「騒がしいな……」


だが怜は構わず抱きつく。

奈央弥も安堵したように笑った。






東方監察府。

麻生廣頼の前に、姉賀久能と寺下晴臣が跪いていた。


広間の空気は重い。

灯火は揺れず。

誰一人、衣擦れすら立てない。

久能が低く告げる。


「……侵入者を取り逃がしました」

刺々しい沈黙が広間に染み渡る。

その時。奥の闇から、霊殿瓜顕が現れる。

肩に一人の男が担がれていた。


麻生廣俊だった。

気絶しているだけで、生きている。

瓜顕が静かに言う。

「発見時、拘禁状態だった」

さらに別の兵が、震える声で続けた。

「久綱氏の死亡も確認」

廣頼は何も言わなかった。


脇の机へ、静かに指を置く。

――ぴし。

木が軋む。

その細い音だけで、広間の空気がさらに凍った。

やがて。

「……成程」


低い声だった。


「随分と、好き勝手に歩き回ったらしい」


廣頼は薄く笑った。

だが、その笑みには温度が無い。

「こちらが戸を閉ざせば、鼠は穴を掘る。

ならば次は……地ごと焼けばよい、という話か」


久能が深く頭を下げる。

晴臣が静かに進み出た。


「穏健派を奪取されたことは……痛手ですなァ……」


間延びした声。

だが内容は冷徹だった。


「寺地篤彦……東府宗勝……」

晴臣は、穏健派の役員たちの名前を一人一人、挙げていく。


「彼らが中央で証言すれば……端原や諸勢力が、“討伐”を名目に動き出す可能性があります……」


廣頼は答えない。


晴臣は続ける。

「それにィ……既に端原与党が、王宮側へ密告を始めている恐れもあります……

連中は、“忠義”を旗印にするのが好きですからなァ……」


久能が顔を伏せる。

廣頼は、ゆっくり立ち上がった。

裾が静かに床を擦る。

その動きだけで、周囲の兵が息を呑む。


「忠義……か」

廣頼は遠くを見るように呟いた。


「面白い言葉だ。吠えるだけの犬でも、腹に札を下げれば忠犬になる

―人は札を見て跪く。ならば――札を書き換えればよい」


静かな声だった。

だが、その奥には獣じみた暴威が滲んでいた。


「我らこそが国を支えている。我らこそが秩序を保っている。

―そう“理解させる”。理解の遅い者には……

―もっと分かりやすい形で教えてやらねばなるまい」


廣頼は、ゆっくりと久能たちを見下ろした。


「前に立つ者」


「楯突く者」


「日和見する者」


「境目に立って、どちらへ頭を下げるか迷っている者」


「……そういう半端者が、一番火の回りを早くする」


広間が静まり返る。

誰も声を出せない。

廣頼だけが、淡々と続けた。


「ならば焼こう。燃え残りがあるから、また虫が湧く。

―灰になるまで続ければよい」


晴臣が静かに頭を垂れる。


「承知しましたァ……」



数日後。

その言葉通りに。

廣頼は、端原与党潜伏の嫌疑を口実として、港湾都市・広館の焼討を実行した。

多くの民間人が虐殺され、港湾は死骸で横溢した。

後に中央五大惨事の一つとして語られる、広館事件である。

辛うじて都市を脱出した民間人らの訴えによって、ようやく事態は王宮警察の知るところとなった。

しかし。中央政府には、即座に東方へ差し向けられる軍事力が乏しかった。




王都。

冬雨の降る朝、政庁の大広間には重苦しい空気が漂っていた。

広館から逃れてきた民間人の証言は、皇宮警察へ届けられ、すでに中央重臣たちの耳にも入っている。


ただちに臨時の閣議が催された。

閣府の議場には、長机を囲んで重臣達が首を揃えている。

上座の「誕生日席」には、首相・真槻朝昌が腕を組み沈黙したまま座していた。

長机の上には、焼け焦げた布切れや、港で拾われたという焼印付きの兵札まで並べられていた。


議員・葉村瓜氏は、その兵札を落ち着かない様子で何度も触っていた。

「しかし……本当に麻生廣頼がここまで……」

語尾が弱い。言い切る前に、自分の言葉へ不安を抱いているようだった。


向かいに座る初村廣兼は、机へ肘もつかず、静かに記録を読んでいる。

「断定はまだ早いでしょう。―ただ、証言同士の符合は多い。港の封鎖時刻、火の回り方、投入兵力。作為性は明白です」


廣兼は感情をほとんど乗せなかった。

だが逆に、その冷静さが場を重くしていた。

久倉文実が肩を竦める。


「いやぁ、作為性って言われてもねえ」


「東方なんて元々血の気の多い土地でしょう? 港町一つ焼けたくらいで毎回大騒ぎしてたら、王宮の蔵が先に空になりますよ」


堂坂順臣が鋭く睨む。


「軽いな」

「軽くもなりますよ」


文実は笑みを崩さない。

「東方監察府を今さら“反乱”認定したところで、実際に軍兵を出せるんですか?」


その言葉に、誰も即答しなかった。

中央には大軍を遠征させる余力が乏しい。


西部・中北では旱害後の治安悪化が続き、南方・北門では流民対策が難航している。


葉村瓜氏が咳払いをした。

「で、ですが……このまま実効支配を追認すれば、他地域の監察府も真似をするのでは。

“力で奪えば許される”と。そうなれば、制度そのものが……」


「崩れる」

初村廣兼が短く引き取った。

そして視線を上座へ向ける。

首相・朝昌は誰より先に結論を持っている顔だったが、口を開かない。

廣兼の視線は、さらに奥へ向いている。

大館一門の頭領、新庄実伸。


既に首相職から退いた宿老だが、今なお代王の後見として絶大な影響力を持つ男だった。

実伸は湯呑を片手に、ゆっくり茶を飲んでいた。

まるで他人事のような顔である。


だが、広間の全員が彼の次の一言を待っていた。

その背後には、若き新庄厚伸が控えている。

厚伸はまだ若いが、父祖譲りの鋭い目をしていた。

実伸は湯呑を置く。


「広館、か」

ゆったりした声だった。

「港を焼くというのは、案外難しいんだよ」

誰も口を挟まない。

「兵が勝手に暴れるだけじゃ、ああはならん。

船着き場を封じ、逃げ道を塞ぎ、火を回し、見せしめに死体を残す。

……随分と、丁寧なお仕事だ」


広間の空気が冷えた。

厚伸が静かに口を開く。

「つまり、統制された虐殺ということですね」

実伸は小さく笑う。

「若い者が嫌な言い方を覚えちゃったな」

だが否定はしなかった。


真槻朝昌が、そこでようやく口を開いた。

「問題は二つあります。

一つは、麻生廣頼を東方支配者として追認するか」

周囲の面貌を一巡見渡し、続ける。

「もう一つは、討伐対象として扱うか」

朝昌は机上の地図を指で叩く。


「追認すれば、東方は一時的に安定します。しかし中央の威信は崩れる」

「討伐すれば、正統性は保てる。だが失敗した場合、各地が中央を見限る」


久倉文実が薄笑いを浮かべた。

「つまり、どっちに転んでも地獄ですね」


堂坂順臣が低く言う。

「ならば、せめて筋は通すべきだ。

広館を見過ごせば、王都自身が血を許したことになる」


政鶴厚景も静かに頷く。

「視察使を派遣し、事実確認を行うべきです。その上で、正式な勅命を」


葉村瓜氏は慌てて同意した。

「そ、そうですな。順序は必要です」


真槻朝昌は視線を実伸へ向けた。

「ご意見を」

実伸は少し考えるように目を閉じる。

やがて、鷹揚に言った。

「討伐でよい」

あまりにもあっさりしていた。


広間が静まる。

実伸は続ける。

「ただし、今すぐ中央軍をぶつける必要はない」

「東方を知る者にやらせればいい。端原壮真は、ちょうど良く麻生と喧嘩を始めている」


厚伸が口元を歪めた。

「犬同士で噛み合わせる訳ですね」

「若いなぁ」

実伸は笑う。

「国ってのはね、いつもそうやって片付いてきたんだよ」


その日のうちに、初村廣兼、葉村瓜氏らを使者として東方へ派遣し、その後に端原へ麻生廣頼追討命令を下す方針が決定された。


その頃。

端原では、武綱氏頼の東府役員代就任儀礼が執り行われていた。

雪の積もる端原御殿の南面。

端原壮真が粛然と姿を現し、犬法良、湾内八海、上大年諫らが祇候する。

下条寔が宣旨を朗読した。

低くよく通る声が、冬空へ響いていく。

介添には政鶴文景。

氏頼は深く頭を下げた。

その顔には疲労も残っていたが、逃走行の時より遥かに落ち着いて見える。

列席した重臣たちの反応は様々だった。


湾内八海は静かに頷き、修身は腕を組んだまま無言で氏頼を見ている。

犬法良は露骨に安堵したような顔をしていた。

東方穏健派を抱き込めた意味を、誰もが理解している。


ただ一人。

寺地篤彦だけは面白くなさそうだった。

儀礼後、宗勝へ低く漏らす。

「……何故、私ではなく武綱なんだ」

宗勝は困ったように笑う。


「人望でしょう」

「お前、時々遠慮がないな」

篤彦は眉をひそめたが、宗勝の前では強く怒れない。

少し離れた場所では、培良時久と政文が地図を前に話し込んでいた。

「中央が勅令を出せば、麻霧も動かざるを得ないでしょう」

政文が静かに言う。

時久は腕を組んだ。

「だが、すぐには動かん。麻霧は最後まで勝ち馬を見極める」

「―廣頼が押し切ると見れば、あちらへ寄る可能性もある」

時久は頷いた。

「だからこそ、こちらは“中央公認”を得る必要があった。追討令は大きい」


その近くでは、豪政たちが一成の供養を行っていた。

雪除けの小堂。粗末な香炉。

怜が静かに花を供える。


奈央弥は黙って線香へ火を移していた。

豪政は墓標を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。

やがて、小さく言う。


「……結局、師範には助けられてばかりだったな」


谷春は隣で静かに立っている。

「俺たちが生きて帰れたのも、あの人の一族の者が時間を稼いだからだ」


豪政は拳を握った。

「上大年一成が命懸けで繋いだものを、無駄にはしない」


まだ青さの残る言葉だった。

だが怜は、その真っ直ぐさを否定しなかった。

遠くで鐘が鳴る。

東方全域を巻き込む戦が、いよいよ表へ出ようとしていた。



端原では、東方反乱への出兵準備と並行して、別の動きも進められていた。

犬法良と木帋恒興が、古い史料や日録を広げ、夜通し筆を走らせている。

「年鑑」が失われた時に備えた私撰歴史書――『上書年鑑』の編纂である。

「戦は人を殺すだけではない」

法良が古い巻物を閉じながら呟いた。

「記録も焼く。負けた側の歴史から先に消えていく」

恒興は墨を摺りながら苦笑した。

「だから俺たちが残す、ですか」

「後で誰かが嘘を書くくらいならな」


その頃。

武垣有彦の命を受けた大宮恒広と堂坂濱澄は、麻霧領へ入っていた。

観察府反乱軍――麻生派からの援軍要請を退け、端原への協力を確約させるためである。

取次を務めたのは澤尾十年。その出で立ちには、流石の武垣重臣らも面食らった。

細身で丸刈りの少年。冬場でも半袖姿で平然としている。

だがその所作は外見に反して老成しており、丁重に応接間へと通された。


応対したのは妹尾和元と飛渡真繁だった。

広間では、麻霧槻彦が長く沈黙していた。


反乱側に付けば、端原と敵対する。

だが端原に従えば、東方の勢力均衡は崩れる。

槻彦は慎重な男だった。

簡単に腹を決められる性質ではない。

しかし、飛渡真繁が低く言った。


「麻生廣頼は、もう止まりませぬ。広館を焼いた時点で、あれは東方の秩序そのものを壊しました」

妹尾和元も続けた。

「ここで曖昧に振る舞えば、いずれ麻霧も巻き込まれます」

槻彦はようやく顔を上げた。

「……端原へ返答を出す。援軍要請には応じよう」





その報は、数日を経て端原本陣へ届けられた。

しかし。培良時久は報告を聞き終えても、すぐには口を開かなかった。

政文が怪訝そうに見る。

「何か気になりますか」

時久は指先で机を軽く叩いた。

「麻霧は古い家だ。生き残る術を知っている。だからこそ、あまりにも返答が早い」


政文は腕を組んだ。

「面従腹背……ですか」

「かもしれん」


時久は淡々と言った。

「槻彦本人は従う気でも、家中が割れている可能性がある」

その推測は、まもなく裏付けられることになる。


端原本拠。夜が更けた軍議の席には、重臣たちの姿が並んでいた。

机上には麻霧周辺の地図と、各地から届いた報告書が積み上がっている。

壮真は上座で静かにそれを見下ろしていた。

誰も軽々しく口を開かない。

東方反乱の討伐が決まった今、次に問題となるのは麻霧だった。


味方か。敵か。

その曖昧さが、最も危険だった。


やがて壮真が口を開く。

「……政文」

「はい」

「麻霧の現状を説明しろ」


政文は一礼し、机上の文を手に取った。

「現時点で、麻霧槻彦は表向き端原への協力姿勢を示しております。武垣有彦殿の使者に対しても、麻生派からの援軍要請を退ける意向を伝えました」


そこまでは良かった。

だが政文の声はそこで僅かに低くなる。


「ただし、家中は割れております。

譜代家臣の妹尾和元、澤尾親通らは恭順寄り。

一方、新参の昌原宗景、習師辺行保らは、従属色が強まることを警戒しております」


豪政が眉を寄せた。

「つまり……槻彦本人が決めても、まとまらないってことですか」

「そういうことだ」

答えたのは時久だった。

彼は腕を組み、淡々と続ける。

「麻霧は古い連合政体だ。派閥も多い。当主一人の意思で完全に動く家中ではない」

政文も頷いた。

「さらに厄介なのは、麻生廣頼との距離感です。援軍要請を拒絶したとはいえ、完全に縁を切ったとは断定できません」


壮真が静かに問う。

「時久、お前はどう見る」


時久は少し考えた。

「面従腹背の可能性が高いかと」

軍議の空気が重くなる。


「少なくとも、“どちらが勝つか見極めようとしている者”は居ます。

もし端原が劣勢になれば、即座に麻生側へ寝返るでしょう」


犬当倖が不機嫌そうに鼻を鳴らした。翔吾とよく連んでいる、

中堅の家臣である。

「なら先に潰せばいい。背後に刃を抱えて進軍する気か」


豪政がすぐ反論する。

「でも、まだ敵って決まったわけじゃないだろ」


「話し合いで従うなら、それが一番いい」


当倖が豪政を見る。

「甘いな」


「甘くても、無駄に血を流すよりはいい」

豪政は真っ直ぐ言い返した。


場が少し張り詰める。

だが壮真は二人を制さなかった。



しばらく沈黙してから、静かに口を開く。

「麻霧は攻略する」

その一言で空気が変わった。

「あるいは服属させる。どちらに転ぶかは、相手次第だ」

壮真の声は低いが、迷いは無かった。


「東方反乱を平定する前に、背後の火種は消しておく。曖昧なまま軍を進めれば、いずれ必ず足を引かれる」

政文が静かに頷く。

「妥当かと」

「その前に最後通牒を送る」

壮真は時久を見た。


「培良」

「は」

「使者を立てろ」

時久は一瞬だけ視線を伏せ、それから口を開いた。

「……自分の養子に務めさせてもよろしいでしょうか」

何人かが顔を上げた。


「昌之か」

壮真が問う。

「はい」

「利発な男です。人の機微も読める」

「多少、こちらに有利な話へ誘導する程度の器用さもあります」

政文が薄く笑った。

「あなたに似てますね」

「まだ実直さの方が濃いですが」


時久は平然と返した。

「場慣れもしておりません。しかし、だからこそ余計な威圧感がない」

「最後通牒の使者としては、適任かと考えます」

壮真はしばらく考えていた。


やがて頷く。

「よい」

「やらせろ。失敗しても経験になる」

時久が深く頭を下げる。

「は」

軍議が終わり、人々が立ち始める中。

豪政は小さく息を吐いた。

「……戦闘にならなきゃいいけどな」

隣で谷春が肩を竦める。

「そのための最後通牒だろ」

「でも、こういう時って、大体うまくいかないんだよな」

豪政は苦い顔をした。


遠くで時久が、呼び出された昌之へ静かに何かを説明している。

若い養子は緊張した面持ちで何度も頷いていた。

その姿を見ながら、壮真はただ黙って地図を見つめ続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ