持たない者
全ての過去を変えられるなら、俺はとっくの昔に変えていた。
生まれた時から、今、この瞬間まで俺は何一つ持っていない。断言することでもないのだが、まったくない。この十九年間、本当にないのだ。頭もよくない、顔もよくない、金も持ってない、運も持ってない、何も誇れるものを持っていない。ない、ない、ない。ないことづくしの人生だった。
持っていない人間は自分を甘やかす手段すら持っていない。ないことを『欠陥』であると考えて、自分を激しく責める。
なぜ、こんなことができないのか。
なぜ、普通になれないのか。
答えのない問いが俺をさらに追い詰めていた。追い詰められた俺はさらに自分を追い詰める。自己嫌悪の悪循環。その悪循環に嵌り、何年も一人で悩みながら他人からの救いの手を待っている卑怯者。それが自分自身への評価だった。
そんな自分の死を願ったことがないわけではない。しかし、自らの死の選択をすることを真剣に考えてこなかった。
死にたい――などという欲望は一時的なものであり、それを実行するような行動を起こす気にはなれない。ただ死ぬことが非常に面倒くさい行為であるように思えていた。そりゃもちろん、自分の状況を客観的に見た時に、果てしなく暗い将来への不安と自分の不甲斐なさを思い知って、真面目に死ぬことを考えたこともある。しかし、死ぬことを真剣に考えてみたところで、結局は俺には何も残っていない。何も持たない自分が死んだところで何の意味があるのだろうか。
「何の意味もない」
答える人もいない四畳半の部屋で僕は一人深夜のバラエティを見ながら呟いた。バイトから帰ってきてカップラーメンを食べた後、ベッドで横になりながら、また同じ悪循環の禅問答をしている。
「何にも持っていない人間に何ができるというんだ」
テレビからは出演者の笑い声が聞こえてきた。出演者のオーバーなリアクションを見ながら、俺は何もする気になれない。明日、またバイトがあるから早く寝なくてはならない。頭では分かっていることでも、身体がついてこない。何をするにも、いや、やらなくてはならないはずのことも、必要最低限の世間体ですらも、今の俺には重労働に過ぎない。
「自分のことすらコントロールできない人間なのか、俺は」
無気力な自分に苛立ちを覚える。しかし、怒りを覚えたところで、それを行動によって発散する術を持っていない。むしろ、持っていないことへの怒りを口に出すことすら億劫で、かといって、その怒りを内へと嚥下する気力もない。自分の感情すら、扱うことに苦労する荷物になっている。
知らぬ間に深夜のバラエティ番組は、司会者とゲストのトークコーナーになっていたようで、二人のやり取りが耳に入る。
『それで、どうして芸能界に入ろうと思ったんですか?』
『たまたま、街を歩いていたら今の事務所の方に声をかけられまして。それがきっかけとなってこのお仕事を始めたんです』
『えっ、じゃあスカウトってことですか。すごいですね』
司会者の男性がこれまた大袈裟にゲストの女性モデルを持ち上げる。そのあからさまな持ち上げ方をされた女性モデルも謙遜するような返事をしながら、笑って答える。
『いや、たまたまですよ。私がこんな華やかな世界に入れるなんて思っても見ませんでした』
『いやいや、あなたなら芸能界でも十分に活躍できるでしょう! こんなに綺麗な顔と抜群のスタイルを持っているんだから、芸能界に入るのは当然だよ!』
『ありがとうございます』
女性モデルの喜び方は控えめだったが、とても満足そうな顔をしていた。たしかに男性司会者が言う通り、すらっと高い身長に整った顔立ち、胸元の大きく開いたドレスから見える豊かな胸などモデルとしての必要な特性を彼女は備えている。
つまり、彼女は持っている。
「やっぱり、持てる人間は違うね」
テレビを消しながら俺は天井を仰ぎ見ながら、また一人で呟く。誰も返事をする人間はいない。そんな状況にも慣れているはずだし、持てる人間を見ていることにも慣れているはずだった。
しかし、俺は自分の頬を一筋の涙がこぼれ落ちるのを感じた。泣いている。
「畜生……」
袖で涙をぬぐいながら、潤んでぼやけた天井を見上げていた。
「あぁ、死にたい。死んでしまいたい」
また、いつもの死への願望が湧いてきた。しかし、この感情は長続きしない。
「なんで、俺はこんな人生なんだ。なんで、何も持ってないんだ」
三度、答えのない問いを俺は自らに吹っ掛ける。なんで、自分だけ。その思いが自分自身を恨む方向へと向かい、自らの無力を、何も持っていない境遇を憎んだ。こんな悩みを相談する相手すらいない。なぜ、俺だけこんなみじめな立場にいなくてはならないんだ。
なぜ、俺だけ何もないのか。
「いいえ、あなたには持てるものがあるのです」
その声は俺の頭の中の思考の一切を停止させるものだった。
「は、はあぁ?」
俺はベッドから上半身を起こして声のする方を向いた。
「こんばんわ、はじめまして」
その少女はテレビの前に立っていた。透き通るような青い長髪、ぱっちりとした青い瞳、血色のよい頬は彼女の可愛らしさを強調している。先程のモデルとは違い、和服のような前で衿を重ね合わせて帯で締めているのに、その丈はミニスカート程しかなかった。そして、明らかに中学生ぐらいしかない背丈と和装だからだろうか、先程のモデルとは違う胸部とが彼女の幼さを物語っている。
「だ、誰だ、お前」
「誰でもいいじゃないですか」
「だ、誰でもいいって」
「誰だっていいんです。私のことは誰だってあなたには関係ないんです。まぁ、私のことはウルとでもお呼びください」
ウルと名乗る少女は深々とお辞儀をする。ゆっくりとした動作でお辞儀をして顔を上げるとにっこりと笑って話し始めた。
「高浜悟さん、あなたには持てるものがあるんですよ。私はそれをお伝えするために来ました」
俺は知らない人間が音もなく俺の部屋に入ってきていることに驚いていた。しかし、不思議と怖くはない。なぜなら、相手は明らかに自分よりも年下の少女であることもそうだが、この少女には俺に危害を加える気がないように思えたのだ。俺はその非日常の光景を、つまり俺の部屋に女の子がきているという今までには絶対に考えられない状況を、ただ傍観していた。
「持てるものってなんだよ」
話を合わせた俺に、ウルは満足そうな顔をしながら答える。
「それはここでは話せません」
「ここで話せないって。ここには俺とお前しかいないんだ。誰に聞かれる訳でもないんだから、話せないことはないだろう」
「ダメなんですよ、ここでは。なんて言ったらいいのか難しいのですが、ここでは上手いこと説明できないって感じです。それに、この汚部屋にいつまでもいたくありません」
鼻をつまみながらウルは右手を顔の前でパタパタとさせている。そんなに臭いのか、この部屋。
「家主を前にしてそんな仕草をするか、普通」
「う~ん、典型的な男の子部屋ですよね。掃除してますか? ゴミ捨ててますか? 洗濯物はきちんと外で干してますか? まぁ、女の子を入れたことがないことは想像がつきますから聞きませんけど」
「おい」
「まぁ、とにかくこの部屋から移動しましょう」
俺の抗議も無視してウルは一人話を進めていく。
「高浜悟さん、外に出ますから、暖かい恰好をしてくださいね。まだこの時期は夜寒いですから」
「おい、本当に外に行くのかよ」
「えぇ、この部屋を出ますよ。まぁ、上着だけも羽織ってもらえればいいと思います」
「いや、なんで外に行かないといけないんだよ」
いくらなんでもこの女に振り回され過ぎだ。俺にもささやかな反抗心が生まれる。さっきまでのみじめさを忘れることができた。俺の自己否定などこの程度のものだ。
「う~ん、あなたには私の指示に従ってもらう以外の選択肢はないんです。外に出るといえば出るのです。早く準備をしてください」
「イヤだ」
わざと子どもっぽく言ってみる。見知らぬ人間、それも異性とこんな会話をしたのも久しぶりであったのに、すらすらと言葉が出てくる自分に驚いた。普段のコミュニケーション能力の欠如はどこにいったのだろうか。
「困りましたね」
ウルは細い眉を八の字にして俺を見ていたが、すぐに手を一つ叩いて話し始める。
「でも、もう時間がありませんので、ここから移動しちゃいましょうか」
「移動するって」
「はい、おとなしくしていてくださいね。大丈夫ですよ、すぐに楽になりますから」
「いや、楽になるって……」
俺は見誤ったのか。ウルは「大丈夫、大丈夫」と言いながら俺との距離を少しずつ詰めてくる。
「ちょ、ちょっとまて、せめて上着だけでも……」
「時間がありません。もう遅いんです」
ウルは俺の腕をがっちりとつかむ。その大きく澄んだ黒い瞳が俺を映し出している。
「すぐに終わりますよ」
ウルの手が俺の額へと伸びてきた。甘く優しい香りが俺の鼻を刺激する。ウルの小さな柔らかい指の感覚が俺の額に伝わってきた。その刺激に参ってしまいそうな俺にウルは顔を近づけた。髪からはより甘みが強い香りが俺の感覚器に働きかけてきた。
「目を閉じてください」
耳元に暖かい吐息が吹きかかる。思わず縮みあがった俺は、ウルの言葉に素直に従うしかなかった。
「うふふ、素直じゃないですか」
ウルの笑い声は俺の耳元で聞こえる。「うるさい」と俺が反論しようとした時、頭に軽い刺激があった。電流が流れたというよりは、額にデコピンをされたような軽いものだった。しかし、いきなりだったので、思わず後ろに身体を反らす。
ここで異変に気づいた。
俺はベッドの上に座っていたが、一人用の小さなベッドは壁に密着させている。後ろに倒れれば、当然すぐに俺は壁に寄り掛かるものだと思っていた。俺はそのつもりで身体を倒している。
だが、俺の予想は外れた。俺はそのまま倒れこんでしまったのだ。
「痛っ!」
不意に訪れた後頭部の衝撃に俺は悲鳴を上げる。布団の柔らかさとは違う固い何かに俺は倒れ込んでいた。
「後ろに倒れないでくださいよ。危ないじゃないですか」
ウルは声に怒りというよりは軽い失望をにじませている。お前の言うことに従っていただけなのに、なんでそんなことを言われなきゃならない。
「あ、あのな……」
「それに、もう目を開けていいですよ。いつまで目を閉じているんですか」
反論しようとしていた俺は、ウルの言いつけをいまだに守って目を閉じていることに気づいた。こんな少女に言われたことを律儀に守っているとは……。ルールを破れないどうしようもない性格に嫌気がさしていたが、俺はウルの言葉を聞いて目を開いた。
開いた瞬間、眩いばかりの光が差し込んできた。
「ううっ!」
部屋の薄暗い蛍光灯の光を予想していた俺は、その眩い光に視界が遮られてしまった。深夜なのにこんなに明るい場所が俺の近くにあっただろうか。コンビニかそれとも自販機の前か……うん? 何かおかしい。
そもそも、俺はベッドの上から動いていないはずだ。
「こんなことをしてでも連れてこないと、あなたの持てるものが説明できないんですよ」
徐々に明るさに目が慣れて、周囲の状況が見えてくる。
眩い光は太陽の光、固い何かは木のベンチだった。青い空、遠くに連なる山々、見渡す限りの大草原。目の前に広がっている大自然に俺は開いた口がふさがらなかった。
「な……」
何だ、ここは――という感嘆の言葉すらあげることはできない。一面の大草原はどこまでも続いており、山の方から吹き下ろす風によって緑の波を作り出している。
「ここは、まぁ、あなたを必要としている世界とでも言っておきましょう」
風が身に覚えのある甘美な香りを運んでくる。俺がその方向へ顔を向けると、ウルが俺の隣に座っていた。どうやら俺とウルは同じベンチに座っているようだ。
「今、この世界は滅亡の危機をむかえています。私たちはこの危機を乗り越えるための方法を色々と試してきましたが、全て失敗してしまったのです」
「いや、お前、何勝手に話を進めて……」
「この世界の全ての研究者はこの世界の破滅を避ける方法がない、と結論付けました。ただ一人の研究者、つまり私のおじい様、ドクター・ラバウを除いて」
「あの……」
「私のおじい様の理論では、この世界とは異なる世界、つまりあなたたちが住んでいる世界から、必要とされている人間の力を借りることでこの世界を救うことができるというものでした」
ウルは熱っぽく語る。俺がいくら話に割り込もうとしても、それを一向に許さない。
「私はおじい様の理論を信じました。そして、そのお手伝いをするなかで、異世界の人間の中から適任者を選びだしました。それが、あなたです」
「そ、そうなのか」
俺を指差しながら、ウルは自信にあふれた表情を見せている。
「はい、そうです。あなたには私たちの世界を救うために必要なものを持っているんです。その力を私たちにお貸しいただきたいのです」
「あの、ちょっと待ってくれないか、ウルさん」
「わたしのことは、ウルでいいですよ、悟」
「いや、そうじゃなくてだな」
勝手に俺のことは呼び捨てにしていることはさておいて「何か?」と首を傾げて、なぜ俺が話を止めるのか不思議そうな眼差しをウルは俺に送っていた。この女は自分の話をし出すと止まらない性格のようだ。
「ウル、俺が一体、何の力を持っているって言うんだ。言っとくけど、俺はお前みたいな魔法も使えないし、力だって強くない。物覚えもよくないし、他に得意なことがあるわけでもない。はっきり言って使えないぞ」
自分のことを紹介する時にここまで自分を蔑むことができる自分に失望した。まぁ、よくも自分をここまで悪く言えるものだ。
こんな面倒なことはしたくない。やったところで上手くいかない。
だから、断ってしまいたかった。
それで、自分を貶めた。こんなに自分を卑下するようなやつを見て、ウルは俺を使えないと思ってくれるのではないか。そんな淡い期待もしていた。
「やはり、私たちの目に狂いはなかったのですね!」
結果は正反対だった。
ウルは俺に失望するどころか、期待通りの反応に嬉しそうに笑っていた。
「やはり、悟は私たちをお救いになる救世主なのですね。よかった、これでおじい様の説が世の中に認められます!」
「お前、一体何を言っている。俺が救世主?」
「はい、あなたは私たちの救世主です」
ウルは本当に嬉しそうな顔をしながら俺に笑いかけてくる。目を細めながら大きなえくぼを作って優しく笑いかけてくる。
俺の作戦、失敗した?
「ちょっと、待て、ウル。お前、俺の言うこと聞いていたか?俺は何も出来ない、何の役にも立たない。自分をゴミだと言っているんだぞ。そんな人間が必要なのか」
俺は再度自らのダメさ加減を強調した。こんなにダメな救世主があっては、本当の救世主に申し訳ない。
「くぅ~っ。本当に悟は強大な力の持ち主なのですね!」
再び逆効果。
ウルは大きな黒い瞳をキラキラと輝かせながら、俺の方へと顔を近づけてきた。思わず身をのけ反る。
「ちょ、ちょっと待て、ウル。近い、近過ぎる」
俺の言葉も聞かずにウルはどんどん近付いてくる。胸の高鳴りと比例するように俺は傾きを大きくしていった。そして、先程と同じように俺はベンチに後頭部をぶつけてしまった。
「痛っ!」
俺はとっさに頭を上げしまった。すると、すぐ目の前にはウルの顔があった。強烈な甘い香りと生温かい吐息が俺の鼻を直撃する。
「お、おわっ!」
驚き、再び後ろに倒れるが、今度は後ろにベンチがなかった。俺はそのまま、緑の草の上に落っこちた。
「あ、痛っっっ!」
先程とは違い、後頭部だけでなく、ベンチからずり落ちたために背中にも痛みが走った。草の青臭い匂いと土の柔らかい感触が、俺の熱を冷ましてくれた。
「大丈夫ですか、悟」
心配そうに俺を覗き込むウル。その顔は少し赤くなっていた。
「最悪だな、俺」
転がり落ちた地面からウルを見て俺は自分の境遇を恨んだ。こんなみじめな姿をさらさないといけないなんて、どんだけダメなんだ、俺は。
「本当に、あなたは素晴らしい力の持ち主です」
両頬を真っ赤にして、ウルは興奮気味に話しかけてくる。
この女、人の不幸を笑うのか。
「お前、いい加減にしろよ! 人の不幸をそんなに笑って楽しいか」
「いえ、私はそんなことはありませんが」
「うそを言え。お前は俺の不幸を笑って楽しんでいるだけだろう。こんな何の取り柄もない男を笑って楽しいだけだろう。ふん、笑いたければ、笑え。俺はどうせその程度の男だよ。自分自身を貶めることしかできない男だよ!」
別に相手に言われたわけでもないのに、自分を勝手に評価して、自分自身を卑屈に思う。こんなネガティブな自分が心底嫌になる。こんな自分を励ますよりは、けなしてほしい。ウルもきっと俺を見放してくれるだろう。
「本当に、本当に、素晴らしい!」
ウルはもろ手を挙げて、喜んだ。そして、両手で鼻と口を隠すと涙を流しながら、俺に訴えかける。
「あなたこそ、史上最強のネガティブ・シンカー。我々の救世主です」
ネガティブ・シンカー。これが俺の能力だった。
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