昼休憩と疲労
「解散。」
黒峰の短い号令が響いた瞬間、それまで張り詰めていた演習室の空気がふっと緩んだ。
午前中だけで何試合もこなした疲労が一気に押し寄せたのか、あちこちから椅子を引く音や大きく伸びをする音が聞こえてくる。
その静かな空気を破ったのは、やはり東雲だった。
「腹減ったぁぁ!」
大げさなくらい両手を広げて叫ぶと、そのまま勢いよく立ち上がる。
「よし、飯行こう!」
その声に、相模は呆れたように笑った。
「試合が終わった瞬間からそれか。」
「そりゃそうだろ。」
東雲は悪びれる様子もない。
「頭使うと腹減るんだよ。」
「試合前から腹減ったって言ってなかったか?」
「細かいこと気にするな。」
そんな二人のやり取りを聞きながら、湊はまだモニターの前に立ったままだった。
画面には、先ほどの試合のリプレイが映し出されている。
九条の圧倒的な機動力。
東雲の誘導。
相模のカバー。
そして、自分が最後に待ち伏せを選んだあの一瞬。
勝った試合だった。
それでも見返せば見返すほど、「もっと良くできた」という場面が目につく。
(もう少し早く動けた。)
(九条への声掛けも、一拍遅かった。)
自然と映像へ意識が吸い寄せられる。
「神谷。」
白瀬が声を掛けた。
「まだ見てるの?」
「えっと……」
湊は少しだけ視線を逸らした。
「もう一回だけ確認してから行こうかと。」
その返事に、白瀬は小さくため息をつく。
「やっぱり。」
「やっぱり?」
「神谷はそう言うと思った。」
そこへ東雲も割って入ってくる。
「絶対一時間コースだぞ。」
「そんなに見ません。」
「見る。」
「見ないです。」
「見る。」
子どものような言い合いに、相模が苦笑した。
「神谷。」
「はい。」
「食事抜くことになるのは良くないぜ。昼休みは1時間だけだ。」
湊は返す言葉に詰まる。
確かにその通りだった。
代表合宿のスケジュールは分刻みで組まれている。
一度タイミングを逃せば、次いつ食事になるのか。
「それに。」
白瀬が優しく続けた。
「休むのも練習だよ。」
その一言は、不思議と黒峰の言葉よりも素直に胸へ入ってきた。
湊はもう一度だけモニターへ目を向ける。
リプレイはいつでも見返せる。
だが、今は昼休憩だ。
「……分かりました。」
ヘッドギアを片付けると、四人は揃って演習室を出た。
廊下にはすでに多くの代表選手たちが歩いている。
午前の演習について話し合う者。
一人で黙々と資料を読み返す者。
壁にもたれてストレッチをしている者。
同じ代表でも、休憩の過ごし方は人それぞれだった。
その中を歩きながら、東雲だけは終始そわそわしている。
「カレーかな。」
「知らん。」
相模が即答する。
「カツでもいいな。」
「さっきから食べ物のことしか考えてないな。」
「当たり前だろ。」
東雲は真顔だった。
「飯が楽しみだから頑張れる。」
「小学生か。」
白瀬が笑う。
「失礼だな。」
自然と笑いが起こる。
そのやり取りを聞きながら、湊は少しだけ肩の力が抜けていくのを感じていた。
世界大会を戦った代表選手たちも、こうして笑いながら昼食へ向かう。
さっきまで撃ち合っていたとは思えないほど、穏やかな時間だった。
やがて食堂の自動ドアが開く。
その瞬間、湊は思わず足を止めた。
広い。
まるでホテルのレストランのような開放的な空間が目の前に広がっていた。
ガラス張りの窓からは柔らかな陽射しが差し込み、ずらりと並んだ料理には栄養表示まで細かく記されている。
和食、洋食、中華、麺類、サラダバー。
デザートやフルーツまで揃っていて、代表専用施設らしい充実ぶりだった。
「すごい……。」
思わず漏れた声に、黒峰が微笑む。
「初めて来た人はみんなそう言うな。」
「栄養士さんが毎日メニューを考えてくれてるんだって。」
白瀬の説明を聞きながらも、東雲はもう別世界にいた。
「唐揚げ!」
「カレー!」
「ハンバーグまである!」
目を輝かせながら料理を見渡す姿は、試合中の冷静なぷれいやーとはまるで別人だった。
「東雲さん……。」
湊が思わず苦笑すると、相模が肩をすくめる。
「放っておけ。」
「毎回こうだ。」
「代表より食堂の方がテンション高いからな。」
「それは言うな。」
東雲は真面目な顔で答える。
「午後も動くんだから、ちゃんと食わないと勝てない。」
「神谷は何にする?」
白瀬に聞かれ、湊は料理を見渡した。
焼き魚定食。
鶏の照り焼き。
豚の生姜焼き。
どれも美味しそうで、しばらく迷った末に焼き魚とご飯、味噌汁、小鉢をトレーへ乗せる。
「意外と和食なんだ。」
東雲が横から覗き込む。
「はい。家でもこういうのが多いので。」
「なんか神谷らしいな。」
「そうですか?」
「うん。派手なのより、ちゃんとしてる感じ。」
「褒めてます?」
「たぶん。」
東雲が笑うと、相模も肩を揺らした。
「『たぶん』って何だよ。」
「いや、神谷って見てると健康優良児って感じするじゃん。」
「そんなことないですよ。」
湊は苦笑しながらトレーを持ち直す。
その隣で、東雲は迷いなく唐揚げやハンバーグ、カレーを次々と皿へ乗せていく。
「東雲さん、食べ過ぎじゃないですか?」
「午後も動くだろ?」
「動くけど。」
「だから食う。」
あまりにも迷いのない返事に、白瀬が吹き出した。
「その理論、毎回聞いてる気がする。」
「毎回正しいからな。」
東雲は胸を張る。
「腹が減っては勝てぬ。」
「ことわざの使い方は合ってるけど。」
相模が呆れたように笑う。
そんな賑やかなやり取りをしながら料理を選んでいると、不意に湊の視界へ九条の姿が入った。
彼女は他の選手たちのように料理を見比べることもなく、一直線に冷蔵ケースへ向かう。
手に取ったのは、サラダチキン。
続いて、ゆで卵を二つ。
それだけだった。
迷いは一切ない。
決められた行動を繰り返すような自然さだった。
「……あれだけ?」
東雲が思わず小さく呟く。
九条は周囲の視線など気にする様子もなく食事を取り分けると。そのまま窓際の席へ向かって歩いていく。
その背中を見て、湊は少しだけ迷う。
一緒に戦った相手。
しかも、これから一週間同じ合宿を過ごす仲間だ。
「あの。」
思わず声が出た。
九条が足を止め、振り返る。
「……何?」
「よかったら、一緒に食べませんか?」
一瞬、食堂の空気が止まったような気がした。
東雲が「おっ」と小さく声を漏らし、白瀬も少しだけ目を丸くする。
九条は湊と、その後ろにいる三人を順番に見た。
そして、あっさりと首を横に振る。
「やめとく。」
その返事は素っ気ない。
けれど、冷たいわけでもなかった。
「食事くらい、一人で落ち着いて食べたい。」
そう言い残すと、九条は再び窓際へ歩き出す。
「……振られたな。」
東雲が肩を叩いて笑う。
湊も苦笑しながら頭をかいた。
「そうですね。」
「でも、あれが九条さんなんだろうね。」
白瀬は穏やかに微笑む。
四人も近くのテーブルへ腰を下ろした。
食べ始めてしばらくすると、東雲が窓際へ視線を向ける。
「しかし、本当にそれだけなんだな。」
九条のトレーには、サラダチキンとゆで卵、水だけ。
色鮮やかな料理が並ぶ食堂の中では、かえって目立っていた。
「栄養とか足りるのか?」
東雲が首を傾げる。
相模は箸を置きながら答えた。
「必要な栄養はちゃんと計算してるんだろ。」
「体脂肪率も体重も、全部管理してるタイプだ。」
「すごいですね……。」
湊は思わず感心する。
食べたいものを我慢するだけでも大変なのに、それを毎日続けているのだから。
その時だった。
窓際から、ぽつりと声が届く。
「すごくはない。」
四人が一斉に顔を上げる。
九条は食事の手を止めることなく、小さく続けた。
「プロなら当たり前。」
視線はこちらへ向いていない。
独り言のような口調だった。
「食べるものも。」
「寝る時間も。」
「全部、強くなるための準備。」
それだけ言うと、九条は再び黙ってサラダチキンを口へ運ぶ。
東雲は思わず苦笑した。
「……ストイックだなぁ。」
「だから強いんでしょうね。」
白瀬が静かに呟く。
湊は窓際の九条を見つめながら、小さく頷いた。
強さは試合の中だけで生まれるものじゃない。
こうした誰も見ていない日常の積み重ねが、あの圧倒的な速さを支えている。
そう思うと、午前中に見た九条の背中が、少しだけ違って見えた。




