部屋と光
「試合まで2週間だ」
黒峰はそう言いながら演習装置を起動した。
部屋の中央に淡い光が広がり、それがゆっくりと立体へと変わっていく。高架橋、地下通路、工業区画、住宅街。かつてアメリカ戦でも使用された市街地マップが、ほぼ現実と同じ密度で再現されていた。
だが、そこに味方の表示はない。
青いマーカーは1つしか存在せず、赤い点がひとつだけ浮かんでいる。
黒峰。
ただそれだけだった。
湊は思わず息を呑んだ。
「……1on1ですか」
「そうだ」
黒峰は淡々と答える。
「お前は何を使ってもいいし、単独でもいい。俺は敵として動く」
そして一拍置いてから続けた。
「ルールは10分逃げ切り」
湊は顔をしかめる。
元世界代表であり、近接戦闘も索敵もトップクラスの人間を相手に、逃げ切るだけの10分。言葉にすれば簡単だが、実際には成立する未来が見えない。
「……無理じゃないですか」
「無理だからやめるか?」
黒峰はそれだけ言うと、まるで議論の余地がないというように装置を操作した。
《SIMULATION START》
都市全体が戦場へと切り替わる。
開始と同時に、湊は近くの建物へ飛び込んだ。
今回の目的は戦うことじゃない。
十分間、生き残ること。
黒峰を倒す必要はない。
だからこそ、無駄な接触は避ける。
まずは地形を確認する。
射線を切る。
逃走経路を三本確保する。
高架下は捨てる。
住宅街を軸に動き、必要なら地下へ逃げる。
盤面としては悪くない。
少なくとも、自分ならこう組む。
そう考えた、その時だった。
視界の端を、一瞬だけ黒い影が横切る。
「……!」
反射的に照準を向ける。
だが、もういない。
索敵にも反応はない。
足音も聞こえない。
それでも湊は確信した。
近い。
すぐ近くにいる。
その瞬間だった。
背後で何かが落ちる音がした。
振り向く。
誰もいない。
ほんの一瞬。
視線を外しただけだった。
だが、その隙でもう黒峰は別の建物へ移っていた。
「くそ……!」
湊は走る。
見失うわけにはいかない。
黒峰の姿を探す。
見つける。
追う。
また消える。
右。
次は左。
今度は屋上。
見えたと思えば、もういない。
まるで幻を追いかけているようだった。
気付けば、自分がどこを走っているのかも分からなくなっていた。
地図を見る余裕もない。
逃げるために始めたはずなのに。
いつの間にか、自分が追う側になっている。
その瞬間。
《PLAYER ELIMINATED》
乾いた電子音が響いた。
視界が白く染まる。
一発だった。
どこから撃たれたのかすら分からない。
《SIMULATION END》
ヘッドギアを外すと、全身から力が抜けた。
まだ三分も経っていない。
息を整える湊を見て、黒峰はペットボトルの水を一口飲んだ。
「今、何を見てた。」
湊は少し考えて答える。
「黒峰さんの位置です。」
「違う。」
間髪入れずに返ってきた。
「お前が見てたのは。」
「俺が"今いる場所"だ。」
黒峰は床へしゃがみ込み、指で一本の線を引く。
「俺はもう、そこにはいねぇ。目的を見ろ」
湊は言葉を失った。
確かにそうだった。
姿を見つけるたびに、その場所へ意識を向けていた。
だから遅れる。
「……場所じゃない。」
湊は小さく呟く。
「目的を見ろ……か。」
その言葉を胸の中で反芻しながら、もう一度リプレイの再生ボタンを押した。
湊は映像を最初まで巻き戻した。
今度は自分の動きを見ない。
黒峰だけを見る。
開始十秒。
黒峰は動かない。
二十秒。
まだ動かない。
三十秒。
ようやく歩き出した。
「……なんで。」
湊は再生を止める。
今の自分なら、もっと早く動く。
情報を集める。
有利な場所を取る。
相手を探す。
それが普通だ。
だが黒峰は違った。
まるで、待っている。
何かを。
湊は再び再生する。
黒峰の視線を追う。
前を見ているわけでもない。
建物を見ているわけでもない。
ずっと同じ方向を眺めている。
その数秒後。
湊自身が、その通りへ飛び出していた。
「……あ。」
思わず声が漏れた。
黒峰は見つけたんじゃない。
待っていたんだ。
いや。
違う。
待っていたのでもない。
湊ならそこを通ると、最初から決めていた。
「なんで分かった……?」
何度見返しても、答えは出ない。
「まだ見つからねぇか。」
「はい。」
湊は正直に頷く。
「俺なら、あそこは読めません。」
黒峰はリプレイを一度だけ見て、小さく笑った。
「読んでねぇよ。」
「え?」
「当てにいっただけだ。」
湊は眉をひそめる。
「でも、いました。」
「ああ。」
黒峰は頷く。
「八割そこを通ると思った。」
「残り二割なら外れる。」
「ただ、それだけだ。」
湊は画面を見る。
「百パーセントじゃ……ない?」
「当たり前だ。」
黒峰は即答した。
「人間なんだからな。」
「百パーセントなんてねぇ。」
「だから一番高い方に張る。」
「外れたら、次を読む。」
「それだけだ。」
湊はその言葉を聞いて、静かに息をのんだ。
今まで自分は。
"読む"とは、正解を見つけることだと思っていた。
違う。
黒峰は正解を知っていたわけじゃない。
人間は迷う。
だから絶対はない。
それでも、その人間なら一番選びそうな道へ賭けている。
戦術ではなく。
確率でもなく。
人間という相手に。
黒峰は缶コーヒーを持ったまま踵を返す。
「明日は逆だ。」
「俺がお前を読む。」
「お前は、読まれないように動け。」
「それが次の課題だ。」
演習室の扉が閉まる。
湊は一人残され、モニターを見つめ続けた。
黒峰は未来を見ているわけじゃない。
人間が選びそうな未来を、一番信じているだけだった。




