試合後とお姉様
試合終了。
勝利の余韻が会場を包んだ──。
翌日。
昨日までと同じ校舎のはずなのに、学園の空気は明 らかに違っていた。
朝からざわついている。
校門を抜けた瞬間から聞こえてくるのは、試験でも 授業でもなく、昨夜の代表戦の話ばかりだった。
「見た? 昨日の試合」
「アメリカ負けるとか本当にあるんだ……」
「ていうかカムイやばくない?」
名前が耳に入った瞬間、湊の足がほんの少しだけ止まりそうになる。
けれど、何事もない顔をして歩き続けた。
視線は前。
表情も変えない。
昨日、世界最強を相手にしていたのは自分だ。
けれど、その事実を知っている人間はほとんどいない。
世間が見ているのは“カムイ”。
日本最強プレイヤー。
誰もが認める天才。
そして今、自分が借りている名前。
「最後やばかったよな」
「アレスが途中でカムイ狙いに切り替えたの、マジで鳥肌だった」
「世界最強が警戒する相手って意味分かんなくない?」
「しかも読み全部当ててたっぽいし」
教室へ向かう廊下。
聞く気がなくても、会話は自然と耳に入ってくる。
湊は少しだけ視線を落とした。
嬉しくないわけじゃない。
むしろ嬉しい。
昨日の戦いを、ちゃんと見てくれている人がいる。
自分の選択も、読みも、盤面の崩し方も。
誰かが「すごかった」と言っている。
なのに。
胸の奥に引っかかるものが残る。
呼ばれているのは、自分の名前じゃない。
褒められているのは、“カムイ”。
評価されているのも、“カムイ”。
当然だった。
隠しているのは自分だ。
正体を出せない以上、全部あの名前へ向かう。
分かっている。
分かっているのに。
少しだけ、複雑だった。
昨日、確かに戦ったのは自分だ。
そんなことを考えていると、前方が妙に騒がしいことに気づく。
人だかり。
しかも女子ばかりだった。
朝の廊下とは思えない熱量。
「白瀬先輩、おはようございます!」
「昨日の最後の射撃、本当にかっこよかったです!」
「お姉様、今日も綺麗です……!」
中心にいたのは白瀬だった。
相変わらず落ち着いた表情。
騒がれているのに、本人だけ温度差がおかしいほど静かだ。
「……ありがとう」
短く返す。
それだけ。
それだけなのに。
「きゃっ……!」
「今目合った……!」
「無理、好き……!」
女子たちの熱量がさらに上がる。
完全にファンクラブだった。
昨日の冷静な指揮。
最後を決めた一撃。
加えて元々の雰囲気。
全部合わさって、一晩で妙な人気が爆発している。
湊が少し引いた顔になる。
「何これ……」
横から声。
「白瀬様親衛隊」
振り向くと、黒峰が眠そうな顔で缶コーヒーを飲んでいた。
「昨日の配信で増えた」
「配信?」
「最後、冷静に指示出してさ」
黒峰が少し笑う。
「しかもアレス止めた決定打だろ?」
「女子人気、爆発」
「今、“お姉様”って呼ばれてる」
意味が分からない。
白瀬を見る。
本人は慣れていないのか、若干だけ困った顔をしていた。
だが騒ぎは止まらない。
「白瀬先輩、今日一緒にお昼どうですか!」
「サインください!」
「写真……!」
「いやアイドルかよ……」
湊が思わず小さく呟く。
その瞬間。
別方向から、また別の声が飛び込んできた。
「でも昨日、一番ヤバかったのやっぱカムイだよな」
「分かる!」
「盤面崩してたの意味分かんなかった!」
「撃ち合いより読みで勝ってた感じ!」
また、その名前。
カムイ。
無意識に耳が向く。
足も少し止まる。
知らない誰かが、自分の戦いを語っている。
読み。
高架崩し。
アレスの行動変更。
全部見ていた人がいる。
その事実が、少しだけ胸を熱くした。
だけど同時に。
その評価は、自分には届かない。
届いているのに、届かない。
不思議な感覚だった。
昨日、確かに世界最強と向き合った。
あの場にいたのは自分だ。
それなのに。
誰も、自分を見ていない。
見ているのは“カムイ”だけ。
少しだけ。
本当に少しだけ。
悔しいと思ってしまった。
そのとき。
前から静かな足音。
白瀬だった。
さっきまで女子に囲まれていたはずなのに、いつの間にか抜けてきている。
後ろではまだざわつきが続いていた。
「白瀬先輩ー!」
「お姉様!」
「今日一緒にお昼食べませんか!?」
「昨日の試合見ました!」
白瀬は聞こえているはずなのに、反応が薄い。
ただ少しだけ疲れた顔をしていた。
「ごめんね……今日は先約がいるから」
珍しく、少しだけ表情が崩れている。
「朝からずっと?」
湊が聞く。
白瀬は無言で頷いた。
「教室行くまで三回囲まれた」
一拍。
「逃げてきた」
真顔だった。
なのに少し面白い。
湊は思わず笑いそうになる。
昨日まで死にかけていた空気が、嘘みたいだった。
白瀬がそんな湊を見る。
「……笑った」
「え?」
「さっき朝から顔、重かった」
静かな声。
でも少しだけ柔らかい。
湊は視線を逸らす。
「別に」
「嘘」
即答だった。
白瀬が少しだけ視線を下げる。
「気にしてる?」
何を、とは言わない。
でも分かる。
昨日から、ずっと耳に入る言葉。
“カムイ”。
“日本最強”。
“カムイが世界最強を倒した”。
廊下でも。
教室でも。
誰もがその話をしている。
「カムイやばかったよな」
「読みエグすぎ」
「やっぱ世界一だろあれ」
「アレス相手に勝つとか化け物すぎる」
耳に入るたび。
胸の奥が少しだけ揺れる。
間違ってはいない。
でも、少し違う。
昨日、戦ったのは自分だった。
高架を崩した。
時間を作った。
世界最強に詰められながら、盤面を繋いだ。
でも。
名前は全部、“カムイ”へ向かう。
正体を隠している以上、仕方ない。
分かっている。
分かっているのに。
少しだけ、感情が動く。
白瀬が静かに言った。
「今は仕方ない」
真っ直ぐな声だった。
「でも」
一拍。
「昨日戦ったのは、湊」
短い言葉。
でも重かった。
湊は少しだけ目を伏せる。
白瀬は続ける。
「最後まで崩れなかった」
「ちゃんと、見てた」
慰めじゃない。
事実だけを置く言い方。
だからこそ、妙に響く。
そのとき。
後ろから黒瀬が近づいてきた。
「昨日の判断」
短く言う。
「正しかったと思うぜ」
一拍。
「撃ち合いはまだまだ練習だな」
黒峰はそれだけ言って、壁にもたれる。
黒瀬らしい言い方だった。
遠回しもない。
でも。その言葉の重さだけは分かった。
湊は小さく息を吐く。
世間は“カムイ”を見ている。
たぶん、これからも。
昨日の勝利も。
歓声も。
称賛も。
全部、カムイへ向かう。
でも。
全部が偽物じゃない。
少なくとも。
隣にいる人たちは知っている。
昨日、世界最強と向き合ったのが誰なのか。
その事実だけで、少しだけ救われる気がした。
白瀬が前を向く。
「そろそろ行く」
「次の授業、移動」
その瞬間。
また遠くから女子の声。
「白瀬先輩いた!」
「お姉様ー!」
白瀬の肩が、ほんの少しだけ下がる。
「……また来た」
珍しく本気で疲れている声だった。
湊は少し吹き出す。
白瀬がじっと見る。
「助けて」
「なんで俺?」
「昨日の功績者」
「理不尽だろ」
少しだけ空気が軽くなる。
笑い声が混ざる。
昨日までの戦場が、少し遠くなる。
窓の外は、いつも通りの朝だった。
でも。
同じ景色なのに、少しだけ違って見えた。
そんな朝だった。




