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挑発と偶然

 挑発なのか、その表情の意味は分からない。ただ一つ確かなのは、あの男が確実にこちらを 認識したということ だった。

 

 数百メートル離れている。

 こちらは崩れた高層ビルの中腹、半ば遮蔽物に隠れた位置だ。普通なら簡単に見抜ける場所ではない。にもかかわ らず、視線が真っ直ぐこちらを射抜いてくる。

 

 偶然ではない。

 

 見つかった。

 

 もっと正確に言えば、“戦場を見ている側”として察知された。

 

 次の瞬間、湊の身体が反射的に動いた。

 

「カムイ、下がって!」

 

 白瀬の声が通信へ響いたのと、ほぼ同時だった。

 

 崩れた窓枠から身体を引くように飛び退いた瞬間、空気を裂く重い衝撃音がビル内部へ響き渡る。ほんの一瞬前まで頭があった場所を、大口径弾が壁ごと貫通していた。

 

 窓ガラスが砕け、コンクリート片が弾け飛び、灰色の粉塵が視界を覆う。

 

 息が止まりそうになる。

 

 速い、という言葉では足りなかった。

 

 反応してから撃ったのではない。最初からそこへ撃ち込むつもりで引き金を引いている。確認でも威嚇でもなく、純粋な排除。戦場において邪魔な存在を消すためだけの射撃だった。

 

 身体が強張る。

 

 心臓の音が嫌になるほど大きい。

 

 三週間、黒峰との訓練で何度も死ぬほど撃たれた。射線管理、立ち位置、視界の切り方、全部嫌というほど叩き込まれたはずだった。それでも今感じている圧は、訓練とは質が違う。

 

 圧倒的だった。

 

 そこにあるのは技術だけではない。

 

 経験。

 自信。

 そして、“勝てる側”の余裕。

 

 今、戦場を握っているのはアレスだ。


 中央高架に立つ世界最強の存在が、盤面全体の流れを支配している。


 誰も正面から中央へ踏み込まない。

 踏み込めない。


 アレスに見つかった瞬間、落とされる。


 その認識が敵味方問わず共有されていた。


 結果として中央は膠着する。


 本来なら激しくぶつかるはずの戦線が、たった一人の存在によって止められている。


 まるで戦場そのものが、アレスを中心に回っているようだった。

 アレスという男は、相手を恐れていない。むしろ、自分が勝つ前提で盤面を動かしている。

 

 そしてアレスは気づいたのだ。

 

 中央の違和感に最初に反応した存在がいることを。

 

 そして、真っ先に潰しへ来た。

 

 通信の向こうでは、中央戦線が一気に荒れ始めている。

 

『中央押される!』

 

 鷹宮の声には、珍しく余裕がなかった。

 

『火力高すぎる、これ抑えきれねぇ!』

 

 爆発音が響き、遮蔽物が崩れる音が続く。相手は人数を割いているわけではない。それでも、真正面からの撃ち合いだけで日本側を押し込み始めている。

 

 世界最強。

 

 その言葉を、嫌でも実感させられる光景だった。

 

 ただ――湊の中には、別の違和感が残り続けていた。

 

 強すぎる。

 

 いや、派手すぎる。

 

 中央の圧力が露骨だった。

 アレスが高架上から存在感を見せつけ、中央戦線では火力戦を仕掛ける。その動きは明らかに“見せる”戦い方だ。

 

 もし自分が普通の指揮官なら、間違いなく中央へ意識を固定される。

 

 アレスを止めなければ。

 中央を崩されたら終わる。

 

 そう考えて、全戦力を寄せてしまう。

 

 でも――。

 

(違う)

 

 嫌な感覚が消えない。

 

 湊は崩れた窓際から、もう一度マップ全体を見た。

 

 中央は激戦。

 地下は相模が警戒中。

 西側は牽制程度。

 

 そして、静かすぎる場所が一つだけあった。

 

 東商業区。

 

 本来、日本側が最も警戒していたルート。

 

 高低差が多く、建物密集地帯で護送向き。VIP ESCORTでは本命になりやすい構造なのに、そこだけが妙に静かだった。

 

 静かすぎる。

 

 誰もいないのではない。

 

 “いないように見せている”。

 

 その瞬間、湊の中で何かが繋がった。

 

 中央の激戦。

 アレスの露骨な圧。

 地下への意識分散。

 

 全部が、“見る場所を固定するため”なら?

 

 もし中央が本命ではなく、視線を奪うための囮だったら?

 

 そして、世界最強がわざわざ前へ出てきた理由が、“突破役”ではなく“目隠し役”だったとしたら――。

 

 背筋へ冷たいものが走る。

 

 そのタイミングで、通信へ相模の低い声が割り込んだ。

 

『……待て』

 

 短い沈黙。

 

 次いで、普段ほとんど乱れない声へわずかな緊張が混じる。

 

『地下、敵反応なし』

 

『・・・』

 

 空気が止まった。

 

 答え合わせだった。

 

 湊はほとんど反射で叫ぶ。

 

「東だ!」

 

「VIP、東商業区! 中央は囮!!」

 

 一瞬だけ通信が静まり返り、その直後、白瀬の声色が完全に切り替わった。

 

「全員、東へルート変更!」

 

「東雲は中央離脱、鷹宮カバー! 相模、先回りして迎撃準備!」

 

 命令が飛ぶ。

 

 盤面が動く。

 

 だが、その途中で白瀬が言葉を止めた。

 

 そして、静かな声で問いかける。

 

「カムイ」

 

 一拍。

 

「アレス、止められる?」

 

 湊の呼吸が止まる。

 

 無理だ。

 

 正面からやれば、一瞬で終わる。

 相手は世界最強。撃ち合えば勝負にもならない。

 

 でも。

 

 ここで通せば、日本が崩れる。

 

 その時、脳裏へ黒峰の声が落ちてきた。

 

『勝てねぇなら、戦場そのもの変えろ』

 

 湊はゆっくり息を吐く。

 

 怖い。

 

 普通に、ものすごく怖い。

 

 でも、考えることはできる。

 

 そして今、アレスの意識はこちらに向いている。

 

 だったら。

 

 その視線ごと、盤面を壊せばいい。


通信が一瞬だけ静まり返る。

 

 戦場の騒音は止まらない。中央では銃声が連続し、高架下では爆発音が反響している。それでも、湊の耳には自分の呼吸音だけが妙に大きく聞こえていた。

 

 アレスを止める。

 

 言葉にすれば簡単だ。

 だが相手は世界最強。真正面から撃ち合えば、勝負にすらならないことは、この数分だけでも十分理解できた。

 

 三週間。

 

 死ぬほど叩き込まれた。

 撃ち合うな。

 正面からやるな。

 勝つ必要もない。

 

 ――壊せ。

 

 黒峰の言葉が頭の奥で反響する。

 

 湊は高架構造をもう一度見上げた。

 

 アレスは中央上層、高架ラインの制圧位置を取っている。見晴らしが良く、中央全体へ圧を掛けられる完璧なポジションだった。ただ、逆に言えば“そこにいないと成立しない役割”でもある。

 

 あの男は強い。

 

 だが今の役目は、突破ではない。

 

 盤面の中心として立ち、こちらの思考を縛ること。

 つまり――視線を固定するための存在。

 

(だったら)

 

 湊の視界が少しだけ変わる。

 

 崩れた道路。

 高架を支える支柱。

 中腹の輸送レール。

 広告用ホログラムの電源ユニット。

 そして、高架上の退路。

 

 普通なら見ない情報が、勝手に頭の中で線になり始める。

 

 黒峰との訓練中、何度も言われた。

 

『強ぇ奴は“勝てる場所”に立つ』

『だから、その場所を消せ』

 

 アレスは動かない。

 

 いや、動けない。

 

 あそこに立つことで中央を支配している以上、自分から位置を捨てる理由がない。

 

 だったら――。

 

「白瀬」

 

 湊が口を開く。

 

「十五秒ください」

 

 通信の向こうがわずかに止まった。

 

『……何する気?』

 

「アレスを動かします」

 

 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

 

 根拠なんてない。

 成功率も分からない。

 

 でも、なぜか“崩れる未来”だけは見えていた。

 

 白瀬は数秒黙る。

 

 その沈黙の間にも中央は削られている。普通なら反対されてもおかしくない時間だった。

 

 だが、返ってきたのは短い一言だった。

 

『分かった』

 

『十五秒だけ作る』

 

 その瞬間、通信へ次々と指示が飛ぶ。

 

『東雲、中央ライン維持! 絶対に押し返そうとしなくていい、時間だけ作って!』

 

『鷹宮、煙幕展開。高架の視界切る!』

 

『相模、東商業区へ急行。敵護送ルートを遅らせて』

 

 動く。

 

 盤面が一気にズレ始める。

 

 湊は崩れたビル内部を走った。

 

 銃を構えるためではない。

 撃つためでもない。

 

 位置を変えるためだ。

 

 高架の真下へ。

 

 足場の悪い瓦礫を飛び越えながら、頭の中では構造図だけが回り続ける。

 

 高架を支える支柱は四本。

 そのうち一本だけが補修痕あり。

 さらに、その裏側へ大型広告ホログラムの制御ユニット。

 

 そして何より――。

 

 アレスの退路が、そこへ依存している。

 

 もし崩れれば。

 

 もし射線がズレれば。

 

 あの男は“勝てる場所”を失う。

 

 それだけで十分だった。

 

 撃ち勝つ必要なんてない。

 

 怪物を、少しだけ立ち位置からズラせばいい。

 

 その瞬間だった。

 

 通信へ低い声が落ちる。

 

『……面白いこと考えるな』

 

 黒峰だった。

 

 観戦室。

 リアルタイム映像を見ているはずの男が、どこか楽しそうに笑っているのが声だけで分かる。

 

『続けろ、カムイ』

 

『それでいい』

 

 湊は返事をしない。

 

 余裕がない。

 

 心臓はうるさいし、足は震えている。

 正直、今すぐ逃げたい。

 

 でも――。

 

 視界の先で、未来が少しだけ見えてしまう。

 

 このままなら負ける。

 

 でも、少しズレれば。

 

 ほんの少しだけ配置が崩れれば、東商業区の迎撃が間に合う。

 

 つまり。

 

 まだ負けていない。

 

 高架下へ到着した瞬間、湊は足を止めた。

 

 上を見る。

 

 そこには、アレス。

 

 高架上から戦場全体を支配している怪物がいる。

 

 普通なら見上げることすら怖くなる相手。

 

 なのに。

 

 なぜか今だけは、少しだけ理解できる気がした。

 

 この男もまた、“勝つための配置”を選んでいるだけだ。

 

 だったら。

 

 盤面ごと壊す。

 

 湊は深く息を吸い、崩れた支柱の横にしゃがみ込む。

 

 そして、初めて自分から照準を合わせた。

 

 敵じゃない。

 

 高架を支える補助ユニットへ。

 

「撃ち合いじゃない……」

 

 小さく呟く。

 

「戦場を、壊す」

 

 指が引き金へ掛かった。

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