始まりと入場
待機室の空気は、時間が経つほどに重くなっていった。誰も騒がず、無駄な会話もない。ただ各国代表たちが静かに準備を進めているだけなのに、その場には試合前特有の張り詰めた緊張感が確かに存在していた。
【JAPAN VS UNITED STATES】
その表示を視界へ入れるたび、胃の奥がじわりと重くなる。
相手はアメリカ代表。
現世界ランキング一位。圧倒的な個人性能を武器に、正面から相手をねじ伏せるスタイルを貫く、今のTF界で最も完成されたチームの一つだった。
そして、その中心には当然――アレスがいる。
三週間の訓練中、嫌になるほど映像を見せられた男だった。反応速度、射撃制度、盤面への圧力、そのどれもが異常値。特に撃ち合いに関しては、黒峰ですら「あれはまともに相手するな」と言い切ったほどだ。
『真正面からやるな』
『あいつは人間性能で殴ってくる』
『付き合ったら負ける』
黒峰の言葉が、不意に頭の中へ蘇る。
つまり、湊にとって最悪に近い相手だった。撃ち合いが苦手な自分が、一番相性の悪い怪物と当たる。冗談みたいな組み合わせだった。
(……帰りたい)
本日何度目か分からない本音が、静かに胸の中へ浮かぶ。
すると、隣から呆れたような声が飛んできた。
「震えてる」
白瀬だった。
「震えてません」
「震えてる」
即答だった。
視線を向けると、白瀬は小さくため息を吐いている。その表情はいつも通り冷静だったが、どこか少しだけ硬い。きっと彼女も平然としているように見えて、内側では気を張っているのだろう。
「緊張するのは普通。でも、それを見せたら終わり」
白瀬は前を向いたまま静かに言う。
「カムイなら、不安を相手に読ませない。余裕そうに見せるだけで、盤面が少し動くから」
その言葉に、湊は小さく息を止めた。
三週間、何度も叩き込まれたことだった。
司令塔が揺れれば、全員が揺れる。
だからこそ、“見えている側”は落ち着いて見えなければいけない。たとえ内心でどれだけ焦っていても、それを相手へ悟らせた瞬間に主導権を失う。
湊はゆっくり呼吸を整えた。
肩の力を抜く。
視線を少しだけ落とし、無理に堂々としようとするのではなく、どこか気怠そうに立つ。
カムイの映像を思い出す。
あの人は、何も急いでいなかった。
焦っているようにも見えなかった。
最初から全部知っている人間みたいに、ただ自然体で立っていた。
真似る。
完全には無理でも、少しだけでも近づく。
すると。
隣の白瀬がわずかに目を細めた。
「……それ」
「ちょっとだけ似てる」
「マジですか」
「少しだけムカつく」
たぶん褒め言葉だった。
少なくとも、三週間前の自分なら絶対に言われなかった言葉だ。
その時、不意に館内アナウンスが響く。
『両代表選手は準備を開始してください』
空気が変わった。
待機室全体の温度が、ほんの少しだけ下がった気がする。
周囲の選手たちが静かに立ち上がり、それぞれ装備確認を始めていく。誰も無駄口を叩かない。ただ当たり前のように、戦場へ向かう顔へ変わっていく。
その空気の変化が、逆に現実味を増幅させていた。
そして。
一番奥のソファから、アレスが立ち上がる。
ただ、それだけだった。
なのに空気が変わる。
高身長の身体。鋭い視線。気負いも威圧もないのに、ただ歩くだけで周囲の視線を自然と集めてしまう存在感。
強い人間とは、こういう人間を言うのかもしれない。
技術だけではない。
実績だけでもない。
積み上げてきた勝利と覚悟が、その人間そのものを“怪物”へ変えていく。
アレスはこちらを一瞬だけ見た。
そして、ほんの少しだけ口元を歪める。
笑ったようにも見えたし、挑発にも見えた。
だが、そこに敵意より先にあったのは――期待だった。
まるで、「ようやく会えた」とでも言いたげな目だった。
嫌な予感しかしない。
「行くわよ」
白瀬の声が、思考を引き戻す。
湊は小さく頷いた。
足が重い。
喉も乾いている。
正直、今すぐ帰りたい。
でも、もう戻れない。
三週間で何度も繰り返し胸に刻んだ言葉。
撃ち合うな。
壊せ。
先を読め。
盤面を動かせ。
自分にできることをやるしかない。
やがて、巨大な扉の前へ辿り着く。
その向こうが、試合会場。
国家交流戦の舞台。
世界中が視聴し、日本の未来すら左右する戦場。
スタッフが静かに確認を取った。
「日本代表、入場準備お願いします」
手汗が酷い。
心臓もうるさい。
それでも。
湊は一度だけ深く息を吸った。
怖い。
でも、逃げない。
扉が、ゆっくりと開いていく。
眩しい光が差し込み、遅れて巨大な歓声が押し寄せてきた。
世界中の熱狂が、まるで波みたいにこちらへ流れ込んでくる。
そして。
スタッフの声が、静かに響いた。
「日本代表、入場です」
ここから先は、本物の代表たちしかいない。
つまり。
アメリカ代表もいる。
湊の喉が、少しだけ乾いた。
黒峰が立ち止まる。
「ここから先、俺は入れねぇ」
「元代表は規定で禁止」
壁に寄りかかりながら、黒峰は湊を見る。
数秒。
珍しく、少しだけ真面目な顔だった。
「楽しんでこいや」
「……行きます」
白瀬が小さく頷く。
扉が開く。
そして。
湊は、ゆっくりと一歩を踏み出した。




