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17/23

始まりと入場

待機室の空気は、時間が経つほどに重くなっていった。誰も騒がず、無駄な会話もない。ただ各国代表たちが静かに準備を進めているだけなのに、その場には試合前特有の張り詰めた緊張感が確かに存在していた。

 

【JAPAN VS UNITED STATES】

 

 その表示を視界へ入れるたび、胃の奥がじわりと重くなる。

 

 相手はアメリカ代表。

 現世界ランキング一位。圧倒的な個人性能を武器に、正面から相手をねじ伏せるスタイルを貫く、今のTF界で最も完成されたチームの一つだった。

 

 そして、その中心には当然――アレスがいる。

 

 三週間の訓練中、嫌になるほど映像を見せられた男だった。反応速度、射撃制度、盤面への圧力、そのどれもが異常値。特に撃ち合いに関しては、黒峰ですら「あれはまともに相手するな」と言い切ったほどだ。

 

『真正面からやるな』

『あいつは人間性能で殴ってくる』

『付き合ったら負ける』

 

 黒峰の言葉が、不意に頭の中へ蘇る。

 

 つまり、湊にとって最悪に近い相手だった。撃ち合いが苦手な自分が、一番相性の悪い怪物と当たる。冗談みたいな組み合わせだった。

 

(……帰りたい)

 

 本日何度目か分からない本音が、静かに胸の中へ浮かぶ。

 

 すると、隣から呆れたような声が飛んできた。

 

「震えてる」

 

 白瀬だった。

 

「震えてません」

 

「震えてる」

 

 即答だった。

 

 視線を向けると、白瀬は小さくため息を吐いている。その表情はいつも通り冷静だったが、どこか少しだけ硬い。きっと彼女も平然としているように見えて、内側では気を張っているのだろう。

 

「緊張するのは普通。でも、それを見せたら終わり」

 

 白瀬は前を向いたまま静かに言う。

 

「カムイなら、不安を相手に読ませない。余裕そうに見せるだけで、盤面が少し動くから」

 

 その言葉に、湊は小さく息を止めた。

 

 三週間、何度も叩き込まれたことだった。

 

 司令塔が揺れれば、全員が揺れる。

 だからこそ、“見えている側”は落ち着いて見えなければいけない。たとえ内心でどれだけ焦っていても、それを相手へ悟らせた瞬間に主導権を失う。

 

 湊はゆっくり呼吸を整えた。

 

 肩の力を抜く。

 視線を少しだけ落とし、無理に堂々としようとするのではなく、どこか気怠そうに立つ。

 

 カムイの映像を思い出す。

 

 あの人は、何も急いでいなかった。

 焦っているようにも見えなかった。

 最初から全部知っている人間みたいに、ただ自然体で立っていた。

 

 真似る。

 

 完全には無理でも、少しだけでも近づく。

 

 すると。

 

 隣の白瀬がわずかに目を細めた。

 

「……それ」

 

「ちょっとだけ似てる」

 

「マジですか」

 

「少しだけムカつく」

 

 たぶん褒め言葉だった。

 

 少なくとも、三週間前の自分なら絶対に言われなかった言葉だ。

 

 その時、不意に館内アナウンスが響く。

 

『両代表選手は準備を開始してください』

 

 空気が変わった。

 

 待機室全体の温度が、ほんの少しだけ下がった気がする。

 

 周囲の選手たちが静かに立ち上がり、それぞれ装備確認を始めていく。誰も無駄口を叩かない。ただ当たり前のように、戦場へ向かう顔へ変わっていく。

 

 その空気の変化が、逆に現実味を増幅させていた。

 

 そして。

 

 一番奥のソファから、アレスが立ち上がる。

 

 ただ、それだけだった。

 

 なのに空気が変わる。

 

 高身長の身体。鋭い視線。気負いも威圧もないのに、ただ歩くだけで周囲の視線を自然と集めてしまう存在感。

 

 強い人間とは、こういう人間を言うのかもしれない。

 

 技術だけではない。

 実績だけでもない。

 

 積み上げてきた勝利と覚悟が、その人間そのものを“怪物”へ変えていく。

 

 アレスはこちらを一瞬だけ見た。

 

 そして、ほんの少しだけ口元を歪める。

 

 笑ったようにも見えたし、挑発にも見えた。

 だが、そこに敵意より先にあったのは――期待だった。

 

 まるで、「ようやく会えた」とでも言いたげな目だった。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「行くわよ」

 

 白瀬の声が、思考を引き戻す。

 

 湊は小さく頷いた。

 

 足が重い。

 喉も乾いている。

 正直、今すぐ帰りたい。

 

 でも、もう戻れない。


  

 三週間で何度も繰り返し胸に刻んだ言葉。

 

 撃ち合うな。

 壊せ。

 先を読め。

 盤面を動かせ。

 

 自分にできることをやるしかない。

 

 やがて、巨大な扉の前へ辿り着く。

 

 その向こうが、試合会場。

 国家交流戦の舞台。

 世界中が視聴し、日本の未来すら左右する戦場。

 

 スタッフが静かに確認を取った。

 

「日本代表、入場準備お願いします」

 

 手汗が酷い。

 心臓もうるさい。

 

 それでも。

 

 湊は一度だけ深く息を吸った。

 

 怖い。

 でも、逃げない。

 

 扉が、ゆっくりと開いていく。

 

 眩しい光が差し込み、遅れて巨大な歓声が押し寄せてきた。

 

 世界中の熱狂が、まるで波みたいにこちらへ流れ込んでくる。

 

 そして。

 

 スタッフの声が、静かに響いた。

 

「日本代表、入場です」

 

 ここから先は、本物の代表たちしかいない。

 

 つまり。

 

 アメリカ代表もいる。

 

 湊の喉が、少しだけ乾いた。

 

 黒峰が立ち止まる。

 

「ここから先、俺は入れねぇ」

 

「元代表は規定で禁止」

 

 壁に寄りかかりながら、黒峰は湊を見る。

 

 数秒。

 

 珍しく、少しだけ真面目な顔だった。


「楽しんでこいや」


「……行きます」

 

 白瀬が小さく頷く。

 

 扉が開く。

 

 そして。


 湊は、ゆっくりと一歩を踏み出した。

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