怪物と覚悟
会議室の空気が、目に見えない何かに押し潰されたように静まり返る。
その名前を聞いた瞬間、空気の密度そのものが変わった気がした。
黒峰蓮。
TFを少しでも知っている人間なら、一度は耳にしたことがある名前だった。
今でこそ第一線から姿を消しているが、数年前まで日本代表の中心にいた男。極端な撃ち合い能力と、異常なまでの実戦感覚で数々の国家戦を勝利へ導いた、いわば“怪物”の一人である。
ただし。
同時に問題児としても有名だった。
協調性皆無。
規律無視。
記者会見で暴言。
監督と喧嘩。
海外代表との乱闘未遂。
そして、突然の代表引退。
ネット記事でも何度も炎上していたので、湊でも名前くらいは知っている。
(え……この人に教育されるの?)
よりによって、自分の教育係がこの人。
不安しかない。
というか、もう嫌な未来しか見えない。
そんな湊の内心など気にも留めず、黒峰は面倒そうに椅子を引き、どかっと腰を下ろした。
そして缶コーヒーを一口飲みながら、改めて湊を見る。
「で?」
その一言に、湊は思わず目を瞬かせた。
「……で?」
「お前、本当にカムイの代役やる気あんの?」
問いというより確認だった。
値踏み。
試験。
そんな響きがある。
湊は一瞬だけ言葉に詰まる。
やりたいかと言われれば、正直やりたくない。
普通に怖い。
命が狙われると言われた。
国家レベルの責任も背負わされる。
しかも自分は弱い。
撃ち合いなんて、クラス中堅にも負ける。
どう考えても向いていない。
だが。
脳裏に浮かんだのは、さっき見た映像だった。
カムイの戦場。
相手を盤面ごと動かし、勝ち筋を作る姿。
あれは――どこか、自分に似ていた。
「……分からないです」
正直に答えた。
その言葉に黒峰の目もぎらつく。
「でも」
一度だけ言葉を区切る。
「逃げた方が後悔する気はしてます」
静寂が落ちる。
久我は何も言わない。
校長も黙っている。
白瀬だけが、少しだけ意外そうな顔をしていた。
黒峰はしばらく無言だった。
そして。
「へぇ」
少しだけ、口元を歪める。
それは笑ったというより、獲物を見つけた獣みたいな表情だった。
「いいじゃん」
次の瞬間。
黒峰が突然立ち上がる。
「よし、行くぞ」
「……はい?」
「訓練」
あまりにも当然みたいに言う。
湊は思わず時計を見る。
「いや、今からですか?」
「当たり前だろ」
黒峰が呆れた顔をする。
「三週間しかねぇんだぞ? 寝てる暇あると思うな?」
嫌な予感が、ものすごい速度で現実になり始めていた。
「ちょ、待ってください! 心の準備が――」
「そんなもん戦場でしてくれる敵いねぇよ」
即終了。
理不尽だった。
すると隣で、白瀬が静かに立ち上がる。
「私も行きます」
湊が思わず振り向く。
「え?」
白瀬は当然のような顔で言った。
「サポート任務だから。それに――」
一瞬だけ言葉を止める。
「あなた一人だと、たぶん一日目で壊れる」
「否定できない……」
黒峰が吹き出した。
「ははっ、面白ぇなお前ら」
そう言いながら、黒峰は会議室の扉へ向かう。
そして、不意に振り返った。
その目だけが、さっきまでと違っていた。
笑っていない。
鋭い。
戦場の人間の目だった。
「一応言っとく」
低い声。
「これはもう遊びじゃねえ、もう普通の高校生活が送れると思うな。」
空気が冷える。
「それだけカムイが消えた穴ってのはでかい」
久我も黙ったままだ。
否定しない。
つまり本当なのだ。
「お前が失敗したら終わりだ。お前個人じゃなく、日本が終わる」
軽い調子は消えていた。
「だから鍛える。死ぬほどな」
その言葉に。
湊はようやく、本当に戻れない場所へ来てしまった気がした。
俺たちはVR室に向かった。
VR室へ向かう廊下は、やけに長く感じた。
足音だけが一定のリズムで響いているのに、そのリズムがどこか現実から浮いている。
湊は何度か立ち止まりそうになって、そのたびに黒峰の背中を見て思いとどまった。
さっきまでの会議室の話を頭の中で整理する。
国家代表。
失踪。
代役。
命の危険。
それが全部、自分に乗っている。
「怖気付いたか?」
黒峰が前を向いたまま言う。
湊は一瞬言葉に詰まる。
「……怖くないって言ったら嘘になります」
「正直でいい」
短い返事。
肯定でも否定でもない。
ただ、切り捨てでもなかった。
少しだけ救いのない優しさだった。
「でもな」
黒峰はそこで初めて振り返る。
目は笑っていない。
「怖がって止まる奴は、もっと早く死ぬ」
その言葉で、空気が一段重くなる。
湊はそれ以上何も言えなかった。
白瀬も、口を挟まない。
ただ静かに後ろを歩いている。
その沈黙が、余計に逃げ場をなくしていた。
(覚悟決めろ、、、俺。)
そう思った瞬間。
VR室にたどり着いた。




