吟遊のリンネ
水の中に沈みながら、リンネはようやく真実に辿り着いた。
シロちゃん――は〝アスラ王〟だ。
弱いひとびとへのまなざし、誰より彼らの幸せを願う者、そして——そのせいで誰よりも傷ついた。
〝勇者〟シロルのその後の光景は、揺れる水の中におぼろげながら浮かんできた。
仲間を殺され、故郷を出た彼は、そののちも自分の力を奴隷や追われた人々のために使い、彼らを守護し、やがて集団を導くようになった。
そのとき彼はもうすっかり大人になっていた。
長い髪は束ねることをやめて、流れるままにさせて、風になびかせながら、人々はその後に続いていく。
長い逍遥の末、彼はまだ誰も辿り着いたことのない土地を見つけ――そこで国を興すことにした。
国の名は『ザヤ』。古代語で、『恵み』を意味する。
今までそれを得られなかった人々は、アスラ王の庇護のもと、しばらく平和に暮らしていた。
――だが、あのドライアドの病魔が始まった。植物は急速に枯れ、畑は干上がった。
松明を掲げた群衆が、弱ったドライアドたちを囲んで、今にも火をつけようとしていた。
それを見ていたアスラ王は——悲しそうに目を伏せて呪文を唱えると、ザヤにドライアドだけ取り残して、ほかの民を国の外へ転移させてしまった。
王は民に謝ると、ふたたび新天地を目指して——長い旅が始まった。
そこで、王は砂漠を彷徨するハイ・エルフと呼ばれた人々と出会った。
彼らは世界樹から月に信仰を変えたため、森を追われた異教徒たちだった。
アスラ王は迷える彼らを仲間に加えて——そこが転機となった。
ハイ・エルフたちは、アスラ王と交わることを求めたのだ。
森のエルフの血を薄め、心からアスラ王の臣民になりたいと申し出て——王は迷ったが、了承した。
こうして、アスラ王の王室はできあがった。
王とエルフたちが成した子たちは強く逞しく育ち、——やがて世代を重ねるごとに、褐色の肌と銀髪の容姿に変わっていった。彼らの祖が望んだとおりに。
彼らは王の強力な兵隊となって、アスラを守った。
彼らを奴隷にしようと捕らえようとしてくる者たちもいたが、戦いは常に圧倒的な勝利を収めた。
戦いに戦いの果て――彼らはついに、魔境に辿り着いた。
その時点で、もうアスラ王は自分の名を棄て、自身を〝魔王〟と名乗るようになっていた。
彼を信じ、ついてきた臣民たちには彼の魔力が流れ込み、すでに皆が魔族と化していた。
やがて彼は魔境を治めると、人類と戦争を始めた。
――そして、リンネが知る十年前の戦いが起きる。
魔王は、四天王を退けた人間の少年たちがいると知って、彼らを魔王城の玉座に招待した。
もしかしたら――彼は、そこで〝勇者〟たちが自分を打ち負かすことに、賭けたのかもしれない。
止まらなくなった戦争の歯車を、若い彼らが破壊してくれると信じて。
水中に揺らめくヴィジョンの中に若い勇者と、若い師匠の横顔の見て——リンネは気が遠くなるような思いがした。
彼も、魔王も、懸命に戦った。戦った末に、これなのだ。
なぜ、みんな、一生懸命生きているはずなのに――世の中は正しい方向に動かないんだろう?
勇者シロルが——魔導王アスラは――自身が魔王に堕ちて、勇者がそれを倒して、世界が正常に向かうことを期待していた。
(誰かが………それを……じゃましてる……)
泡を吐きながら、リンネはそっと自身の考えをつぶやいた。
正体は、わからない。だが、途方もなく大きな、強力な何かの意思が、この世界を破滅に落とそうとしている。
そう直感したとき、ざあっ――と水から上がって、リンネはあの鏡の前に投げ出されていた。
ホーマーは、いなくなっていた。
濡れた身体を起こして、リンネは走った。
この真実を――伝えなくては。
みんな、世の中の混乱は〝勇者と魔王〟の戦いが元凶だと思っている。
でも、もっと原因は遠くにあって——この世界を痛めつけようとする、何かの力が働いている。
その力にシロルは負けた。アスラも負けた。〝魔王〟も、敗北を受け入れたうえで希望を託したが——それも壊された。
〝勇者〟たちは、今でも希望を信じて戦っている。
でも——それすらも、負けてしまったら?
魔王が嘆いたこの世界の残酷な仕組みというものに、彼らまで敗北したら?
そんなの……認めたくない。
ゲートを飛び越えて、濡れた姿のままザヤに戻ってきたリンネは、自分を探す仔オオカミたちの群れに気づいた。
「おねえちゃん!」
「どこか行っちゃったのかと思った……」
「池にでも落ちたの? 寒くない? 大丈夫?」
リンネの新しい弟妹たちは、口々に彼女を気遣ったが、リンネは気丈にうなずいた。
「だいじょうぶ! それより、大変なの――この世界は、ほんとは——」
そこまで言いかけて、リンネは気がついた。
話すのか? こんな子どもたちに、あんな残酷な歴史を。
勇者シロルが辿った運命――魔導王アスラが屈した運命――魔王の最期まで。
なんの救いもない、希望も残らない、非情を極めた話になる。
そんな世界の残酷さを、こんな年端も行かない子に押しつけるというのか?
リンネの身体から力が抜けた。すとん、とその場の膝をつくと、心配したみんなが集まってくる。
「おねえちゃん、大丈夫?」
リンネは、また泣きそうになった。
真実を知ったのに――自分は、こんなときにも無力だ。
それに、ただ真実を伝えたところで——何が変わるというのだろう?
だが、勇者シロルは、リンネの大切な友達だ。
彼の悲しみが、誰にも知られないまま、歴史に埋もれて消えていくなんて。
――そんなの、耐えられない。
「ねえ……みんな、お願いしていい? 広間に、できるだけ、たくさんの人、集めて……」
リンネは、静かに、だが真剣に話した。
リンネの一生懸命な気持ちが伝わったのか、深く聞くまでもなく、子どもたちは次々とうなずいた。
「子どもたちみんな集めてくるよ!」
「その子のパパとママたちにも!!」
「知らない人は怖いけど……ぼく、がんばるよ!!」
リンネは、そこで少し瞳を潤ませた。
義姉になって間もないリンネに、全幅の信頼を置いて、懸命に応えてくれる家族たちに。
そして——リンネはもうひとつの家族を頼ることにした。
騎士になった元・群れの仲間たちにも、ひとりひとり声をかけて、頼み込んだ。
「お願い!! できるだけたくさんの人を広間に集めて!!」
王女の不在にザヤを守る任にあたっている彼らは、最初は複雑そうに顔を見合わせていたが——涙をにじませ、それでも決死の表情で自分たちを見るリンネに、小さな笑いを返した。
「お前は言ったら聞かないもんなぁ。百年ずっとそうだ」
「お前に何か考えがあるんだな? だったら、聞いてやる。それが大人の責任だ」
ザヤの地に来て、正体を明かしてからというもの、彼らは皆、よそよそしかった。
だが、ここで久しぶりに――彼らは〝家族〟としてリンネの頼みを聞いてくれた。
リンネは走り回って、人を頼った末に、広間に辿り着く。
そこにはザヤに逗留しているほとんどの人がいるのではないかというぐらいひしめていた。
広間の真ん中を、エルフの家族に頼んで人払いさせてもらうと、リンネはそこで手をあげ注目を集める。
「わたしの——歌を、きいてください!」
みんな「はぁ?」という顔だし、実際、そう声に出した。
人々を総動員させて、何か重大事かと思えば、子どもひとりが歌をうたいたいという。
拍子抜けだと帰っていく人々もいた。どれだけ頼み込んでも、子どもの遊びだと取り合ってくれない。
残されたのは、リンネの妹弟たち、エルフの家族、それと、幾人かの子どもたちぐらいだった。
リンネは無力感に陥りそうになったが、ごくり、と唾を呑み、喉を潤すと、勇気を出して、声を出した。
「これから歌うのは——ひとりの勇者! 勇者にして王! 王にして、——〝魔王〟を言祝ぐ歌!」
何も知らされていなかった者たちは、その言葉に唖然とした。
〝魔王〟を言祝ぐ歌だなんて、今の時代に不適切にもほどがある。
だが、ひとりの仔オオカミが「ききたい!」と声をあげる。
それに端を発して、子どもたちが一斉に唱和した。
「ききたーい!!!」
みんな、リンネが本を読んでやったり、歌をうたってあげたりして遊んであげた子たちだ。
子どもが残るのなら仕方ないと親たちも留まる。
子どもたちの元気な後押しを受けて、笑顔を浮かべたリンネは、すぅっと息を吸い込み――、頭、というより、心に浮かんだフレーズを口にする。
「『ぼくは、雨になるよ——雨になるよ――』」
どんな火が起きても、ぼくはそこに降り注ぐ。
どんなに大きい火でも、なだめて、あやし、きみのふるさとにおかえり、と言う——。
ぼくや、きみたちにも、ある心のふるさとに。おかえり。みんな、おかえり。
どんなに涙に濡れた顔も、ぼくの雨が、流し去って、笑顔にするよ。
そこから晴れた空を見上げたら、どんなにいいだろう。
きみと見上げる空は広くて、どこからでも雨は見守っている。
大地に染み込み、根付き、花を咲かせて。
ぼくらの国を作ろう。幸せの雨の降る、ぼくらだけの国を。
ぼくときみで、作ろう――雨の涙で作った、みんなの国を。
みんな、リンネの声に聞きほれていた。
リンネは、自分でも不思議なほど喉が通った。
思いついたこともない言葉の組み合わせに、声の調子が合わさって、自分の声であって、自分の声ではないような――。
(ああ……そっか、これは、〝みんなの声〟だから……)
勇者シロルと、彼が救おうともがいた人々。
そのすべての声と気持ちがリンネの胸を突き抜け、空に広がるようだった。
自然と、リンネは手足を動かし、ゆったりと舞い始めた。
すっと両手を伸ばし、身体をひねって、ゆったりと回転を加えたジャンプ。
そして、また歌い始めた。
「『ぼくは、雨になるよ——雨になるよ――』」
次第に、その声に重なる歌声があった。
繰り返し歌うほどに、子どもたちもフレーズを覚えて、真似するようになったのだ。
リンネはそれをみんなと繰り返して歌いながら、あてもなく、ただ心の思うままに舞い踊った。
そのエルフの伝統と、リンネの感情を載せた歌と踊りは、気づけばもう一度広間に人を集めていた。
惚けたように黙って見ているだけだった人々に、声がかけられる。
「さあ、さあ、皆さん――見ているだけでご満足ですか? 楽器なら、ありますよ!」
アオサギの詩人が、パンパンと手を叩いて注目を集めた先には、カラフルな布の上に、満載された楽器があった。
人々は好奇心と、抑えきれぬ情動のままに楽器を手にとり、しげしげと見つめては——、
「これ……おれの故郷にあったやつだ!」
「ああ……村祭りで、これの演奏を見にいったことがある……」
「わたしでもできるかしら?」
大人たちは、楽器を手にとって、我慢ならずに演奏し始める者もいた。
不安そうな者には、ホーマーが優しく声をかける。
「音楽は、まず心からですよ」
巧みな演奏、拙い演奏、色んな音が協和して――リンネの歌と踊りは白熱した。
楽器を持てない者からも、口笛や拍手、色んな声援が飛んでくる。
「『ぼくは、雨になるよ——雨になるよ――』」
気づけば、広間の会場一帯が歌っていた。
それが勇者シロルの声とも、アスラ王の心とも、魔王の悲嘆とも知らないまま。
たしかに、リンネの声を通して、人々は、〝彼ら〟を知った。
かつてこんな思いを抱いた者がいるということに――知らずに涙し、歌い、踊りを拍手した。
すると、彼らの頭上に灰色の雲が集まり出した。
本当に雨が降り出したのだ。
雨粒を顔に受けた人々は、少女の歌と踊りがこれを呼んだのだと崇め、称え、祀った。
しかし、ふいに黒雲が立ち込め、その中が割れた——。
急な雷と強雨に、人々はそれから逃れようと屋根を求めて走り出す。
しかし、すぐに彼らは足を止めることになった。
割れた黒雲の中に、大きな影があった。
それはゆっくりと地上を目指し、飛んでくる。
――巨大な黒い魔導鎧、黒竜の兜に、何より、それを異形たらしめる、六枚の翼。
それが魔王と知る者も、そうでない者も、逃げ出した。
雨に打たれながら、雷鳴を背後に、人々は霧散した。
だが、リンネはただひとり、降りてくる影を待っていた。
濡れた顔で、地上に降り立った〝彼〟を見上げると――にっこりと笑顔を浮かべる。
「〝それ〟——重たくない?」
あまりに巨大な、塔のように高い魔導鎧を着たその者は、重く、静かに答えた。
「ああ…………そうだな」
その瞬間、彼の鎧の内部から光が洩れる。
禍々しい駆動音を放っていた魔導鎧は、内側から砕け、崩壊し、ばらばらと残骸になって地面に転がった。
強い雨が、柔らかな小雨になる。雲の切れ間から、光も漏れていた。
その光に照らされ、鎧の中から出てきたのは——翼を生やした、長い銀髪で、褐色の肌の男だった。
聖者のように白く長い衣のみをまとって、美しい微笑みを浮かべた彼は、リンネに言った。
「――ありがとう」
「溺れたところを助けてくれたから、お返しだよ」
リンネは、大切な親友に向かって、えへへ、と笑い返した。
そのとき、空から何人かのハーピーが飛んできて、ザヤじゅうに伝達を叫ぶ。
「――傭兵国家に、交渉団が襲われている!! 援軍を!! 援軍を!!!!」
その声に、リンネと、彼は目を見合わせた。
空から急速に黒い竜が降ってきて、リンネの目の前に首を垂れる。
「……お嬢様、どうやら大変な事態のようです。私たちでも、対処できるかわからないほどの……」
アンジュは、悲愴だが、どこか覚悟を据えた声で言った。
「〝勇者〟様も援軍に加わりましたが、クロトさんと彼は、ほとんどの力を使い果たしているそうです。敵は、少なくとも五千騎……このアンジュ一体でも、どれだけやれるか……」
「わたしが行こう」
アンジュの言葉に、彼が片手を掲げた。
「失礼ですが、あなたは……?」
その答えに、彼は一瞬リンネを見ると、彼女は「自分の呼ばれたい名前で、いいんじゃない?」と答えた。
彼は一瞬、思考して、そして、透徹とした声で、宣言した。
「わたしは——リンネの生み出した物語の登場人物。『奴隷の王子シロル』、『魔導王アスラ』、『魔王アストラギガス』、すべての人生、歴史、人格を統合した精神体——『真王アスラ』とでも、名乗ろうか」
その言葉の厳かさに、アンジュは自然と首を垂れていた。
「わたしは飛べるが、きみのほうが速いな」
「おそらくは……」
「では、頼む」
そう言ってアスラは浮遊すると、アンジュの背に掴まった。
リンネは、迷いを秘めたまなざしで彼を見上げていた。
「あの――わたし、行ったら……やっぱり、迷惑かな?」
「そんなことない」
アスラはふっと柔らかく――シロルのように笑った。
「世界で一番、頼りになる友達だ」
そして、彼は片手を差し伸べた。
あのときの、王子様だったときの彼のように。
「うん!」
リンネは迷いもなく、親友の手をとって、アンジュの背に乗った。
「お嬢様――このアンジュは、誤解していました。真の救世主は誰なのかと、今まで迷って、迷って……勝手に、苦しんでいました」
「アンジュ……そんな、いいんだよ。もうそんなの——」
使命のために心を痛め続けたアンジュを思い、リンネはそっと鱗をなでた。
ですが、とアンジュは毅然と答えた。
「救世主がおひとりだなんて――予言にはありませんでいた。すべての人のために行動を起こすアイオーリア様も、こうして奇跡を起こし続けるお嬢様も——私にとっては、どちらもまことの救世主! 私は、——このアンジュは、もう迷いません!!」
そして、大きく羽ばたき、アンジュは広い空を飛翔する。
「いやっほー!」
大きく風を受け、後ろのアスラに背を支えられながら、リンネは叫んだ。
「みんながいれば――絶対、なんとかなるよぉ!!」
「………ああ、そうだな」
真王アスラは、自分が物語の中に生きて、ようやく知った。
生前の自分は——彼女のような友を、ひとりでも作るべきだったのだ。
自分ひとりで背負わずに、誰かの手を頼ること。
それが今、物語の世界の住人として生きて、ようやくわかった——。
薄い涙が、空に溶けて、なくなっていく。
その小さな雫は、やがて雨となって、大地を潤すだろう。




