オオカミの王・後編
全身から血を流すウルリーフは、彼女の名を叫ぶ代わりに「ウォオォ―――ン!!」と力強く咆哮すると、四つ足で地を翔けた。
そのとき――彼の身体から服が弾け飛び、筋肉と骨格が膨れ上がって、巨大な山脈のような背中になった。
四肢は完全にオオカミのそれであり、彼は今、人狼から、本物のオオカミに変化していた。
巨大なオオカミがリンネに走り寄り、彼女に飛びかかったシャドウウルフに強力な当て身を食らわせる。
オオカミとなったウルリーフは、リンネの前に立ちはだかると、狂暴な唸り声をあげて、血に飢えたまなざしで影の中のオオカミまで見通すかのようだった。
「ウルリーフ、くん……?」
「人狼は、満月の夜だけ、オオカミになれるんだ。でも、今曇りだから、そんな強くない……」
ウルリーフは自信なさげにつぶやくと、あたりの影を睨みつけた。
全身灰色の身体は、完全に成熟したオオカミのそれで、魔獣と見まがうほどに巨大だった。
これで、そんな強くない、ってことは……。
だが、今までの攻撃で傷ついたウルリーフに、シャドウウルフたちは容赦なく襲いかかった。
四方から飛びかかってくる敵に、ウルリーフは牙を突き立て、前脚で叩きのめし、当て身を食らわせ、優勢を保っていた。
だが、ウルリーフは突然、後ろ脚に激痛を感じた。
振り返ると――そこには、脚を斬られて動けなくなったはずの敵のボスが、影から這い出してウルリーフに噛みついていた。
「こいつ……這ってきたのか……!!」
敵のボスらしい執念深さに舌を巻くも、動きを封じられたウルリーフに向かってシャドウウルフが殺到する。
目の前でウルリーフが大量のオオカミに噛まれ、食いちぎられていくさまに、リンネは恐怖で声もあげられなかったが——祈った。
(月が晴れますように……月が、晴れますように!!)
リンネが必死にそう祈った瞬間――ぶわり、と夜風が平原の草をなびかせた。
その風は、月から雲を払いのけた。
瞬間、
「ウォオオオ――――ン!!」
今までと桁違いのウルリーフの大咆哮が、こだまする。
ただでさえ巨大だった彼の身体は、さらに丈を増し――大山のような巨大なオオカミとなった。
全身に食らいついていたオオカミなど、歯も生えていない子犬のようなもの。
全身の毛を逆立て、身を振るったウルリーフに、すべてのシャドウウルフが払いのけられる。
それから、殺戮が始まった。
巨大化したウルリーフは、口の中でシャドウウルフを噛み砕き、吐き捨てると、次のもう一体へと移動する。しかも、彼は影に逃げ込んだシャドウウルフも、影の中に鼻先を突っ込んで無理やり噛みつくと、骨まで砕いて影の外に放り出した。
灰色の毛が血まみれになるまで、ウルリーフは戦った。
その頃には、すでに立ち上がることができるシャドウウルフはいなくなっていた。
「はは……やった。勝てちゃった……俺ひとりで……大人の群れに……」
ウルリーフはどこか実感の伴わない声でつぶやくと、爪で引っかかれた鼻をぺろりと舐める。
リンネは、その巨大な、どこか神話のような佇まいの獣を、神聖なものを見るような気持ちで見つめた。
「おねーちゃん……ちゃんと守れた!」
しかし、無邪気に綻ぶ目も、嬉しそうに振っている尻尾も、何ひとつ変わらずそれがウルリーフだと告げてくる。
血まみれの身体に、リンネは抱きついた。
「ありがとう……ウルリーフくん……! ウルリーフくん……最強だね……!」
「へへーん、だって俺、焼き肉の国の王子だもーん」
巨大な頭を胸に抱えて、感謝の涙を浮かべるリンネに、ウルリーフはハッハッハッと忙しなく、嬉しそうに息をあげる。
シャドウウルフも、魔獣使いも倒した。これでひと息つける――そう確信した瞬間、大量の矢の雨が闇夜を切り裂いた。
「――おねえちゃんッ!!」
いち早く気がついたウルリーフは、リンネに半ば体当たりを食らわせ、自分と思いきり距離をとらせる。
リンネがなんのためにそんなことをしたのか考えているあいだに――血に濡れた灰色の毛並みに、矢が大量に突き立てられた。
「ウルリーフくん!!」
「ちくしょう……まだ射手が隠れてたんだ! オオカミだけで片付けさせようとして、自分たちは隠れやがって! これだから人間は卑怯なんだ!!」
森から続々と射手が出てくる。
彼らはじりじりと距離を詰めながら、リンネをかばうウルリーフに矢を浴びせた。
「ウルリーフくん!! もういいよ! 逃げようよ!!」
「俺は……もう走れない。おねえちゃんを乗せて、逃げられない」
ウルリーフは意を決したように言った。
「だから、俺ここで、全力で足止めする……おねえちゃんを守りたいから!!!!!」
そう言って彼は、射手たちに向き直ると、十分に傷ついたはずの四肢を動かし、疾駆を始めた。
咆哮をあげながら飛びかかってくる巨大な怪物のようなオオカミに、射手たちは慌てて弓を引き、矢を当て続けるが、ウルリーフの勢いは止まらない。
射手のひとりの頭を砕くと、胴体を振り回してべつの射手を吹き飛ばす。
ふたたび猛獣と化したウルリーフをただ見守るしかないリンネは、急にあることに気がついた。
「月が……また隠れちゃった……!!」
リンネの希望を覆い尽くすように、月が、雲に封じ込まれる。
そして、怪物のようなサイズだったウルリーフの身体が、小さく伸縮している。
矢を受けすぎて、毛並みが見えないほど傷ついたウルリーフが、苦しそうに唸り声をあげる。
今まで巨大な身体でごまかしいた痛覚に、限界がきたのだ。
弱った彼の様子を見逃さず、射手たちはついに剣を抜いてウルリーフに突きつけた。
リンネの聞いたこともないような苦しみの絶叫をあげて、ウルリーフは血をまきちらし、突き刺さった剣から逃れようと暴れる。
「――こいつで最後だ!!」
目についた者に滅茶苦茶に襲いかかる状態になったウルリーフの背中に、ひときわ大きな剣が突き立てられる。
リンネは、まばたきもせず、その瞬間を見せられていた。
がくっと身を伏せたウルリーフの周りは、血の海だった。
身じろぎひとつしない彼の身体を見て「この、バケモノがよぉ」と射手のひとりが蹴りを入れる。
その瞬間、ウルリーフは彼の足に噛みついた。
強靭な顎で骨まで噛み砕かれ、射手は絶叫をあげた。
「こいつ……まだ生きてやがらぁ!!」
驚異的な生命力と闘志に、射手たちは恐れをなして距離をとる。
ウルリーフは噛みついた脚を、首を振って放り捨てると、ゆっくりと立ち上がった。
さっきまでの大山のような身体とは比較にもならないほど小さいのに、彼は堂々と立ち上がった。
そして、敵たちを睨み据えたまま——顎を空にあげ、咆哮した。
「ウオオオオオオオオオーーーーーーーンッッ!!!」
矢を受け、剣を受け、とても立ち上がれるとも思えない満身創痍の出で立ちで。
そのオオカミは、たしかに、吠えたのだ。
われに返った人間たちは、じりじりとウルリーフに詰め寄り、弓矢やナイフを片手に向かっていった。
その瞬間、彼はまた貫かれ、突き刺され、引き裂かれる。
リンネは、もう涙も出なかった。
自分を守るために、限界を超えてウルリーフは戦った。
戦えない自分を守るために――その事実に気づいたリンネは、気がつけば叫んでいた。
「けがした動物をいじめるのは——やめろぉ!!! 卑怯者!! こっちにかかってこい!!!」
がくがくと震える脚で、前に一歩踏み出ると、リンネは自分に注意を引いた。
だが、射手たちは、動かなくなったオオカミから少女に視線を移すと、
「んだ、こいつ……エルフか?」
「生け捕りにするのは姫様だけだって話だろ」
「ひひ……でも、こいつ、良い金になりそうだな……」
下卑たまなざしが、一気に自分に注がれる。
嫌な思い出が瞬時に全身を硬直させた。
だが、ウルリーフは戦った。
妻である自分が戦わずして――どうするのだ!
「うわー!! かかってこい――」
そう言いかけた瞬間、近づいた射手の身体が、〝浮いた〟。
突然のことに誰もが困惑したが、闇夜に紛れて近づいた大きな翼があったのだ。
鋭い鉤爪を男の肩に食い込ませたそれは、天高く舞い上がると――男を地に落とした。
その瞬間、バサバサバサッ!!と翼が強くはためく音があたりを支配し、男たちの悲鳴がこだました。
「――獣の王に敬意を払わぬ愚か者どもが!! 〝翼の王〟が相手になろう!!」
真紅の羽根を散らして、美青年と見まがうほど凛々しい、ハーピーの女王が怒号を発した。
彼女の号令で群れがすべて男たちに襲いかかり、鋭い鉤爪で身体を引き裂き、天高くまで連れ去って、地上に落とし始める。
リンネは、その光景を茫然と眺めていた。
半ば放心状態だったリンネの肩に、女の手がかかる。
「リンネちゃん……! あなた大丈夫!?」
短い銀髪に、黒い角、黒いビキニを着た女性は心配そうに言った。
その声にわれにかえったリンネは「ベベーネ……さん……」とようやく彼女の名前を思い出す。
「あの王の咆哮がわれわれを呼び寄せた。種族は違えど、あれは王威を持つ者の叫びだとわかった。ザヤを目指して飛んでいたところだったが……恩人を助けられてよかった」
背の高い女王――ことランカがリンネのもとにやってくる。
その頃にはもう人間はすべてハーピーに息の根を止められていた。
「ランカ、おねーちゃん……」
「ああ、うちだ。久しぶり」
見違えるほど美しくなったが、そのいたずらな微笑みは、やはり変わらない。
命が救われたことを実感し、安堵しかけたが、その瞬間、リンネは跳ねるように駆け出した。
剣と矢の突き刺さった、動かなくなったオオカミのもとへと。
「すさまじい健闘ぶりだった。群れを守る王にふさわしい傷つき方だ。敬意に値する」
リンネとともにオオカミの身体に近づいたランカは、胸の前に腕を置き、一礼する。
リンネは、恐る恐るウルリーフの頬をなでた。
その血で濡れて固くなった毛は、もうもふもふではなかった。
何度も頬をなでて、名前を呼ぶが——答えは、返ってこなかった。
「この御方は…………お前を守ったのだ。誇れ、リンネ」
ランカは、冷徹さを保った声で、リンネの頭に手を乗せる。
溢れ出す涙を止められず、リンネはウルリーフに縋って泣いた。
「痛かったよね……苦しかったよね……ごめんねぇ、ウルリーフくん……!! ほんとに、ごめん…………!!!」
思いつくだけの言葉を並べたてながらも、結局、謝ることでしかできなかった。
ハーピーたちがオオカミの王の死に敬意の沈黙を守る中、リンネの泣きじゃくる声が響いた。
「待て……何か様子がおかしいぞ!」
異変に気がついたランカが、リンネの肩を揺さぶって離そうとする。
リンネはそれに抗ったが、大きな鉤爪のついた手に引き剥がされて、白く発光するウルリーフの身体を目にする。
「なに……これ!?」
思わず問いを投げかけた瞬間、ぼわん、と白い煙があがった。
ウルリーフの身体のあったところに、年端もゆかない人狼の子どもたちの身体が投げ出されている。
「ここ……どこ……?」
「あれ……おねえちゃん……?」
みんな——ウルリーフの弟と妹たちだ。
たしか、悪い魔女がウルリーフを強い奴隷にするために、きょうだいたちを生贄にして彼を大人に変えたときいた。
もしかしたら――ウルリーフが命を落としたことで、きょうだいたちの魂が解放されたのかもしれない。
「……おにたん……?」
一番小さい、まだ乳児とも呼べそうな子が、かたわらにあるものに気がついた。
それは、まだ未成熟な灰色のオオカミの亡骸だった。
仔犬と呼んでもおかしくはないぐらい、幼い、亡骸。
事実を受け止めたきょうだいたちは、兄の身体に取りすがって泣き始めた。
リンネはその輪の外にただひとり立って、静かに泣いていた。
彼はずっと、自分のことをおねえちゃんと呼んでいた。
それぐらい、まだ彼は幼かったのだ。
(わたしが……守ってあげなきゃ、いけなかったんだ……)
雲の切れ目にこぼれる月明かりだけが、リンネの濡れた頬を静かに照らしていた。




